寄り道の先の亡霊
ホロウ・シカエルボク


誰かが俺のことを呼んでるのは聞こえていたけど俺はすっかり出来上がってしまっていて返事ひとつもままならなかった、ここで無理矢理立ち上がったところでテーブルと一緒に転んで弁償するグラスがまたひとつ増えるだけだった、まわりの皆も俺がそこに居ることやどんな状態かってこともわかっていたけれどそれは珍しいことじゃないから誰もなにも言わなかった、それは本当は冷たさだったのかもしれないけれどべろべろの俺にはとんでもない優しさに思えて恩返しに酒でも振舞いたかったけれどさっきも言った通りろくに口をきくことも出来やしなかった、出来上がっているのに出来ないことばかりだ、なんだこりゃ、哲学かなんかか?哲学なんて時間の無駄だって言うやつ居るよな、預金残高をデカくすることだけが生きがいみたいに思ってる連中さ、そういう連中ときたらいつでもどこでも俺を捕まえてよくある説教をまるで自分で考えたみたいに喋りやがるんだ、そうして俺はそれをへらへら笑いながら最後まで聞いてやるのさ、どうせあいつら他人の話なんか聞きやしないからね、まったく、簡単なことすら出来ないやつほど妙な自信でもって大上段から話しやがる、俺に言わせりゃ時間の無駄ほど人間を育ててくれるものはないね、メイン道路を歩くだけのヤツよりも寄り道を繰り返すヤツの方がその土地のことはよくわかっている筈さ、そういうくだらないことを考えているといつの間にか床に倒れていた、うつ伏せに、力無く…初めて見るヤツは死んだんじゃないかって気を揉んでいる筈さ、俺はなにひとつままならなくなってもそういうことはきちんと理解出来るんだ、いや、もしかしたら、なにひとつままならないからそういうことに敏感になるのかもしれないな―ともかく俺はいつものように数人の客に店外に放り出され、軽く雪の積もった歩道の上に落ちた、冷てえ、けれどそれは酔いを早く覚ますのに役に立った、半時間もせずに俺は人間のようにきちんと立ち上がることが出来、そのまま壁にもたれていると歩くことだって出来るようになった、まるで赤子からやり直してる感じだ、死と再生、退化と進化、そんなの、なにも何千年も待たなくったって何回も繰り返すことが出来るのさ、ひとりの人間が生まれてから死ぬまでまったくおんなじそいつだなんて馬鹿げた話だと思うぜ、俺は口笛を吹きながら住処へ向かう道を歩いた、急ぐ気はなかった、寄り道の話はもうしたよね?そう、俺は寄り道をするのが以上に好きな人間なんだ、そのせいで見る必要もないような光景を見ることもあったけれど―ひとつ凄く強烈に覚えてる景色があるんだ、その話聞いてくれるか?これは以前詩に書いたことがあるんだけど、この話をもう一度したいわけってもんがあるのさ、もう何年前だろう、四年くらいは前の話かもしれない、その頃俺は割と家から近いところで仕事をしていてね、だから毎日歩いていたんだ、家と職場の間をね、寄り道をしながらさ、もちろん…ある日の帰り道、当時の仕事場と俺の住処の間には風俗街というものがあってさ、と言っても、かつての栄光はどこへやら、割れたガラスの中にあらゆる種類のゴミがたくさん詰め込まれた巨大なビルのソープランドの廃墟が数軒あって、営業している小さな店も昔みたいに呼び込みのアンチャンが立っていたりなんかしない、ただ看板を点灯させて客がドアを鳴らすのを待っているだけさ、あとは、もういまはやっていないだろうけど、婆さんに小さな建物に呼び込まれて、その婆さんよりはもう少し若い女とヤレるところとかあったよ、とにかく、そういう区画があるんだ、どちらかと言えば俺の家に近い方にね、そこに一軒のそこそこ大きなラブホテルがあって、そこはもちろん女と一緒に入ることも出来るし、ひとりで入って中から女を呼ぶことも出来るようなところだったんだ、そのホテルの近くを歩いていた時さ―ショートカットで咥え煙草の酷く痩せたメイド服を着たショートボブの女が自転車で俺のことを追い越して、ホテルの駐車場の隅に自転車を止めた、彼女はそこで煙草を消して携帯灰皿にしまい、自転車に鍵を掛けてすたすたと、テニスの試合にでも行くような感じで中に入っていった、俺はその一部始終を見てからなんだか酷く陰鬱な気持ちになってさ、本当にしばらくの間どんよりとしていたんだ、何が俺をそうさせているのかよくわからなかった、あの女が凄く痩せていたせいかもしれない、あの女にどんな感情も感じられなかったからかもしれない、あの女が咥えていた煙草のせいかもしれない、俺にわかっているのはそんな一連の光景のすべてが、俺を酷く悪い気分にさせたってことだけなんだ…じゃあ、なんでもう一度この話をしたのかバラそうか、このホテルも去年くらいに無くなっちまったんだ、やっぱり仕事の帰りに、いや、あれは休みの日の散歩の帰りだったかもしれない、そのホテルの中のものが撤去されている場面にたまたま出くわしたんだよね、そこから数ヶ月もしないうちに更地になってた、俺はいまでもそのあたりを歩くとき、時々立ち止まってホテルのことを思い出すのさ、そんなときには必ず、あの痩せぎすのメイドコスの女が亡霊のように俺のことを追い越していくんだ



自由詩 寄り道の先の亡霊 Copyright ホロウ・シカエルボク 2024-03-09 22:51:01
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