Sat In Your Lap。II
田中宏輔

 あの原稿を送った後のことだ。ジュネの『葬儀』を読んでいたら、こんなことが書いてあって、驚かされた。


 とつぜん私は孤独におそわれる、なぜなら空は青く、樹々は緑で、街路は静まりかえり、そして一匹の犬が、同じように孤独に、私の前を歩いて行くからだ。
(生田耕作訳)


しかし、もっと驚かされたのは、このつづきにある、つぎの箇所である。


 私はゆっくり、しかし力づよい足どりで進んでいく。夜になったみたいだ。私の前に展ける風景、その間をぬって私が君主然と通りぬけていく、看板や、広告や、ショーウィンドウをつけた家々は、この本の作中人物たちと同じ素材でできているのだ、また幼時の名残りがそこにみとめられるように思える、青銅けつあなの毛のなかに口と下で没頭しているときに、私が見出す幻影とも、それは同じ素材でできている。
(生田耕作訳)


ここのところと、つぎに引用する、デュラスの『北の愛人』のなかにある、


 少女は男をじっと見つめる、そしてはじめて彼女は発見するのである、──これまでいつも自分とこの男とのあいだには孤独が介在していた、この孤独、中国風の孤独こそが、この自分を捉えていた、その孤独はあの中国人のまわりにひろがる、あのひとの領土のようなものだったのだ、と。そして、また同様に、その孤独こそが、自分たちふたりの身体、ふたりの愛の場であったのだ、と。
(清水 徹訳)


といった言葉を合わせると、孤独というものが、心象や概念を形成する原動力である、というだけではなく、まるで場所のようなものでもあって、そこで心象や概念といったものが形成されるのだとも考えられたからである。

バシュラールの『夢みる権利』の第二部に、


 深さの原理とは孤独のこと。われわれの存在の深化の原理とは、自然とのますます深い合体のことなのだ。
(渋沢孝輔訳)


とあるが、孤独であればあるほど、同化能力が高まるのだろうか。真空度が増せば増すほど、まわりのものを吸いつける力が強くなっていくように。


ああ、これがあらゆることのもとだったんだ。
(アントニイ・バージェス『ビアドのローマの女たち』7、大社淑子訳)


そうして、そういった能力がますます高くなっていくと、しまいには、


認識する主体と客体は一体となる。
(プロティノス『自然、観照、一者について』8、田之頭安彦訳)


といった境地にまで至ることがあるかもしれない。しかし、それは、あくまでも、そういった境地に至ることがあるというものであって、じっさいに、認識する主体と客体が一体化するということではないのである。


 さもなければ、知性が認識の対象を変えることはできないはずで(……)知性が認識の対象を変えるとは、或る可知的形象によって自己が形成されることをやめて別の可知的形象を受けることであり、このようなことができるためには、可知的形象を受ける主体としての知性の実体と、この実体に受け取られる可知的形象とは、別のものでなければならないからである。
(トマス・アクィナス『神学大全』第一部・第十四問・第二項・訳註、山田 晶訳)


 やはり、このあいだ、わたしが書いたように、「犬が犬であることにうんざりしているように見える」のは、その犬を見ている人が、「その犬に自分の魂の一部分を与える」からであり、その人が、「自分の魂のなかに、自分の魂とその犬の魂とが共有する領域を設ける」からであろう。

ヤリタ・ミサコの


痛い とわかること は つらい こと
(『態』)


という詩句には、思わずうなずかされてしまった。プルーストの『失われたときを求めて』のなかに、


 それのような悲しみは事件ののち長く経ってからしか理解されないものなのである、つまりそれを感じるためには、それを「理解する」ことが必要だったのだ、
(第四篇・ソドムとゴモラI、井上究一郎訳)


 そのような実在は、それがわれわれの思考によって再想像されなければわれわれに存在するものではない
(第四篇・ソドムとゴモラI、井上究一郎訳)


 理知がそれを照らしたときに、理知がそれを知性化したときに、はじめて人は、自分が感じたものの形象を見わけるのだが、それはどんなに苦労を伴うことであろう。
(第七篇・見出された時、井上究一郎訳)


 悲しいという感じはするが、それがどのような悲しみなのかわからないときがある。漠然としていることがある。しかし、そこに言葉が与えられてはじめて、それがどういう悲しみか、どう悲しいか、つぶさにわかることがある。


ヴァレリーの『ユーパリノス あるいは建築家』に、



観念は視線を向けられたとたんに感覚となる。
(佐藤昭夫訳)


とある。観念といったものも、いったん感覚といったものを通さなければ、それをほんとうに感じとることができないものなのであり、そうしたのちに、ようやく、魂のなかに、精神のなかに、わたしたちは、了解されうる意味を形成してやることができるのであろう。

 ところで、ヴァレリーの『海辺の墓地』に、


さわやかさが、海から湧きおこり、
私に私の魂を返す……おお、塩の香に満ちた力よ!
(粟津則雄訳)


とあるが、


与えよ、さらば与えられん
(ロレンス『ぼくらは伝達者だ』松田幸雄訳)


というように、「それに自分の魂の一部分を与える」からこそ返されるのであろう、もとのものとは同じものではないが、なにものかに触れて変質した「自分の魂の一部分」が……。


 私は自然をもっと高い見地から考察したい気持ちにさそわれる。人間の精神は万物に生命を与えるが、私の心にも一つの比喩が動き出して、その崇高な力に私は抵抗することができない。
(『花崗岩について』小栗 浩訳)


と、ゲーテが述べているが、同じような内容の事柄が違う言葉で言い表わされているように思われないだろうか。人間の精神が万物に生命を与えるのと同時に、また、万物の方も人間の精神に生命を与えているのである、と。そういう意味に、ゲーテの言葉を受けとると、わたしが前の論考に書いた、「人間だけではなく、人間以外の事物や、言葉といった実体のない概念のようなものであっても(……)互いに魂のやり取りをして、それぞれの魂のなかに、互いに魂を共有する領域を設けていると考えればよい」といったところも、よりわかってもらえるものとなると思うのだが、いかがなものであろうか。


エミリ・ブロンテの『わが魂はひるむことを知らない』に、


地球や月が消滅し、
太陽や宇宙が無に帰し、
なんじただひとりあとに残るとも、
ありとあらゆる存在は、なんじにありて存続する。
(松村達雄訳)


とあるが、これなども、まさしく、人が、いったん、「自分の魂のなかに、自分の魂とその事物や事象の魂とが共有する領域を設ける」からこそ、いえることだと思われるのである。かつて自分の魂のなかで、共有する領域を設けたことのある事物や事象を、それがあったときと同じ状態で想起させることができれば、たとえ、それがじっさいには、自分の魂のそとで消滅していたとしても、自分の魂のなかでは、それが、ずっと存続しているといえるのではないだろうか。


ふだん、存在は隠れている。存在はそこに、私たちの周囲に、また私たちの内部にある。
(サルトル『嘔吐』白井浩司訳)


無意識に存在する物のみが真の存在を保つ、
(トーマス・マン『ファウスト博士』一四、関 泰祐・関 楠生訳)


永遠の存在とはなにかやっと分かってきそうだ
(ノヴァーリス『青い花』第一部・第八章、青山隆夫訳)


かつて存在したものは、現在も存在し、これからも永久に存在するのだ。
(ロバート・A・ハインライン『愛に時間を』3、矢野 徹訳)


人間は永遠に生きられる。
(ドナルド・モフィット『創世伝説』下・第二部・12、小野田和子訳)


人間こそがすべてなのだ。
(エマソン『償い』酒本雅之訳)


 しかし、それも、孤独、孤独、孤独、みな、そもそものところ、人間というもの自体が、孤独な存在であるからこそ、である。


窮迫と夜は人を鍛える。
(ヘルダーリン『パンと酒』川村二郎訳)


孤独、偉大な内面的孤独。
(リルケ『若い詩人への手紙』高安国世訳)


おそらく、最も優れたものは孤独の中で作られるものであるらしい。
(ヴァージニア・ウルフ『波』鈴木幸夫訳)


    *


 これら、二つの遺稿に共通するものとして、詩人が、他の原稿のなかで「二層ベン図」なるものについて解説していたことが思い出される。
 
 その前に、懐かしいものをお目にかけよう。これは、詩人がもっともよく引用していた言葉である。


 全きものと全からざるものとはいっしょにつながっている。行くところの同じものも違うものも、調子の合うものも合わないものもひとつづきだ。万物から一が出てくるし、一から万物も出てくる。
(『ヘラクレイトスの言葉』一〇、田中美知太郎訳)


詩人は、ヘラクレイトスのこの言葉を頻繁に繰り返し引用していたが、ノヴァーリスの


 可視のものはみな不可視のものと境を接し──聞き取れるものは聞き取れないものと──触知しうるものは触知しえないものと──ぴったり接している。おそらくは思考しうるものは思考しえないものに──。
(『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)


といった言葉もまた、何度も引用していた。この引用のなかにある、ノヴァーリスのいう「触知しうるもの」を「顕在意識」、あるいは、単に「意識」や「言葉」といった言葉に、「触知しえないもの」を「潜在意識」あるいは「まだ言葉にならないもの、言葉になる以前のもの」といった言葉に置き換えると、この二つの対応する概念が、他の原稿にある、二層ベン図に照らし合わせてみれば、詩人の考えていた、「思考する」ということが、いったいどういうことなのか、といったことを、窺い知ることができるのではないだろうか。

 ところで、二層ベン図とは、ふつうのベン図の下に、空集合の層があるという図であって、第二の層の空集合が浮き出て、第一の層の実集合になる、というのが詩人の考えであったが、その空集合を、「孤独」という言葉に変換すると、二つ目の原稿のなかでいっていることになるのだろう。ジュネの「同じ素材」というのが、詩人のいうところの「空集合」であろうか。
詩人は、「自我」を、どのような実集合にもなり得る空集合に見立てていた。
 
 詩人が残したメモのなかに、『徒然草』からの抜粋があって、冒頭に紹介した一つ目の原稿に、セロテープで貼り付けられていた。それをここで引用することにしよう。二箇所から引かれていた。


 筆をれば物かれ、楽器をればをたてんと思ふ。盃を取れば鮭を思ひ、さいを取ればたんことを思ふ。心は必ず事にれてきたる。
(第百五十七段)


 筆を持つとしぜんに何か書き、楽器を持つと音を出そうと思う。盃を持つと酒を思い、さいを持つとをうとうと思う。心はかならず何かをきっかけとして生ずる。
(上、現代語訳=三木紀人)


 ぬしある家には、すずろなる人、心のままにり来る事なし。あるじなき所には、道行きびとみだりに立ちり、きつね・ふくろふのやうな物も、人げにかれねば、所得ところえ顔に入りすみ、だまなどいふ、けしからぬかたちもあらはるるものなり。
 また、鏡には色・かたちなきゆゑに、よろづのかげきたりてうつる。鏡に色・形あらましかば、映らざらまし。
 くうよく物をる。我等が心に念々のほしきままにきたり浮ぶも、心といふもののなきにやあらん。心にぬしあらましかば、胸のうちに、そこばくのことはきたらざらまし。
(第二百三十五段)


 主人がいる家には、無関係な人が心まかせに入り込むことはない。主人がいない所には、行きずりの人がむやみに立ち入り、きつねやふくろうのような物も、人の気配に妨げられないので、わが物顔で入って住み、木の霊などという、奇怪な形の物も出現するものである。
 また、鏡には色や形がないので、あらゆる物の影がそこに現われて映るのである。鏡に色や形があれば、物影は映るまい。
 虚空は、その中に存分に物をれることができる。われわれの心にさまざまの思いが気ままに表れて浮かぶのも、心という実体がないからであろうか。心に主人というものがあれば、胸のうちに、これほど多くの思いが入ってくるはずはあるまい。
(上、現代語訳=三木紀人)


 最初のものは、『徒然草』の第百十七段からのもので、それにある「心は必ず事にれてきたる。」という言葉は、詩人が引用していた、ゲーテの「人間の精神は万物に生命を与えるが、私の心にも一つの比喩が動き出し(……)」といった言葉を思い出させるものであった。あとのものは、『徒然草』の第二百三十五段からのもので、それにある「鏡には色・形(かたち)なきゆゑに、よろづのかげきたりてうつる。鏡に色・形あらましかば、映らざらまし。」とか「くうよく物をる。我等が心に念々のほしきままにきたり浮ぶも、心といふもののなきにやあらん。心にぬしあらましかば、胸のうちに、そこばくのことはきたらざらまし。」といった言葉は、「多層的に積み重なっている個々の二層ベン図、それぞれにある空集合部分が、じつは、ただ一つの空集合であって、そのことが、さまざまな概念が結びつく要因にもなっている。」という、詩人の考え方を髣髴とさせるものであった。あまり説得力のある考え方であるとはいえないかもしれないが、たしかに、さまざまな概念のもとになっているものが、もとは同じ一つのものであるという考え方には魅力がある。詩人は、この空集合のことを、しばしば、「自我」にたとえていた。また、第二百三十五段にある「ぬしある家には、すずろなる人、心のままにり来る事なし。あるじなき所には、道行きびとみだりに立ちり、()ルビ狐=きつね}・ふくろふのやうな物も、人げにかれねば、所得ところえ顔に入りすみ、だまなどいふ、けしからぬかたちもあらはるるものなり。」とか「くうよく物をる。」とかいった言葉は、詩人の「孤独であればあるほど、同化能力が高まるのだろうか。真空度が増せば増すほど、まわりのものを吸いつける力が強くなっていくように。」という言葉を思い起こさせるものであった。

 ただ単に、詩人が書いていたことを追っていただけなのに、こうやって、詩人の原稿やメモを見ながら、言葉をキーボードで打っていると、詩人がどこかに書いていたように、そのうち、自分が言葉を書いているような気がしなくなってきた。しだいに、言葉自体が、ぼくに書かせているような気がしてきた。というよりも、さらに、言葉自体が書いているのではないかとさえ思えてきた──ぼくの目と頭と指を使って。


どちらが原因でどちらが結果なのか、
(アラン・ライトマン『アインシュタインの夢』一九〇五年六月十日、浅倉久志訳)


原因と結果の同時生起
(ブロッホ『夢遊の人々』第三部・七、菊盛英夫訳)


 詩人が遺したノートにある言葉を使ってみたのだが、この「原因と結果の同時生起」という言葉はまた、詩人が別のノートに書き写していた、マルクス・アウレーリウスのつぎの言葉を思い出させた。


つねにヘーラクレイトスの言葉を覚えていること。
(『自省録』第四章・四六、神谷美恵子訳)


 宇宙の中のあらゆるもののつながりと相互関係についてしばしば考えて見るがよい。ある意味であらゆるものは互いに組み合わされており、したがってあらゆるものは互いに友好関係を持っている。なぜならこれらのものは、[膨張収縮の]運動や共通の呼吸やすべての物質の単一性のゆえに互いに原因となり結果となるのである。
(『自省録』第四章・三八、神谷美恵子訳)



自由詩 Sat In Your Lap。II Copyright 田中宏輔 2024-06-08 07:14:13
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