エイフェックス・ツイン、永遠に(改稿)
由比良 倖
沙恵は絶望しながら踊っていた。煙草を吸いながら。エイフェックス・ツインの暴力的に鮮やかな、白い花のような音楽が拡がる。絶望は居心地がいい。絶望は人を強くするかも知れない。どうなってもいい。どうせ何も出来ないのだから。沙絵は人のいない世界に入り浸っている。何かが気になるのは、人との間に希望があるときだけ。
ウォークマンを操作して音楽をオービタルに替える。海の表面に漂う光の霧のような音楽。……もし、私に音楽が作れたらどうだろう? 沙恵は考える。ツマミを回したり、ギターを弾いたり、画面上のシーケンサーに音の出るカラフルなバーを配置したりする。きっと楽しいことだろう、と思う。
沙恵は先週、三十歳を迎えた。三十歳。ただ単純に生きているだけでは許されない歳を迎えてしまったのか、と彼女は思う。ううん、いや、新しい人生の始まりとして、これほどいい年齢もない、とも思う。けれど、すぐにやりたいことは何も無かった。これから出来ればいいことは山ほどあったけれど。
誕生日の日、彼女が得たものは、十年来付き合っていた恋人との別れだった。それだけだった。
「プレゼントは?」
沙恵は笑って言う。
「ああ、うん」
それが、彼の最後の言葉だった。彼は、沙恵に電話をしながら、沙恵の家に来る途中、近道である裏道を通り、そして暴漢に襲われて死んだ。
その日から沙恵は、毎日、あまり食べず、水だけを飲み、角砂糖を少し食べ、ひたすらに音楽を聴いている。葬式には行かなかった。音楽を聴いて、踊った。他には、何もすることが思い浮かばなかった。ただひたすらに音楽を聴き、踊っていた。もう、彼女の人生には、先というものが無かった。沙恵の住む家は、結婚までの仮住まいとして、親からお金を出してもらって住んでいたのだけど、もう結婚の宛のなくなった今では(今はまだ親は何も言ってこないが)、早晩この家を出なくてはならないだろう。実家に帰る? そこに未来は無いように思えた。
沙恵はパジャマのような普段着のような、シンプルなワンピース姿で、昼も夜も同じ格好で過ごしていた。髪を長く伸ばしていて良かったと思った。踊りの装飾品として、彼女が身に着けているのは胸元辺りまである長い髪の毛と、いつか彼がくれた白い腕時計だけだ。
許されるなら、彼女にはやりたいことがあった。三十歳。まだまだ若い。若すぎる、と彼女は思う。人生を終えるには。
このまま、死ぬのかな、と彼女は思う。と言って死ぬ宛ては無い。
デスクの上に置いておいたシートから睡眠薬を二錠取り出して、グラスに入った水と一緒に飲む。部屋の中には、デスクの上にも、床の上にも本が散らばっている。本はもう、彼女にとって何の意味も持たない。心配して家を訪れてくれる人がいないことも優しかった。彼女は心置きなく、人のいない領域にいられた。そうしていると、まだ彼が生きていることが当たり前のことのように感じられた。
オウテカに音楽を替える。エレクトロニカのミュージシャンたちは、確かな時間を知っている。人間が普段生きている(と思っている)のではない時間。そのことに沙恵は気付いていた。薬を飲んで、踊っていればその「時間」が訪れるのだった。
彼……Yと呼ぶことにしよう……に出会ったのは十年前、フリースクールでだった。フリースクールと言っても、そこは頭のちょっといかれた子供から大人たちまでが集まる場所で、病院と連携していて、何だろう、デイケアの若年層版みたいなところだった。朝、皆が集まると、めいめいのカードにスタンプを押して、それから一日中、特にすることもなく、突発的に始まるゲームを楽しんだり、読書をしたりした。私はその頃は読書も好きではなかったし、だからいつも音楽を聴いていた。まだタッチパネルではなかった頃のiPodに、やっぱり今と同じ、エレクトロニカを入れて聴いていた。私に異常があったのか、無かったのか、とにかく何も食べなかったのだけど、それで健康に支障は感じなかったし、自傷はしていたけれど、殆ど興味半分でカッターナイフで皮膚の表面を少し傷つけていた程度だった。その程度でも、両親は慌てふためいていて、私は申し訳なく思った。Yくらいたくさん切っていたら、うちの親なら卒倒していたんじゃないか。彼は何が悩みだったのか、大学を休学していて、休学しているのにいつも勉強をしていた。泣きそうな顔をして。
「勉強が楽しくないの?」
とあるとき私は訊いた。
彼は咄嗟に何かを隠すような姿勢を取って、またそうしたことを恥ずかしく思うように、左手を軽く上げ、上げた手の持っていき場所に迷って、耳の辺りの猫っ毛を摘んだりした。それから、
「何?」
と私の顔を見ずに言った。言ってから私の顔を少し見上げた。
「いや、勉強してるの好きじゃないの? 何か辛そうだな、と思って」
彼は何か今小口径のピストルで頭を撃たれでもしたみたいに大仰に目を見開いて、
「ああ、うん、そうだね。楽しくないね」
と言った。
彼の書いているノートを見ると、意外にもあまり上手くない(味がある)走り書きの文字で、日本語なのにカタカナの多い謎の文章が書かれていた。
「法律?」
「いや、経済」
「ふうん」
特に話が弾むことはなく、「じゃあ」と言おうとすると、彼が、
「気になってたんだけど、エイフェックス・ツインだね」
と言った。
「ん?」
「いや、ヘッドホン。今音が漏れてる」
「分かったの?」
「ドラムで分かった」
私は馬鹿みたいだけど非常に嬉しくなって、急に彼に親近感を抱いた。それで、「ありがとう」というのも変だな、ともじもじしていると、
「つまりさ、良くない傾向だと思うのだけど、ある女の子がいたとするね。俺は近付き方がいつも分からないんだ。その女の子がエイフェックス・ツインを聴いていたとするね。すると、僕は何か、何かなあ、人間と人間の間に普段は立ちふさがっているドアが開いたような気がするんだ。エイフェックス・ツインを聴く女の子って、一体どんな話をするんだろう、ってね。急いでコンタクトを取らなければならないような気がする。でもね、普通そんな機会ってあまり無いから。ごめん。だから君にも何か話題を用意出来ない自分を情けなく思っているんだけど、君と話してみたいとは思った訳なんだ。ええと……」
と、彼は早口になったり言い淀んだりしながら、何か要領を得ないことを言った。
「要するに?」
「要するに、ああ、それにはいろんな答え方がある」
「一番先に思い付くのは?」
「一番は良くないよ。三番目くらいがいい」
「一番は?」
「一番は、こういう言葉がある。初対面の女の子がエイフェックス・ツインを聴いていると、僕はその子と結婚したくなっちゃうんだ、って。いや、俺の言葉じゃないよ。一番目を正直に言ったまでだよ」
「は?」
私のYに対する好感は、会話の気流に上っていって、よく見えなくなってしまった。こいつは絶対変なやつだ、近付かないでおこう。でもその時から私の中では生きている人間の「時間」が流れ始めた。そして、私は一時的にうまく踊れなくなった。
Yとは何となく一緒に動物園に行った。彼がどうしても最初には動物園に行きたい、と言ったからだ。彼が行きたいと行ったのに、彼は象しか見なかった。だから沙恵はひとりで九官鳥やシロクマや猿山を見て回った。でも彼はかなり満足そうだった。彼の理屈によれば、象だけでも本当に見るには一時間はかかるらしい。そう言われてみると、沙恵は自分が何かを見て、そして何も見てきてはいないような気がした。
Yはしょっちゅう「世界が分からない。世界に触れられない」と言っていた。「でも、死ぬときになれば、絶対に……」とも言っていた。でも彼の死のイメージは、おそらくベッドの上で徐々に迎える死だろう。自分の死を意識すれば、何かが分かるかも知れない。暴漢に襲われ、コンクリートに頭を叩き付けられて死ぬ瞬間、彼には何か分かっただろうか?
沙恵は再び踊っている。眠るように。
「生きることは、もっと、もっと本当は、シンプルだったはずなのにね」
沙恵は誰にともなく呟く。彼女はスピーカーのスイッチを切って、ヘッドホンを着ける。それから椅子に座り……あり得べきはずだった人生の、可能性について思いを馳せる。
踊り疲れたけれど、汗は掻いていない。自分が本当に疲れているのかも分からない。泣きたくなるような一瞬を飲み込み、沙恵は引き出しに入っていた風邪薬を十錠、まだグラスに残っていた水で飲む。唐突に彼女は、単純な生きる「時間」の成り立ちが、この世界に具現化された姿を、目蓋の向こうに垣間見る。
シンプルであること。
シンプルであること。
シンプルであること。
彼が死ぬまでは思いつきもしなかった。彼女は古いパソコンを出してきて、電源を入れる。ワードパッドを開き、白紙の画面と、点滅するキャレットを見る。私が欲していたもの。私が手に入れたかったものは、これかも知れない。それからインターネットの楽器屋で、マルチトラックレコーダーと作曲用ソフトの値段を調べる。思っていたより安い。それからチープなドラムマシン。彼女は、日々、刻々と老いていく。三十歳。白い歳だ。それから、クローゼットから古いアコースティック・ギターを取りだしてきて、ヘッドホンを外し、Dの音を一音鳴らす。これなのかも知れない。違うかも知れない。
人が生きていない世界で、唯一人との繋がりを得られる営為。私には、声が必要なのかも知れない。
沙恵は冷蔵庫のところへ行き、久々にビールを出してくる。飲みかけて、迷って、風邪薬と一緒に飲むことにする。十錠。もうすぐ朝が来るだろう。朝が来れば彼女は……もう踊れないかも知れない……いや、本当は十年だって踊れるだろう。けれど彼女はこの世の辺境から、何かを届けたかった。そんな思いはこの間まで、彼女は全く持ち合わせていなかった。話なら、Yがみんな聞いてくれた。けれど、彼は、そう、……踊っているとき、彼は確固として私の世界に存在している、……けれどもう、彼は、私の話を聞いてはくれない。話し相手が欲しいんじゃない。私が私の時間を過ごすために、破綻無く私が私であるために、私は何かを発しなくてはならない。もう、彼と二人だけの世界には、いられないのだから。踊りだけで、十分なのに、私は何なのだろう? 強情なのだろうか? 私は、届けたい。今世界の端っこにいる私は、そうではない、世界の、人間の世界の中にいる、多分孤独な人たちに、何かを届けたい。いや、それは、誰かの為、ではない。私の存在の確立の為なのだ。
シンプルに。
シンプルに。
シンプルに生きること。
それからまた、ビールで風邪薬を十錠飲む。身体の表面が逆立つようにひりひりしてくる。それが心地いい。三十歳。今までの十年間、彼女は取り立てては、本当に何もしてこなかった。殆ど何も書いたことがないし、絵も描かない、音楽は、ギルドの安いギターを買って、少し弾き語りめいたことをして、すぐにやめたし、パソコンもインターネット以外では全然活用してなかった。Yと会ってから、踊ることもしなくなっていた。けれど三十歳になり、彼女は何か、何か表現出来るものが欲しいと思った。音楽でも、文章でも、絵画でも。今から始めるのに、遅いということがあるだろうか。それは全然無いだろう、と彼女は思った。「書きたい」と生まれて始めて思った。音楽をやりたい、とも。それは、彼女がまざまざと辺境の空気の中に、今立っているからだった。
それから、とにかく踊りたかった。誰に見せる訳でもない。私が消えるために。喪失するために。それは必要なことだった。エレクトロニカや、いろんな音楽の中に埋没すること。音楽そのものになること。人間的な時間とは違う「時間」を感じること。大切なことだ。そしてまた、その「時間」を届けたい、という思いがすぐに湧いてきた。音楽を作りたい、書きたい、と彼女は強く思った。
Yは、私が会って十年間、いろんなことを熱心に行っていた。一度ギターを始めると、ひとりでブルースのセッションが出来るくらいにまで上達したし、絵もとても上手に描いた。文章も非常に文学的な文章を、流れるように書くことが出来た。彼は何にでも才能があった。私と出会って一年後、彼は復学し、かなりの成績で卒業した。学業の傍ら、TOEFLとTOEICの勉強をしていて、それもかなりの高得点を取った。簿記の一級なんかも取っていた。勉強熱心だった。24歳から東京のIT企業で働き始め、私はそれに付いて行くように、東京のアパートを借りた。親のお金で借りたのだけど。彼は高収入で、将来はまさに安泰、という感じだったのだけど、彼自身はアーティストになりたがっていた。夜遅く帰ってくると、ギターを小さな音で弾き、歌い(彼は本当にいい声をしていた)、それを録音したり、物語や詩を書くのが好きで、それから彼自身は自分の作風を嫌っていたけれど、たくさんの絵を描いていた。私も、彼はアーティストになるべきだ、と思っていた。
けれど、彼は死んだ。……また、ビールで風邪薬を十錠飲む。それからまた十錠。目を瞑る。再びスピーカーの電源を入れ、エイフェックス・ツインの音楽を流す。頭が朦朧としてくる。沙恵は毛布にくるまって、ベッドに横になる。明日になればYから電話がかかってくるだろう。私が彼のことを死んだと思い込んでいたことなんて、笑い話になるだろう。
「そう、死んだんだけど……」
「死んだんだけど?」
「俺は花屋に行っていたんだ」
「何それ? ふつう花畑でしょう?」
「そう。なあ沙恵。花畑に行きたいと思ったんだ」
「私と? 死ぬのはやだよ」
「死なない死なない。どう、踊りは楽しかった?」
「うん」
「俺も楽しかった。沙恵と一緒だとね」
「そう? そんなこというの初めてじゃない?」
「そうでもないさ。……エイフェックス・ツイン聴いてるの? 久しぶりだね」
「うん。流しっぱなしにしてた」
「ドラムで分かったよ」
「そう」
「うん。じゃあ、またね……」
「また……」
「これからは一緒にいるから……」
沙恵は毛布にくるまって眠っている。その顔からは微笑と涙の両方がこぼれる。何もかもが良くなっていくだろう。私にはやりたいことが山ほどあって、Yがいて。花畑にはまだ早い季節だけど、彼は一番いい日に花畑に連れて行ってくれるだろう。そして本当はひとりで来たかったような、自分だけが来たかったのに、私にも付き合わせて申し訳ないような、あくまで照れ隠しをするような表情をするだろう。私は今は世界の端っこにいるけれど、でも不幸じゃないよ。ねえ。何もかも、明日になれば、きっと……。