Sat In Your Lap。I
田中宏輔

『イル ポスティーノ』という映画を見ていたら、パブロ・ネルーダの詩の一節が引用されていた。


俺は人間であることにうんざりしている
俺が洋服屋に寄ったり映画館にはいるのは
始原と灰の海に漂うフェルトの白鳥のように
やつれはて かたくなになっているからだ

俺は床屋の臭いに大声をあげて泣く
俺が望むのはただ 石か羊毛のやすらぎ
俺が望むのはただ 建物も 庭も 商品も
眼鏡も エレベーターも 見ないこと

俺は自分の足や爪にも
髪や影にもうんざりしている
俺は人間であることにうんざりしている
(『歩きまわる』桑名一博訳)


 映画のなかで使われていたのは、たしか、第一連から第二連までだったかと思われるのだが、もしかすると、第三連までだったかもしれない。それにしても、この「俺は人間であることにうんざりしている」というフレーズは印象的だった。俳優がこの言葉を口にしていたときの表情とともに。映画には、ほかにも記憶に残る場面がいくつもあったのだが、もっとも印象に残ったのは、このフレーズと、このフレーズについて考えながらしゃべっているような様子をしていた俳優の表情であった。
 ネルーダの名前には記憶があったので、本棚を探してみた。集英社から出ている『世界の文学』シリーズの『現代詩集』の巻に載っていた。持っている詩集は、すべて目を通していたはずなのに、この詩のこのフレーズに目をとめることができなかったことに恥ずかしい思いがした。自分の感受性が劣っているのではないかと思われたのである。もちろん、年齢や経験の違いが、あるいは、読むときの状況とかの違いが、その詩や、そのフレーズに目をとめさせたり、とめさせなかったりするのだから、劣等感を持つ必要などことさらなく、むしろ、いま、ネルーダの詩のこのフレーズに目をとめることができたということに、自分の感受性の変化を感じ取り、それを成長と受けとめ、祝福するべきであるのだろうけれども。


犬は何処へ行くのか?
(ボードレール『善良なる犬』三好達治訳)


 ここで、ふと、こんなことを思いついた。犬が犬であることにうんざりするということはないのだろうかと。それは、自分が犬にならないとわからないことなのかもしれないけれど、もしも、犬に魂があるのなら、魂を持っているものは感じることができるのだし、また考えることもできるのであろうから、犬もまた、自分が犬であることにうんざりするということもあるのかもしれないと思ったのである。ところで、自分が人間であることにうんざりするというのは、人間にとってもかなり複雑な気分であると思われるので、もしかすると、犬には、自分が犬であることにうんざりするというような能力が欠けているのかもしれないけれど、犬を見ている人間が、自分の気持ちをその犬に仮託して、犬が犬であることにうんざりしているように見えることならば、あると思われる。というより、よくあることのように思われる。しかし、そう見えるためには、少なくとも、人間の方が、犬の魂というか、心情とかいったものを、ある程度は理解していなければならないと思うのだが、仮に魂を領土のようなものにたとえれば、理解するためには、まず、その犬の魂に自分の魂の一部分を与えることが必要で、そうして、そのことによって、その犬の魂の領土のなかに踏み込んで行き、その犬の魂の領土のなかに、その犬の魂と自分の魂の一部分が共存する領域を設け、かつまた、同時に、その犬の魂の一部分を自分の魂のなかに取り込み、自分の魂のなかに、自分の魂とその犬の魂の一部分が共存する領域を設けなければならないと思われるのだが、そういうふうに思われないだろうか。

 ここで、また、このようなことを思いついた。犬といった、多少は知恵のありそうな動物だけではなく、海といったものや、言葉といったものも、自分が自分であることにうんざりするというようなこともあるのではないかと。「海が海であることにうんざりしている。」とか、「言葉が言葉であることにうんざりしている。」とか書くと、なんとなく、海や言葉が人間のように考えたり感じたりしているような気がしてくるから不思議だ。これは、もちろん、わたしが、海や言葉といったものに、わたしの気持ちを仮託して感じ取っているのだろうけれど。「快楽が快楽であることにうんざりしている。」というふうに書くと、いささか反語的な響きを帯びた、陳腐な表現になってしまうが、「悲しみが悲しみであることにうんざりしている。」と書くと、状況によっては、象徴的な、まことに的確な表現にもなるであろう。

 ここで、動物だけではなく、あらゆる事物や事象にも魂というものがあるとすれば、言葉といった実体のない概念のようなものにさえ、魂といったものがあるとすれば、ある人間が他の人間や動物を理解するような場合だけではなく、人間が事物や事象を理解したり言葉を理解したりする場合にも、また、ある事物や事象が他の事物や事象を理解したり人間や言葉を理解したりする場合にも、さらにまた、ある言葉が他の言葉を理解したり人間や事物や事象を理解したりする場合にも、互いに魂のやり取りをし合って、他のものの魂のなかに、自分の魂と共有する領域を設け、かつまた、同時に、自分の魂のなかに、他のものの魂と共有する領域を設けていると考えればよいと思われる。

 魂を領土といったものにたとえた場合には、「他のものの魂のなかに、他のものの魂と自分の魂の一部分が共存する領域を設け、かつまた、同時に、自分の魂のなかに、自分の魂と他のものの魂の一部分が共存する領域を設ける」ことと、「他のものの魂のなかに、自分の魂と共有する領域を設け、自分の魂のなかに、他のものの魂と共有する領域を設ける」こととは、同じ内容のものであって、ただ表現が異なるだけのものであるのだが、しかし、このような考え方に違和感を持つ人がいるかもしれない。いや、そもそものところ、魂といったものを領土のようなものにたとえること自体に異議を唱える人がいるかもしれない。魂を領土にたとえたのは、理解するということを、モデルとして目に浮かべやすい形で表現したつもりなのであるが、数学でいうところの集合論において、ベン図という図形を目にしたことがないだろうか。二つの集合の間に交わりがあるとき、その交わった部分を、その二つの集合の交わり、あるいは、共通部分というのだが、それから容易に連想されないであろうか。理解するとは、異なる魂が共存する領域を設けること、あるいは、異なる魂との間に共有する領域を設けることである。こういった考え方が、わたしにはぴったりとくるものなのだが、そうではない人もいるかもしれない。そのような人には、いったい、どのように説明すればよいだろう。
そうだ。リルケが、『ほとんどすべてのものが……』のなかに、


すべての存在をつらぬいてただひとつの(ヽヽヽヽ)空間がひろがっている。
世界内面空間。鳥たちはわたしたちのなかを横ぎって
しずかに飛ぶ。成長を念じてわたしがふと外を見る、
するとわたしの内部に樹が伸び育っている。
(高安国世訳)


と書いているのだが、このなかにある、「世界内面空間」といった言葉を、ベン図において長方形全体で示される全体集合の図形と合わせて思い起こしてもらえれば、「魂の領土」や「魂の領域」といった言葉を、すんなりと受け入れてもらえるかもしれない。
 ところで、ベン図は平面上に描かれる図形なのだが、ここで、いま、ベン図の描かれた平面が数え切れないほどあって、その数え切れないほどある平面が積み重なって空間を構成していると想定してもらえれば、より合理的な説明ができると思われる。というのも、さまざまなものとの間に同時に「魂の領域」を共有させるためには、その「世界内面空間」になぞらえた「魂の領土」が多層的なものであり、そうして、重なり合った層は固定されたものではなく、瞬時に移動できるものであって、どれほど遠く離れた層であっても、一瞬のうちに上下に重なり合うことがある、と考えればよく、そう考えると、自分の頭のなかで、唐突に二つの事柄が結びつくことにも容易に説明がつくからである。
「魂の領土」とか「魂が共存する領域」とか「魂を共有する領域」といった言葉が、どうしても受け入れられない人には、本稿に書かれてある「魂の領土」とか「魂が共存する領域」とか「魂を共有する領域」とかいった言葉を、ただ単に「魂」という言葉に置き換えて読んでもらえばよいと思うのだが、しかし、そもそも、「魂」といったもの自体の存在を否定する人もいるかもしれない。自分には、魂などはないと考えている人もいるかもしれない。だが、たとえ、そういった人であっても、自分には「自我」というものなどはないと考えるような人はほとんどいないであろう。したがって、本稿のなかで、「魂の領土」とか「魂が共存する領域」とか「魂を共有する領域」とかいった言葉が不適切であると思われる人には、それを「魂」という言葉に置き換えて読んでもらえばよいだろうし、「魂」といった言葉でさえも適当ではないと思われる人には、それを「自我」といった言葉に置き換えて読んでもらえばよいと思う。
 最後に、詩人や作家たちのつぎのような詩句を引用して、本稿を終えることにしよう。


古びてゆく屋根の縁さえ
空の明るみを映して、──
感じるものとなり、国となり、
答えとなり、世界となる。
(リルケ『かつて人間がけさほど……』高安国世訳)


自然の事実はすべて何かの精神的事実の象徴だ。
(エマソン『自然』四、酒本雅之訳)


言葉は現実を表わしているのではない。言葉こそ現実なのだ。
(フィリップ・K・ディック『時は乱れて』4、山田和子訳)


私はうたはない
短かかつた燿かしい日のことを
寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ
(伊藤静雄『寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ』)


素材が備わりさえすれば
言葉はこちらが招かずとも
自然に出てくるものなのです。
(ホラティウス『書簡詩』第二巻・三、鈴木一郎訳)


自然界の万象は厳密に連関している
(ゲーテ『花崗岩について』小栗 浩訳)


あらゆるものがあらゆるものとともにある
(ホルヘ・ギリェン『ローマの猫』荒井正道訳)


たがいに与えあい、たがいに受け取りあう。
(ヴァレリー『ユーパリノス あるいは建築家』佐藤昭夫訳)


順序を入れかえたり、語をとりかえたりできるので、たえず内容を変える
(モンテーニュ『エセー』第II巻・第17章、荒木昭太郎訳)


res ipsa loquitur.
物そのものが語る。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)


 そしてこの語りたいという言語衝動こそが、言葉に霊感があるしるし、わたしの身内で言葉が働いている徴だとしたら?
(ノヴァーリス『対話・独白』今泉文子訳)


万物は語るが、さあ、お前、人間よ、知っているか
何故万物が語るかを? 心して聞け、それは、風も、沼も、焔も、
樹々も蘆も岩根も、すべては生き、すべては魂に満ちているからだ。
(ユゴー『闇の口の語りしこと』入沢康夫訳)


 魂は万物をとおして生き、活動しようとひたむきに努力する。たったひとつの事実になろうとする。あらゆるものが魂の属性にならねばならぬ、──権力も、快楽も、知識も、美もだ。
(エマソン『償い』酒本雅之訳)


魂と無縁なものは何一つ、ただの一片だって存在しないことが分かっている。
(ホイットマン『草の葉』ポーマノクからの旅立ち・12、酒本雅之訳)






自由詩 Sat In Your Lap。I Copyright 田中宏輔 2024-06-08 07:11:16
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