Your Song。
田中宏輔
当然のことながら、言葉は、場所を換えるだけで、異なる意味を持つ。筆者の詩句を引用する。
ひとりがぼくを孤独にするのか、
ひとりが孤独をぼくにするのか、
孤独がぼくをひとりにするのか、
孤独がひとりをぼくにするのか、
ぼくがひとりを孤独にするのか、
ぼくが孤独をひとりにするのか、
3かける2かける1で、6通りのフレーズができる。
(『千切レタ耳ヲ拾エ。』)
これは、ただ言葉の置かれる場所を取り換えただけの単純な試みなのだが、このような単純な操作で、これまで知らなかったことを知ることができた。「ひとりがぼくを孤独にする」のも、「ぼくがひとりを孤独にする」のも、ありきたりの表現であり、目につくところは何もない。しかし、「孤独がぼくをひとりにする」とか、「孤独がひとりをぼくにする」とかいった表現には、これまで筆者が知っていたものとは異なるところがあるような気がしたのである。この詩句を書いた時点でも、それは、はっきりとは説明できないものだったのだが、少なくとも、これは、「孤独」という言葉に対する印象として、筆者にとっては目新しい感覚であることだけはわかっていた。ときとして、言葉といったものが、わたしたちについて、わたしたち自身が知らなかったことを知っていたりもするのだが、これは、言葉にとっても、同じことなのかもしれない。言葉が知らなかったことを、わたしたちが教えるということがあるのだから。それとも、これは、同じことを言っているのだろうか。わからない。わかることといえば、このような単純な操作で手に入れた、この「はっきりとは説明できないもの」が、筆者に、新しい感覚を一つもたらしてくれたということだけだ。「ぼくが語りそしてぼくが知らぬそのことがぼくを解放する。」(ジャック・デュパン『蘚苔類』3、多田智満子訳)といった言葉があるが、まさに、このことを指して言っている言葉のような気がする。ただし、その新しい感覚というものは、その詩句を書いた時点では、筆者にはまだ明らかなものではなく、ただ漠としたものに過ぎなかったのだけれど。しかし、いずれ、そのうちに、言葉と、「わたしたちのそれぞれの世界がわたしたちを解放し」(ジョン・ベリマン『ブラッドストリート夫人賛歌』2、澤崎順之助訳)、言葉には、その言葉自身が知らなかった意味を筆者が教え、筆者には、筆者が知らなかった筆者自身のことを、その言葉が教えてくれることになるだろうとは思っていたのである。そして、じっさいに、以前には言い表わせなかった、あの「孤独」という言葉がもたらしてくれた、新しい感覚を、新しい意味を、ようやく、ある程度だが、言葉にして言い表わすことができるようになったのである。「Sat In Your Lap°II」のなかで、展開している言葉のなかに。そして、これはまた、いま、筆者自身が考えているところの詩学らしきものの根幹をなすものとさえなっていると思われるものなのである。
先生の『額のエスキース』という詩の中に、「女性の中に眠っている/孤独な少年はめざめるのだ」といった詩句がありますが、先生が、ひとやものをじっと見つめられるときには、先生の中にいる少年が目を覚ますのでしょう。そして、その少年が、先生の目を通して、ひとやものをじっと見つめるのだと思います。
やがて、その少年の身体は、少年自身の目に映った、さまざまなものに生まれ変わっていきます。
と、「現代詩手帖」の二〇〇三年・二月号(「大岡信」特集号)に、筆者は、書いたのだが、もちろん、この「少年」は、魂の比喩であり、「孤独」という言葉は、「Sat In Your Lap°II」で考察した意味を持っている。「孤独な魂が、わたしの魂をだれかの魂と取り換える」といった言葉を、「國文學」の二〇〇二年・六月号に掲載された原稿に、筆者は書きつけた。「なるほどこの結論をひき出したのは、わたしだ。だが、いまはこの結論がわたしをひいていくのだ。」(『ツァラトゥストラ』第二部、手塚富雄訳)といったニーチェの言葉があるが、よく実感できる言葉である。「自分では気づいていなかったことも書くとか、自分ではないものになるとか」(ヴァレリー『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法』追記と余談、山田九朗訳)、「発見してはじめて、自分がなにを探していたのか、わかる」(ヴィトゲンシュタイン『反哲学的断章』丘沢静也訳)といったことが、ほんとうにあるのである。
とはいっても、「孤独がひとりをぼくにする」という言葉の意味は、まだ完全に了解されてはいない。似た意味は手に入れた気がするのだが、似てはいても、同じではない。似ているものは同じものではなく、同じものではないかぎり違いがあり、また、その違いが、わたしに考える機会を与え、わたしをまとめあげ、さらに、わたしを、わたし自身にしていくのであろう。言葉は、意味を与えられたとたんに、その意味を逸脱しようとする。そして、それこそが、言葉といったものに生命があるということの証左となるものである。
「一つ一つの語はその形態ないし、諧調のなかに語の起源の持つ魅力や語の過去の偉大さをとどめており、われわれの想像力と感受性に対して少なくとも厳格な意味作用の力と同じくらい強大な喚起の力を及ぼすものであ」(プルースト『晦渋性を駁す』鈴木道彦訳)り、また、「言葉は(‥‥‥)個人個人の記憶なり閲歴なりをあからさまに、人それぞれのイメージを呼び起こすものである。」(ヴァレリー『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法序説』山田九朗訳)。しかし、「芸術家は、自分がみずから親しく知らない人間や事物の記憶を呼び起す」(ユイスマンス『さかしま』第十四章、澁澤龍彦訳)ことができるのである。しかし、じっさいに、そうできるために、芸術家は、つねにこころがけなければならないのである。「et parvis sua vis./小さきものにもそれ自身の力あり。」(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)、「地に落ちる一枚のハンカチーフも、詩人には、全宇宙を持ち上げる梃子となりえるのである。」(アポリネール『新精神と詩人たち』窪田般彌訳)。「偉大な事物をつくりたいとのぞむひとは、深く細部を考えるべきである。」(ヴァレリー『邪念その他』S、清水徹訳)、「聡明さとはすべてを使用することだ。」(同前)。「あらゆるものごとのなかにひそむ美を愛でたポオ」(ボードレール『エドガー・ポオ、その生涯と作品』3、平井啓之訳)、「すべての対象が美の契機を孕んでいる」(保苅瑞穂『プルースト・印象と比喩』第一部・第二章)。「普遍的想像力とは、あらゆる手段の理解とそれを獲得したいという欲望とを含んでいる」(ボードレール『ウージューヌ・ドラクロワの作品と生涯』3、高階秀爾訳)。「すべてをマスターしたい。だってすべての技術を自分のものにしてなかったら、自分のために作る作品が自分自身の技能によって制限を受けることになるじゃないか」(ブライアン・ステイブルフォード『地を継ぐ者』第一部・2、嶋田洋一訳)。たしかにそうである。ときには失敗するとしても、「われわれはつねに、まったく好便にも、失敗作をもっとも美しいものに近づく一段階として考えることができる」(ヴァレリー『ユーパリノス あるいは建築家』佐藤昭夫訳)のだから。
「verte omnes tete in facies./あらゆる姿に汝を變へよ。あらゆる方法を試みよ。」(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)より、ウェルギリウスの言葉)。「私はこれまで かつては一度は少年であり 少女であった、/薮であり 鳥であり 海に浮び出る物言わぬ魚であった‥‥‥」(エンペドクレス『自然について』一一七、藤沢令夫訳)。「自分が過去に多くのものであり、多くの場所にいたために、いま一つのものになることが出来るし──また、一つのものに到達することも出来るのだ」(ニーチェ『この人を見よ』なぜ私はかくも良い本を書くのか・反時代的考察・3、西尾幹二訳)。「「我あり」は「多あり」の結果である。」(ヴァレリー『邪念その他』J、佐々木明訳)、「自分以外の何かへの変身」(ラーゲルクヴィスト『巫女』山下泰文訳)、「変身は偽りではない」(リルケ『明日が逝くと……』高安国世訳)。「私の魂は木となり、/動物となり、雲のもつれとなる。」(ヘッセ『折り折り』高橋健二訳)のである。