蜥蜴の行方の先の素描
ホロウ・シカエルボク


瞬きの中に一生を見つけることがある、奇妙に開かれた朝、俺は薄暗い歴史を抱いて合成レザーのソファーの上で小説を読んでいる、壁掛け時計はずっと動いていないように思えるがその存在を忘れている間に数分針を進めている、カーテンの僅かな隙間から忍び込んでくる光が今日の天気はまずまずだということを告げている、本当に何かにのめり込んでいる時、空気は張り詰めたりしない、擬態する虫のように存在は風景の中で境界線を残すのみとなっている、そんな時脳髄から零れ落ちて来るものたちのことを俺は上手く説明することが出来ない、こうしてありのままに書き記すことは出来てもそれが何なのかは理解していない、それを理解することを良しとしていないからだ、ありのままに、現象として放り出すことが一番いいことだと気付いたからだ、つまりそこにはどんな意図も存在していないということになる、ベッドの上で見る夢に辻褄を期待する者は居ないだろう、そんなものに出来た話を期待してはいけない、どんなに良く出来た夢だってきっと途中で目覚めてしまうからだ、ああそうか、と俺は思う、一夜の夢のような詩が良い、深い忘我、だらしなく垂れ流されるイメージ、雑多な事柄のみでこしらえた連続性…それが俺の考える世界の誠実さだ、そうだろう、どうせ途中で目覚めてしまうものなのだ、思い返してごらん、それはいつだってそうだったはずだ、真実は完結しない、命が失われてもそれは完結しない、それはいつだってだらしなく垂れ流されていくものだ、澱みながらも少しずつ流れていく沢だ、俺たちはその流れの中で少しずつ欲しいものを掬い上げては検分しているに過ぎない、俺が何を言っているかわかるかい、すべてのことを確実に理解出来るなんて思わないことだ、真実には際限がない、掴んだと思ったものは次の瞬間には形を変えている、確信は変化を見落としてしまう、すべてを知ることなど不可能なのだ、それを自覚することだ、そうして、本当にそれを追い続けるというのなら覚悟を決めることさ、知るべきことはただひとつ、真実は出鱈目なんだということ、永久不変の形でなど在り得ないということだけなのさ、窓の外、狭い裏庭を隠す低い壁を蜥蜴が這っている、俺は本を閉じて蜥蜴を眺める、あくまでも俺には、ということだが、蜥蜴はなにも目指していないみたいに見える、ただ辺りを窺い、においを嗅ぎながら、今日を生き抜ける場所だけを探しているみたいに見える、俺はそんな手前勝手な解釈に強いシンパシーを感じる、今日を生き抜ける場所だけを探す、それはとてつもない理由のように思えたからだ、俺が言葉を綴るのだってきっと、そんな欲求の為だけに違いない、便宜的な、あるいはスローガン的な真実ではない、その瞬間自分を急き立てている衝動の本質だけが俺の欲望なのだ、蜥蜴はある瞬間に突然に向きを変え、僅かな土の上に生えた雑草の中へと姿をくらましてしまう、蜥蜴か、と俺は思う、もしも俺に着脱出来る尻尾があるとしたら、間抜けなほどにそれを捕まれてしまうに違いない、でもそれは一度しか使えない死という手段を、なるべく自分の望む形で全うしたいと思うには有効なのかもしれない、シューティングゲームにおける残機のような…ともあれ、そんな奇妙な余裕のある人生はつまらないに違いない―そんな気もする、俺は本を置いてキーボードを叩く、そんな気分は記しておいたほうがいいような気がした、思うようにはいかないかもしれないが気の利いた日記程度のものにはなるだろう、逸らないように気をつけながら一行一行を連ねて行く、時々、自分の内臓がずるずると引き摺り出されているような気分になる、ははは、渇いた笑いが漏れる、そうさ、表現するということはそういうことだ、スプラッタ・ムービーと同じで、どれだけ瞬時に沢山のものをぶちまけられるかという企みなんだ、少しの間思うままに文字を打ち込んで、集中が途切れる前に止める、それから目を閉じて少し眠る、夢の中で俺は、さっき草むらに消えた蜥蜴を探してずっと裏庭に這いつくばっていた、草や猫の小便の臭いが激しく鼻を突いた、蜥蜴はその痕跡すら残さずにどこかへ消え失せていた、俺の胸中には悲しみとも怒りともつかない曖昧な乱れが生まれ、温帯低気圧のように居座っていた、俺は目を覚まし、コーヒーを入れて二杯立て続けに胃袋に送り、それから続きを書き始めた、あの蜥蜴の残像が消えてしまわないうちに書きあげてしまわなければ手遅れになる気がした、そこに理由なんかない、人生のすべては賭けだ、自分が立っている場所すらわからないまま、どこに届くのかもわからない言葉を投げ続ける、それは死ぬまで続くような気がする、そうさ、俺はとっくに覚悟を決めているんだ、ああ、と俺は気付く、テーブルの上でわらわらと蠢いているイメージ、これこそが俺にとっての蜥蜴の尻尾なのだ。



自由詩 蜥蜴の行方の先の素描 Copyright ホロウ・シカエルボク 2024-04-20 17:05:33
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