鏡像 【改訂】
リリー

  第四章 「メモワール」④



 「なんなん? あのベット」
  四歳年上の先輩の木崎さんが、病室の西側の壁へピッタリ寄せて在る空
 ベットに目を向けた。敷かれる古びたスプリングマットには、薄茶色のシ
 ミ。この日、病室の専属職員は忌引きのため人手が足らず、新館一階を担
 当する木崎さんは助っ人で回されていた。
 「なんか、気になります?」
 ベット周りの掃除をする私の、モップ握る手も止まる。
 「うん。あそこて、何時から使ってへんの?」
 病室の人は眠っているので、小声で説明する。
 「夏に、高木さん亡くなってからちゃうかなぁ……。分かる人はね、気にす
 るんですよ。あのベットに移ったら、皆んな死ぬって。……。」
 「うん。」
 眉ひそめる木崎さんの、納得した様な返答は独り言になって続いた。
 「あのベットは、撤去した方がいいのになぁ。」
 
  旧館の寮母室では昼休憩時になるとヒソヒソ、河瀬さんの話題だった。
 「今朝の朝礼の申し送りで、河瀬さんがまた夜中に田中さんのベット部屋か
 ら出て来たやろ。」
 「この間、遠藤さんとこ行ってたんと違うの?」
 「掛け持ちしてるんちゃうか?」
 「八十歳やで! けど……、本人分かってないからなあ」
  そして、この日大食堂で食事介助の当番だったので遅い昼食を摂り始めた
 私へ、いきなり話は振られる。
 「あだっちゃん、夜中の廊下でまだ河瀬さんと逢った事ないんやな。この
 間、田中さんの部屋のドア開いてて、のぞいて声掛けたら河瀬さんがベット
 から降りて帰って行ったわ。」
 「えええ……」
 思わず止まる、お弁当のお箸。

  午後になると月に二度、木曜日は大食堂で喫茶サロンが開かれるのだ。
 八十代で認知症の男性、通称「欽ちゃん」の座るテーブルへ集結する女性
 陣。欽ちゃんには、モテているという認識の全く無い様子。何とも言えな
 い穏ややかで小さな男の子の様なニコニコした照れ笑いが、母性本能を擽
 り人気の的。
  この微笑ましい情景を眺める私に歩み寄って来た木崎さん、
 「あだちぃ、あそこのテーブルがな、ヤバい状態なんやで。」
 フロアの別の一角へ、目を向けさせる。
 集っているのは、何事もなく朗らかに見える一般棟の二階に住まう自立入
 居者達で、七十代の男女。
 「ヤバいんですか?」
 「うん。分からへんやろ。××さんと、⚪︎⚪︎さんと、✴︎✴︎さんが、土田さん
 めぐって絡れまくってるんやわ。もっとあるけど、それしか言えん」
 「えええ……」
 彼等へ貼り付く私の視線。

  夕方になって、寮母室から更衣室へ引き上げようとする私にチーママが
 声を掛ける。
 「お疲れさん! あだっちゃん、悪いなあ、明日から谷本さんのオムツ交
 換もしてくれへんか?」
 「どうしたんですか?」
 「谷本さんがな、注意してもミズノちゃんの体、触るんやて」
 「えええ……。分かりました」
 彼女からは、谷本さんにお尻を触られると聞いていたがエスカレートして
 きたのか。
  明日は私の宿直当番だったので、早く帰宅して布団に入らなければいけ
 なかったのだ。

 「濱戸さん、夕食後また三十万盗難事件ありましたよ」
 「困ったなぁ……。一昨日の空き巣はキクチ君やったしな」
 「今夜あたしですわ、さんざん……」
  宿直日の二十時前、事務所にいる守衛さんへ挨拶する。
  この日も西浦さんという人が、夕食後になると食堂ホールから居室へ戻
 る人達を誘導している職員へ、廊下で血相変えて掴みかかり声を張り上げ
 た。
 「返してちょうだいっ、三十万!」

  そして濱戸さんと就寝前の点検をする暗い廊下で、二人は発見する。
 「おおおーーっ、ちょっと待って待ってえええーーっ!」
 下半身裸で彷徨う福本さんの後ろ姿へタックルする、私の頭から抜ける
 声。廊下には点々と垂れ流される排便。浴室で洗身するため居室へ着替え
 を取りに走れば、布団の傍に脱ぎ捨てられたオムツと汚れたシーツや畳。
 
  二十二時を回り、やっと一息つくことが出来た。事務所へ顔を出すと
 「ケーキあるから食べて行き」
 「ありがとうございます! 先シャワーしてきますね」
 若い子の宿直日には、いつもケーキや冷凍ピザなどを持参してくれる濱戸
 さん。タオルドライしたままの乱れ髪を無造作に束ねてスッピンの私は、
 ご馳走になるカットケーキへ、フォーク突き立てて愚痴り始める。
 「なあ、そもそもがおかしいですよ!」
  八時間の日勤で疲れている職員が、引き続いて宿直に就くのだ。実際は、
 二十四時間勤務だった。労働規約の書類や県の監査等では、八時間の就眠
 扱いになっている。翌日が休日でなく、午前十時出勤の遅出勤務なのだ。
  百五名以上の入居者の内、二十名近い車椅子と三十パーセントは超えて
 いただろう認知症の人達を一人でみるなんて! 事件が起こってからでは
 遅い。
 「こんなの、……内部告発したら問題なりますよね?」
 「そやろなぁ……。労働基準法にも違反してるやろな」

  宿直室で仮眠体勢に入る午前零時過ぎ。ガラリッ、木戸の開く音に驚い
 て横伏せの体を起こせば、廊下の灯を背にする小さな黒い影。モゴモゴ、
 入れ歯を外した口元が訴える。
 「ご飯まだか? まだなんかっ、食べて無いんや」
 睡眠導入剤の効き目が悪かったのか、呆けた顔で徘徊する八十代女性。
  深夜のオムツ交換は異常なし。午前五時半になって出勤して来た若手職
 員。
 「おはよ! どうやった?」
 「ああ……おはようございます。うん。何事もね無かったですよ」
 「よかったやん! ラッキー」
 そう、たとえどんなに長い夜であっても、騒動にさえならなければラッキー
 なのだ。
  宿直手当の五千円なんか要らないから、自分だけ勤務シフトから宿直業務
 を外して欲しいと主任へ本音を言うベテランもいた。


 

 第五章 「メモワール⑤」


 「あんた、髪アップにしてる方が似合うわ」
  癖毛でブローもしていない寝起きのセミロングを、束ねて結い上げてある
 だけなのに、褒めて貰える。
 「土台が悪いとな、何してもアカンのよ」
 誰のことを言っているのか? 寮母室では時々相づちに困る言葉も飛んでく
 る。

 「真田さんのルームウェアー、そろそろ買い替えた方がいいのにな」
 「うん。セーターとかも、もう古いな。パジャマとか靴下もまとめて整理し
 た方がいいと思わへん?」
 「真田さんだけちゃうて。東野さんが担当の居室て、衣類整理とか出来てへ
 へんわ。靴とかも、くたびれてるしさ」
  チーママと同い年で旧館一階を担当する東野さんという職員がお休みの
 日、たまに寮母室では良からぬ噂を耳にした。長身で怒肩、少し前屈みにな
 り大股で歩くのが特徴だった。言葉端に剣のあり、細い目が離れているので
 ヒラメの様な顔だと話す人もいた。
  私は、ある事があって以来、東野さんとは距離を置きよそよそしく接する
 様になっていたのだ。

  あれは或る日の午後だった。旧館寮母室で措置台帳の日誌を書き終え
 て、廊下へ出ると寮母室から私の姿も見えなくなる辺りで、突然四十代の先
 輩から片腕を掴まれる。
 「あんた、東野さんと二人やったんか? さっきまで」
 尋ねてくる目の色は、何か嫌な雰囲気を漂わせる。
 「はい。そうですけど」
 「東野さんが預かり金帳簿つけてる時に、寮母室入ったらアカンのやっ
 て!」
 意識と反して声のボリュームだけを抑え込む、その激しい口調。
 「へ? なんで。どういう事ですか?」
 「あんた、まだ聞いてへんかったんか?」
 「何をですか?」
 「途中で、一人にならへんかったか?」
 「はい。トイレ行かはりましたよ」
 「ほら、見てみい! あんた、やられたわ。……」
 「へっ、何を! どういう事ですか?」
 この先輩の説明が途切れた、わけわからん言動を翌日になって私は身に沁み
 て知る事になる。

 「あんた、私がトイレ行った時一人やったな。金庫に鍵掛けずに席立った私
 も、不注意やったけど。帳簿、再確認しても誤りは無いし。証拠無いから、
 これ以上は言わへんわ」
  仕事中に副主任のいる寮母室へ呼び出され、昨日の午後の事態を確認され
 る。五千円が不明だと、東野さんの私へ頭から決め付けた発言。自分は身に
 覚え無いと断言しても、素知らぬ顔で寮母室を出て行った。
  副主任は、二人きりになると初めて話してくれた。同じ事が過去に二度
 あったのだ、と。東野さんのことは、次長も分かっているから不足金は事務
 所で処理するので心配要らない。それを聞いて、堪えていたものが一挙に溢
 れ副主任へ抱きついて号泣した。
 「あ……あ、あんた、べっぴんが台無しやんかいな」
 泣き止まない私の背中をさすってくれたのだった。

  別の日の午後、病室の入居者さん達の預かり金で皆んなの肌着を新調し
 帳簿をつけている私に、ミズノちゃんが話しかけて来た。
 「あだっさぁん、渡辺さんにね、新しい靴買ったんですよ」
 「ほんま、良かったやん!」
 どことなく靴を見て欲しそうな彼女の口ぶり。
 「どんな靴?」
  二人で渡辺さんの居室へ行き相部屋の人に挨拶して下駄箱を覗くと、さ
 らっぴんの高齢者シューズで落ち着いた桃色のリハビリスニーカーが、客
 人の様な顔で鎮座している。
 「いいんちゃうの! 可愛くてステキ」
 「そうですかぁ!」
 「うん。今日から履いてもらったらいいやん!」
  渡辺さんは、廊下の手摺りを伝い一日のほとんど徘徊している。たいてい
 誰かの目に、その姿は見留められていた。彼女に言葉はなくても、いつもに
 こやかに頷き返事は出来る。
  夕食前に食堂ホールへ出向く時、ミズノちゃんは渡辺さんに新しい靴を履
 いてもらった。耳の遠い彼女が笑い返してくれると、
 「渡辺さん、新しい靴良く似合いますね! 良かったですね」
 ミズノちゃんは声を大きくしてゆっくり話すのだった。
  それから間も無くして、渡辺さんは事件を起こした。

  あの日は、寮父が宿直勤務だったので朝礼での申し送りによると二十二時
 過ぎの事。
  見回りで居室を覗いたキクチ君は、守衛の濱戸さんと館内中走り回って渡
 辺さんを探した。次長と主任へ緊急連絡し、近所に住まう主任とチーママが
 車を出して捜索する。たまたま施設前の車道を下って国道へ出た歩道を、石
 山方面へ歩く姿が発見された。この騒動があって以後、正門は施錠されるよ
 うになった。
  ところが、日中に裏門で同じ事が起こってしまう。彼女は、外を歩きた
 かったのだろう。外出するには人手が足らず、施設のレクリエーションでお
 散歩は少なかった。
  命に関わる為、裏門も施錠されるようになった。やがて彼女が感染症で寝
 込んだ後に、床上げしても療養中だった時の様に車椅子で過ごしてもらう組
 識としての、対応が取られるようになった。
  まだ歩けるはずの認知症のひとを、車椅子にしてしまうのか! 私には、
 忘れられない記憶になった。

  車椅子の足ベルトで固定される足首と、新しい桃色のリハビリシューズを
 履いた足。渡辺さんが徘徊していた時、見せてくれた明るい表情も乏しく
 なってしまった。
  もう一度言おう、ミズノちゃんが預かり金で購入した新しい靴は、彼女に
 歩いてもらうための物だったのだ。
 
 


                【次回へ続く】
 
 

  
 




散文(批評随筆小説等) 鏡像 【改訂】 Copyright リリー 2024-03-19 14:31:51
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