三文芝居の夜
ホロウ・シカエルボク


一日中、降っては止みを繰り返した雨に濡れた街が、僅かな街灯の明かりに照らされて終末のようだ、新しい靴のソールは穴だらけの歩道の水溜りを完全に拒んだ、俺はそれをいい兆候だと感じていたんだ、風が弄るみたいに四方八方から吹き付けていて、そいつが俺とすれ違う時に世界の音を一瞬全部消してしまうせいで、ろくでもないことばかりを思い出しそうになって歯痒い思いをしていたのさ、もちろんそれはもう本物の記憶ではない、その時々の感情によって適当に塗り替えられてしまっている、まだ早い時間なのに車の流れが完全に途切れる時間があって、そのたびに世界はもう終わってしまったのだと勘違いする、それが予知なのか願望なのか、どちらかに決める勇気なんか俺にはないよ、誰もがこうあるべきなんだとでも言いたげに信号が点滅している、あいつが本当にやりたいことはきっと、信号無視をしたやつの頭に向かって倒れることだろう、ま、信号の気持ちを茶化してやれるくらい楽しい人生を生きているわけではないけどね…ずぶ濡れの酔っ払いが潰れた喫茶店の入口ドアにもたれてずっと同じ歌の一節だけを繰り返している、彼の服は酷く汚れている、ホームレスかもしれない、かすれた喉から絞り出すその歌は三十年は前のものだった、もはや彼自身、そんなものにどんな信頼もおいていないみたいに見えた、にもかかわらずその歌をずっと口ずさんでいるのは、きっと、他にすることをなにも思いつかないせいさ―人生にある種の確信を得ている連中の頭の中に在るのは、自分以外の誰かがこしらえたスローガンだ、文化体育館の前に掲げられた健全な精神がどうのこうのという垂れ幕を見ながらそんなことを考えた、それがどんな時代だろうと同じことだ、自分の言葉を隠してしまうことが美徳だと考える人間は大勢居る、まあ、俺にはなんの関係もない話だけどね、時折思い出したみたいに雨粒がひと時パラついてはあっという間に消えてしまう、服が濡れてしまうほどの雨ではないから傘を買わないままでいる、どこに行くという考えはない、家に帰ったら詩を書こうと思っている、詩なんかもうとっくに失われた、世間に詩情なんかもう存在しない、書き続けている俺はそのことをよく知っている、言葉を言葉のままでしか記せない人間たちが、どこかに手本があるようなものを書き続けている、それについてだけはほんの少し歯痒く思ったりもするけれど―俺は、自分がなにを考えているのか知りたいだけなのさ、いつだってね、考えを記すために書いているわけじゃない、順番がまるで違うんだ、考えを記すための詩は、結局頭の中にあるものを書き写すだけに終わってしまう、俺はそんな手法に興味が無い、俺はきっかけになる言葉を見つけて、速度の中で自分の奥底にあるものを引き摺り出そうとしているんだ、上手く行く時だってあるし、上手く行かない時だってある、牙を剥きたいのに、奇妙なほどに抽象的な言葉が並んだものを書いてしまうときだってある、つまりさ、欲望だけがあって…それがどんな形で完結するかなんてことはどうだっていいんだ、短い点滅信号を渡ろうとしてスクーターに撥ねられそうになる、スクーターの若い男は舌打ちをする、俺は軽く首を傾げる、そんなことはこれまでに何度かあったけれど、それ以上のことは起こりはしなかった、臆病なこの街の連中はいつだって、とても強い振りをするだけさ―建物が少なくなった、遅くまで空いてる店はコンビニだけになった、街はどんどん味気無くなって行く、幸せそうなのは酔っ払いばかりさ、しかもその中の何人かは嘘をついているんだ、広い交差点のど真ん中で爆弾を爆発させる映画を観たことがある、もう十年近く前のことだろうか、もしも自分にそんな機会がやってきたとしたら、俺は同じことをすだろうか?時々そんなことを考える、そんなことするわけないじゃない、と、笑って返すことは出来ない、少なくともそのくらい迷うだけのものは胸の内にあるってことさ…俺は缶コーヒーを飲み、車の流れが完全に途切れた広い交差点の真ん中に躍り出て、爆弾のように跳ね上がって倒れ込んだ、シャツが濡れてしまったけれどそんなことはどうでもよかった、覚悟のうえで傘を持って出なかったのだから…一瞬そのまま眠り込みそうになって慌てて歩道に戻った、歩道には警察官が二人立っていて、俺に向かってこんばんはと言った、俺も同じように返した、「さっきなにをされていたので?」「アマチュアのダンサーなんだ」と俺は口から出まかせを言った、「振り付けで悩んでいて散歩に出たんだ、突然いいフィニッシュが思い浮かんだんでちょっとやってみたくなったんだ」「なるほど」と警官は口々にそう言った、納得したのかどうかまではわからなかった、「歩道とか、公園とかでね、やるようにしてください、車道に出てやることじゃない…確かに今夜は妙に車が居ないけれどもね」俺は素直に詫びた、それで二人は納得して気を付けて帰ってくださいと子供をあやすように言った、あ、と、俺は二人を呼び止めた、二人は振り返り、どうしたんですかと目で訊いた、「こんな日には、実は世界は終わっているのかもしれないと考えることはないか?」警官二人は一瞬目を合わせて、それからばらばらによくわからないという風に首を傾げた、わかってくれるかもしれないと思ったんだ、と俺は弁解した、「でもどっちでもいい、わかって欲しかったというわけではない」警官二人はわかるよという風に頷いた、多分それが最善の返答だと考えたのだ―家に帰って少し詩を書いた、一日はそんなことだけで完全に塗り潰されて真っ暗になった。



自由詩 三文芝居の夜 Copyright ホロウ・シカエルボク 2024-02-19 22:42:26
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