小麦の薫る男(サンドイッチマン)
本田憲嵩
1
(朝は、パン♪パン、パ♪パン♪)(昼も、パン♪パン、パ、パン♪)(夜は、うどん♪うどん♪うどん!♪)巨大な一斤の食パンの被り物を頭に被った白いコックコートを着た小太りの男が、「やきたてパン屋」と書かれた幟旗を片手に持ちながら、そのヘンテコな歌のリズムに合わせて、僕の座っているベンチへと少うしづつ少うしづつ近づいてくる。(徒歩で、パン♪パン、パ、パン♪)僕はできるだけ目を合わせないように彼のいる方向の反対側に首を向ける。(靴もパン♪パン♪パ♪パン♪)。そのメガネをかけた男は、その幟旗の竿をベンチの手すりの差し込み口に入れやいなや、僕のすぐ隣へと半ば強引にドンと座り込んできた。(ここで、パン♪パン、パ、パン♪)ロールパンの形をした彼のエルボーパッドが僕の二の腕にひどく当たってくる。ぼくはその窮屈さに思わず堪えきれなくなり「あの、ちょっと狭くないですか?」と言ってしまう。そして、そのついでに「もしかしてパンを作っているんですか?」とついつい尋ねてしまう、すると彼は否パンは自分はまったく作っていないのだという、パンはいつも普通のパン屋から普通に定価で買っており、それをそのままの価格で売って歩いて回っているのだという、言うまでもなくその儲けはまったくのゼロでつねにいつもトントンの状態なのだという。さらに彼が言うには、「世界のパン」ヤマザキパンのトラックに描かれた、パンを食っている外国人の子供は、他ならぬ幼少期の自分なのだとひどく言い張ってくる。そんな訳の分からないやり取りしているうちに、彼はふいに僕の顔をまじまじと眺めながら、「なんだお前元気ねぇなぁ」って、「まぁこれ食って元気出せや」って、僕にひとつのパンをリュックサックの中から取りだしてきた、さらに彼の食べる分のパンももうひとつ、(ヒジキパン♪パン♪パ、パン♪)、どうやら中にヒジキが入っているパンらしい、僕はいささか躊躇しながらもそのパンを仕方なく口にしてみることにした、そして彼もまた全く躊躇することなくそれを口にする。「あ、これご飯と、ご飯とよく会うなぁ!ご飯に!」って。その次に差し出してきたのが「月寒アンパン」(月寒あ~んパン♪)。なんでもこれは普通のアンパンを両手で握りつぶして小さくして作ったものらしい。それから「こつぶ」の缶を一本、「こつぶ飲む?」って、リュックサックの中から取り出して僕に手渡してきた。
そして、ちょうどまさにそのとき、彼の携帯電話の着信音が鳴りひびいた――。
2
「ええ、いやですからね、もう何度も言っておりますが、そういうのはお断りしてるんで、はい、考えはもう変わりませんので、ええ、はい」、彼はその表情にいささかの動揺を浮かべながら、通話を切った携帯電話を自分のズボンのポケットへとしまい込んだ。僕は思わず今の電話はいったいなんの電話だったのか?と尋ねてみる。それはどうやらテレビ番組の出演オファーの電話らしく、なんでもその番組名は「情熱大陸」というドキュメンタリー番組なのだという。これまでにもう何度も出演のオファーが来ているのだそうだが、その度にいつも彼は丁重にそれをお断りしているのだという。そんな彼に僕は思わず、「凄いじゃないですか!なんで出演しないですか?」とつよく尋ねてみる。しかし彼が言うには、あくまでも自分が広めたいのは「パン」、なのだと。僕はさらに思わず、「出演したらパンだって広まるじゃないですか!」と、「パンも売れてお金だってたくさん手に入るし!」と思わず強く進言してしまう。しかし彼は「ちがう、ちがう、ちがう、そうじゃねぇんだよ!」って、「オレが出演してもなぁ、パンが広まるんじゃねぇ!ただオレが広まっちまうだけなんだよ!」って、「オレが広めたいのは、オレじゃぁなくって、あくまでもパンなんだよ!」って。「パンっていうのは、まだまだ外国の食い物ってイメージが強いんだよ!結局みんなオニギリにいっちまうんだよ!」って。彼はまるで半ば動揺を振り払うかのようにまるで自分に言い聞かせるかのように強くそう叫んだ。そうしてその瞳から迷いが完全に消え失せる。その視線とその魂からの叫びにまるで稲妻に打たれたかのように僕はそのことをつよく肌で実感する。彼は自分の地位やお金や栄光などの私利私欲にときおり揺さぶられながらも、あくまでも自分の使命はパンを広める、という唯一無二の高尚な目的と精神と夢のために生きている、「小麦の薫る男」なのだと、僕はこの時ようやく肌で理解した。
「じゃあもう俺行くから」。そう言って彼はようやく公園をあとにする。今しがた上空に飛んで来たヘリコプターのプロペラが自分の頭の食パンに当たって千切れていないかどうかをとても気にかけながら――。
「焼 き た て」
もしへコんだらとりあえずこれ見とけって、彼から受け取った大きな茶封筒を開封して取りだした、縦型のちいさな暖簾には、ただただそう書かれていた。