引用の詩学。
田中宏輔


なんて名前だったかな?
(ロン・ハバート『Battlefield Earth 1 奪われた惑星』第三部・4、入沢英江訳)


そしてそれはここに実在する。
(ロン・ハバート『Battlefield Earth 1 奪われた惑星』第一部・11、入沢英江訳)


それはまったく新しいものだった。
(ロン・ハバート『Battlefield Earth 1 奪われた惑星』第二部7、入沢英江訳)


「意味」が入った四角のもの。そう考えるだけで、ゾクゾクしてくるじゃないか。
(ロン・ハバート『Battlefield Earth 1 奪われた惑星』第一部・11、入沢英江訳)


(…)地下鉄で乗り合わせたユダヤ人の横顔が、ひょっとすると、キリストのそれであるかもしれないのだ。窓口で釣り銭をわたす手が、ひょっとすると、かつて兵士たちが十字架に釘付けしたそれの再現であるかもしれないのだ。
 ひょっとすると、十字架にかけられた顔のある特徴が、鏡の一枚一枚に潜んでいるのではないだろうか。ひょっとすると、その顔が命を失い、消えていったのは、神が万人となるためではなかったのか。
 今夜、夢の迷路のなかでその顔を見ながら、明日はそれを忘れていることも無くはないのである。
(J・L・ボルヘス『天国篇、第三十一歌、一0八行』鼓 直訳)


本質的なものは失われる、それは
霊感にかかわる一切のことばの定めである。
(J・L・ボルヘス『月』鼓 直訳)




 ボルヘスのこの言葉から、つぎのような言葉が思い浮かんだ。どんなにささいな行いのなかにも、本質的なものが目を覚まして生きている。




──お前の中にあって、今ものを云っているのは、
滅びゆくお前の中の滅びない部分なのだ。
(バイロン『カイン』第一幕・第一場、島田謹二訳)




 バイロンのこの言葉から、つぎのようなことを考えた。展開し変形していく数式のなかで、保存されているのは、いったいなにか。法則が保存されているというか、法則のなかにおいて数式を展開し変形しているのだが、法則の外に置かれた数式がいったいどのような意味をもつのか。たとえば、1>2 とかだが、ああ、間違っているという意味があるか。しかし、これが言葉だと、意味に含みが多いため、論理的に間違った言葉であっても、また、その言葉のつくり手の思惑からはずれたものであっても、重要な意味をもつことが少なくない。もちろん、それは読み手の読み方に大いに依存することではあるが。




つねに新しい花にかえる
(エズラ・パウンド『サンダルフォン』小野正和・岩原康夫訳)


新しい言葉を与え、
(エズラ・パウンド『サンダルフォン』小野正和・岩原康夫訳)


愛が去り、
(エズラ・パウンド『若きイギリス王のための哀歌』小野正和・岩原康夫訳)


昨日という日が、まるで私の誤った人生をひっくるめたよりも長い時間であるかのように、私のかたわらを通り過ぎてゆく。
(ゲルハルト・ケップフ『ふくろうの眼』第二章、園田みどり訳)


(…)しかし世界から出ることはどこの場所でもできるのであって、そこに崩壊時の星のような力のある打撃を加えればいいのである。こうした制約のために不完全に見えるものは物理学だけであろうか? あらゆる体系はその中にとどまる限り不完全で、そこからもっと豊かな領域に踏み出したときに初めて理解できるという、あの数学のことがここで思い浮かびはしまいか? 現実の世界に身を置きながら、どこにそんな領域を求めることができよう?
(スタニスワフ・レム『虚数』GOLEM XIV、長谷見一雄訳)




 レムのこの言葉から、つぎのようなことを思った。自分の体験をほんとうに認識するためには、自分の体験のなかにいるだけでは、不可能なのではないかと。「定義し理解するためには定義され理解されるものの外にいなければならない」(コルターサル『石蹴り遊び』向う側から・28、土岐恒二訳)という言葉がある。「マールボロ。」という作品において、ぼくが友だちの言葉を切り貼りしてつくった詩句のように、ぼくが他者の体験を通して、他者の体験を、解釈したり理解したり、あるいは想像したりするというプロセスにおいて疑似的に体験することによって、その他者の体験という、ぼくの体験ではない体験にある精神状態から、つまり、いったん、自分の状態ではない他者の精神状態から、ぼくの体験を眺める目をもつことができるようになってはじめて、自分が体験したことの意味がわかるのだと思われるのである。もちろん、他者の精神状態はぜったいに知ることはできないが、他者の精神状態を想像することはできる。その想像した他者の精神状態に、いったん自分を置くということである。置いてみるということである。その他者の精神状態を想像するもとになるものは、直接的にその他者の体験を目の当たりにする場合もあるが、多くの場合が、その他者が体験したことをその他者が書いた文章であったり語った言葉や雰囲気であったり映像に撮られたものであったりするのだが、そういった他者の体験を、その他者自身が表現した場合とそうでない場合があるのだが、いずれにせよ、そういった、ぼくではない人間の「ものの見方」や「感じ方」や「考え方」を通してこそ、自己の体験をほんとうに知ることができると思われるのである。自分のなかだけでは、堂々巡りをするだけで、自分の状態をほんとうに知ることなどできないであろう。他者の体験を知るということが、唯一、ほんとうに自己の体験を認識する手段なのである。このことは、たいへん興味深いことである。言語で表現されている場合、言語は言語である限り、言語であることから由来するさまざまな制約を受けている。おもに、語意や語法のことである。一方、意識や思考は、語意や語法に完全に縛られているわけではない。不適切な文脈で使うこともできるし、間違った語法で言葉をつづることもできる。ヴィトゲンシュタインは、言語の限界が思考の限界だと書いていたが、言語が意味をもつ限り、正しかろうと間違っていようと、意味からは逃れられないが、意味に限界はない。したがって、言語に限界は存在しないはずで、思考の限界が言語の限界であるなら、思考には限界がないということになる。このぼくの主張は正しいだろうか。ぼくという詩人の仕事の一つに、このことの解明という文学的営為が含まれていると思っている。
 言葉を換えて言えば、そして、端的に言えば、こういうことであろう。他者の体験に一時的に同化することによってのみ、自分の体験を外から見るという経験を通してのみ、ほんとうに自分の体験したことの意味を知ることができると。ここで、ふと思ったのだが、「ほんとうに自分の体験したことの意味を知る」というのと、「自分の体験したことのほんとうの意味を知る」というのが、まったく同じことかと言えば、まったく同じことではないと思うのだが、感覚的にはほとんど同じようなものであると感じられる。




ああ、ぼくはそんなことをすでにみな話をしていたな、ちがうか?
どうだか、わからない。心の中であまりに多くのことが動きまわっているので、これまでに起こったことと、まだ起こっていないことと、心の中以外では絶対に起こらないことについて、ぼくはいささか混乱している。
(フレデリック・ポール『ゲイトウエイ3』上・9、矢野 徹訳)




 フレデリック・ポールのこの言葉から、つぎのような文章が思い浮かんだ。自分と話している人間が自分の言っている言葉をどう思うのか、といったこととは無関係に、自分のこころのなかに生じた期待や不安を、成功への絶対的な確信や望みのないこころ持ちといったようなものを、ふいに投げつけるようなタイプの人間がいる。ぼくがそうだった。




 感情の発展過程で、ある点以上には絶対成長しない人がある。かれらは、セックスの相手と、ふつうの気楽で自由な、そしてギブ・アンド・テイクの関係をほんの短いあいだしか続けられない。内なる何かが、幸福に耐えられないのだ。幸福になればなるほど、破壊せずにおけなくなる。
(フレデリック・ポール『ゲイトウエイ』20、矢野 徹訳)




 フレデリック・ポールのこの言葉から、つぎのような文章を思いついた。いまある幸せがいつかはなくなるものだと思って、あるいは、いまつかまえられるかもしれない幸せをいつかは手放さなくてはならないものだと思って、そういう不安なこころ持ちで生きていくことに耐えられずに、いまある幸せを、いまつかまえられるかもしれない幸せを、幸せになるかもしれない可能性を、自らの手で壊してしまう、そんなことを繰り返してきたのだった、このぼくは。京大のエイジくんとの一年半の付き合い方が、この典型だった。おそらく、彼も、ぼくと同じような性質だったのであろう。お互いに、相手を好きだという気持ちをストレートに出せなくて、会うたびに相手を傷つけるような言葉を投げかけ合っていたのであった。相手を侮辱し、挑発し、怒りや憎しみを装った悲しみを投げつけ合っていたのであろう。二十年近くたって冷静に自分の言動を見つめていると、しばしば哀れみを感じてしまう。愛情をストレートに表現する能力が欠けているために、どれだけ相手を、また自分を傷つけてきたのだろうかと思わずにはいられない。




神とは最初の遠い昔の細胞が死んで以来の細胞たちの中に累積された知である。
われわれはその知の中に住む
(ジェイムズ・メリル『ミラベルの数の書』9.9、志村正雄訳)


夢想で作り上げたものは現実で償わなければならないと思う。
(ジェイムズ・メリル『イーフレイムの書』I、志村正雄訳)


(僕はめったに感じられないことであるけれど、
 世界が現実(リアル)であると見える人々を僕は愛す)。
(ジェイムズ・メリル『イーフレイムの書』O、志村正雄訳)




 メリルのこの言葉から、愛するものは生き生きとしていると思った。愛する者は生き生きとしているでもいい。ディックの小説に、「「ねえ」と映話をすませたマルチーヌがいった。「なに考えてるの?」/「きみが愛するものは、生き生きしてるってこと」/「愛ってそういうものなんでしょ?」とマルチーヌはいった。」(フィリップ・K・ディック『凍った旅』浅倉久志訳)といった言葉のやりとりを描写した箇所がある。愛の絶頂というのが、肉体的なことに限りはしないことなのだけれど、かつて、肉体的な絶頂がもたらせる充足感が、自分の生命のありったけの喜びを集めて放射したように感じることがあった。もっとも生き生きとした瞬間というものが、あれだったのかなと思われる。愛するものはリアルである。愛する者はリアルである。愛するものは現実である。愛する者は現実である。現実はリアルである。愛は現実である。現実は愛である。




今こうしてここにきみはいる、新しい型の中の旧い自我。
あの根の何本かは強靱になったようだ、死んだのもあるが。
語れ、僕に語れ、僕はきみに頼む、
瞬間の一つ一つが何をするのか、したのか、するつもりなのか──
(ジェイムズ・メリル『イーフレイムの書』S,志村正雄訳)


ユングは言う──言わないにしても、言っているに等しい──
神と<無意識>は一つであると。ふむ。
(ジェイムズ・メリル『イーフレイムの書』U,志村正雄訳)




 メリルのこの詩句が、いかに自由な精神から書かれたものか、想像するしかないが、かなりの自由度を有した精神が書いたものとしか思われない。ここまで自由になるには、よほど深い思索が行われなければならなかったはずである。ぼくの精神がメリルのような自由度をもつためには、あとどれだけ知識を吸収し、思索をめぐらせなければならないか、これまた想像もつかない。しかし、先人がいるということは、それにつづけばいいだけで、先人が苦労して獲得したものを、後人は、先人より容易に入手できる可能性が高い。先人がいるということを知っているだけでも、エネルギーギャップは、かなり低くなったはずだ。がんばろう。




一切の表現は本来嘆きである、と大胆に論断することができる。
(トーマス・マン『ファウスト博士』四六、関 泰祐・関 楠生訳)


痛い とわかること は つらい こと
(ヤリタミサコ『態』)


当時はなお表現し得なかった一つの意味、後になっては
忘却どころか、血の出るほどに傷ついた
刺。だがそのときすでに貴女は死んでいた、
どこで、どのようにか、ぼくはとうとう知らずじまい。
(エウジェーニオ・モンターレ『アンネッタ』米川良夫訳)


ならば僕は君を創造するとしよう。
(ヴァージニア・ウルフ『波』鈴木幸夫訳)


それは悲しみであった。
(リスペクトール『G・Hの受難』高橋都彦訳)


だが 悲しんでいることも
これがわれらの悲しみであることも われらは知らない
(エドウィン・ミュア『不在者』関口 篤訳)


一冊の本は、どんなに悲しい本でも、一つの人生ほど悲しくはあり得ません
(アゴタ・クリストフ『第三の嘘』第一部、堀 茂樹訳)


不幸だけがほんとうに自覚できる唯一のものである
(マルロー『征服者』第I部、渡辺一民訳)


おそらく我々はそういう瞬間のために生きてきたのではあるまいか?
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』8、菅野昭正訳)




ヤン・フスが火刑に処された際、一人の柔和で小柄な老婆が自分の家から薪を持って現われ、それを火刑台にくべる姿が見られた。
(カミュ『手帖』第六部、高畠正明訳)




神は愛である。
(ヨハネの第一の手紙四・一六)


愛だけが 厳しい 多くの苦痛をもっている
(キーツ『ファニーに寄せるうた』6、出口泰生訳)


愛はいつまでも絶えることがない。
(コリント人への第一の手紙一三・八)


神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。
(テモテへの第一の手紙二・四)


神さまは、それをゆっくりお待ちになることができるからね
(マルロー『希望』第一編・第二部・第二章・1、小松 清訳)


ひとが愛するものについて誤らないつてことは、むづかしいことだよ。
(ワイルド『藝術家としての批評家』第一部、西村孝次訳)


誰しも自分の流儀で愛するほかに方法はなかろうじゃないか
(三島由紀夫『禁色』)


彼女はただ偶然に行動した。
(スタンダール『パルムの僧院』第十四章、生島遼一訳)


愛よりなされたことは、つねに善悪の彼岸に起る。
(ニーチェ『善悪の彼岸』第四章・一五三、竹山道雄訳)


愛とは、学んで得られるものではありませんが、にもかかわらず、愛ほど学ぶ必要のあるものもほかにないのです。
(教皇ヨハネ・パウロII世『希望の扉を開く』三浦朱門・曽野綾子訳)


愛の道は
愛だけが通れるのです。
(カルロス・ドルモン・ジ・アンドラージ『食卓』ナヲエ・タケイ・ダ・シルバ訳)


偏執病者の経験する愛は憎悪の変形なのである。
(フィリップ・K・ディック『アルファ系衛星の氏族たち』7、友枝康子訳)


わたしにはこの病気の本質を説明することはとうていできないとしても、
(ズヴェーヴォ『ゼーノの苦悶』5・結婚のこと、清水三郎治訳)


愛に報いるためには、この道を通るしかないという気がした。
(ターハル・ベン=ジェルーン『聖なる夜』17、菊地有子訳)


人間はあっというまに地獄へ行ける
(アン・マキャフリー『歌う船』歌った船、酒匂真理子訳)


自由がなにかを教えるというなら、それは幸福というものは幸福であることのなかにあるのではなく、自分の不幸を選びうることのなかにあるということなのだ
(レイナルド・アレナス『ハバナへの旅』第三の旅、安藤哲行訳)


地獄を選ぶということが可能なのは、ただ救いへの執着があるからこそである。
(シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』悪、田辺 保訳)


ほかに選択の道がありますか?
(アイザック・アシモフ『ファウンデーションへの序曲』大学・13、岡部宏之訳)


森へ行こう
(マルグリット・デュラス『太平洋の防波堤』第2部、田中倫郎訳)


詩は森のなかで行われる
(アンドレ・ブルトン『サン・ロマノへ通じる街道の上で』清岡卓行訳)


とりわけおもしろいのが、この森さ。
(アガサ・クリスティー『火曜クラブ』第二話、中村妙子訳)


ようこそ、一九六一年に
(ロバート・シルヴァーバーグ『時間線を遡って』7、中村保男訳)


過去はふくろう(、、、、)の巣のまわりにある骨のようなものである。
(ギマランエス・ローザ『大いなる奥地』中川 敏訳)


おや! 破片(かけら)だ! 水瓶(みずさし)が壊れている!
(フロベール『聖アントワヌの誘惑』第二章、渡辺一夫訳)


見るかい?
(マイク・レズニック『キリンヤガ』3、内田昌之訳)


むしろそれは祈りに似たものだった。
(ジョイス・ケアリー『脱走』小野寺 健訳)


彼は「自分はもう二度と自分自身になることはあるまい」と語るのである。
(キェルケゴール『死に至る病』第一編・三・B・b・α・2、斎藤信治訳)


汝(なれ)はそも、涙を持てる、憂わしき甕なるか?
(ジイド『贋金つかい』第三部・七、川口 篤訳)


世のなかには元来、ただ一冊の「書物」だけしか存在せず、その掟が世界を支配しているのではないか。
(マラルメ『詩の危機』南條彰宏訳)


ただ一つの文章しか存在しないのだ、それがいまだに読み解かれていない。
(アンドレ・ブルトン『ただ一つのテクスト』安藤元雄訳)


離反は信仰の行為です。そして一切は神のうちに存在し、神のうちで起るのです。特に神からの背反がそうなのです。
(トーマス・マン『ファウスト博士』一五、関 泰祐・関 楠生訳)


罪の反対は信仰なのである(、、、、、、、、、、、、)。それゆえに、ローマ書第十四章二十三節には、すべて信仰によらないことは罪である、と言われている。
(キルケゴール『死に至る病』第二編・A・第一章、桝田啓三郎訳)


苦悩とは疑惑であり、否定である
(ドストエフスキー『地下室の手記』I・9、江川 卓訳)


彼は神に対して不幸な愛を抱いている。
(キェルケゴール『死に至る病』第二編・A、斎藤信治訳)


ひとは雨雲を覚えていて、思い出すだろうか。
(モーパッサン『ピエールとジャン』5、杉 捷夫訳)


雲は過ぎさるが、天はとどまる。
(アウグスティヌス『告白』第十三巻・第十五章・一八、山田 晶訳)


「すべては流れる」
と賢者ヘラクレートスは言う。
(エズラ・パウンド『「わが墓をたてるために」E・Pのオード』III、新倉俊一訳)


私はある男を知っていました。彼はミツバチの羽音はその死後には響かないと確信していました。
(ヴォルテールの書簡、ドフォン公宛、一七七二年、池内 紀訳)


読んだこともない詩の一節が
(フィリップ・K・ディック『ユービック』5、浅倉久志訳)


その詩の最後の行を忘れることが出来ない。
(カポーティ『最後の扉を閉めて』2、川本三郎訳)


もしあのとき……もしあのとき。
(三島由紀夫『遠乗会』)


ぼくの白い柵、ぼくの家の囲いの格子垣、ぼくの樹々、ぼくの芝生、ぼくの生まれた家、そして玉撞き部屋の窓ガラス、それらは本当にそこにあったのだろうか?
(コクトー『ぼく自身あるいは困難な存在』ぼくの幼年時代について、秋山和夫訳)


みんなそこで生まれたの。
(マルグリット・デュラス『北の愛人』清水 徹訳)


空の上には一片の雲も掠(かす)め飛んだことはなかった。
(ニーチェ『この人を見よ』なぜ私はかくも怜悧なのか・5、西尾幹二訳)


魂とはなにものか?
(ジャン・ジュネ『葬儀』生田耕作訳)


人間とはいったいなんでしょう、
(ホフマンスタール『チャンドス卿の手紙』檜山哲彦訳)


まことに人間そのものが大きな深淵だ。
(アウグスティヌス『告白』第四巻・第十四章・二二、山田 晶訳)


われわれの内部には、じつに奇怪で神秘的なものがあるんだ。いったい、自分自身のなかにいるのは自分だけだろうか?
(アンリ・ド・レニエ『生きている過去』11、窪田般彌訳)


僕たちの背後で嘲笑している何かがあるのだ。
(ヴァージニア・ウルフ『波』鈴木幸夫訳)


死んだ腹から聞こえる笑い
(エズラ・パウンド『「わが墓をたてるために」E・Pのオード』IV、新倉俊一訳)


俺は死人たちを腹の中に埋葬した。
(ランボオ『地獄の季節』悪胤、小林秀雄訳)


魂を究極的に満たすのは魂自身のほかにはない、
(ホイットマン『草の葉』分別の歌、酒本雅之訳)


深淵と深淵とが相對しているのであつた。
(バルザック『セラフィタ』一、蛯原徳夫訳)


また苦しみの森
痛めつけられた白骨
(ジャン・ジュネ『葬儀』生田耕作訳)


僕のまわりに冷淡な広い余白が拡がる。今僕の眼に好奇に満ちた数千の眼が開く。
(ヴァージニア・ウルフ『波』鈴木幸夫訳)


qualis sit animus,ipse animus nescit.
霊魂は如何なるものなるか、霊魂自身はそれを知らず。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』より、キケロの言葉)


いったん灰になることがなくて、どうして新しく甦(よみがえ)ることが望めよう。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部、手塚富雄訳)


埋葬されなかったものは、どのようにして復活したらよいのであろう。
(カロッサ『ルーマニア日記』十二月十五日、金曜、三時四十五分、登張正実訳)


墓のあるところにだけ、復活はあるのだ。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部、手塚富雄訳)


生きのびるとは何度も何度も生れること
(エリカ・ジョング『飛ぶのが怖い』19、柳瀬尚紀訳)


生まれるとは、前とは違ったものになること
(オウィディウス『変身物語』巻十五、中村善也訳)


ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。
(ガラテヤ人への手紙六・一五)


詩は言葉のために言葉を語る。
(ホフマンスタール『詩についての対話』檜山哲彦訳)


無限に語りつづける、
(ボルヘス『伝奇集』結末、篠田一士訳)


この書物はまだ終わったわけではない。
(ジャン・ジュネ『葬儀』生田耕作訳)


まだずいぶんかかるの、詩を仕上げるのに?
(レイナルド・アレナス『夜明け前のセレスティーノ』安藤哲行訳)


小さな森の中に、ひとりの贋詩人が現われる。
(アポリネール『虐殺された詩人』12、鈴木 豊訳)


君は、詩が好きかい?
(ジイド『一粒の麦もし死なずば』第一部・八、堀口大學訳)


でもこれがほんとに詩なんですか、それよりも判じ物じゃないかしら?
(プルースト『失われた時を求めて』第四篇・ソドムとゴモラ、井上究一郎訳)


ある晩、帰りがけに小石をいっぱい包んだハンケチを、背中にぶつけられました。
(バルザック『谷間の百合』二つの幼児、小西茂也訳)


民衆があなたに石を投げつけてもちっとも不思議はない。
(ペトロニウス『サテュリコン』90、国原吉之助訳)


半分は嘘で、半分はふざけてるんだから
(ロバート・A・ハインライン『地球の脅威』福島正実訳)


おっしゃるとおりです、まったく。
(テネシー・ウィリアムズ『欲望という名の電車』第三場、小田島雄志訳)


自由詩 引用の詩学。 Copyright 田中宏輔 2024-05-20 08:46:53
notebook Home 戻る