のらねこ物語 其の二十「木彫りの虎」(一)
リリー

 「おい、近江屋。お前んとこの金魚の掛け軸、えらい評判
  じゃないか。」
 店先でお客様をお見送りした主人へ同心が声を掛けてきた

 「あ、これはこれは八丁堀の旦那。はい、手前共もまったく
  信じられないことでございます。」
 「俺も一つ、拝ませてもらおうか。」
 奉行所の役人が店の奥を覗き、帳場格子のわきの壁に
 吊るしてある掛け軸へ目をやると
 「それがでございますね…、このところ金魚はまったく
  泳がなくなりまして。」
 「どうしてだ?」
 「分かりません。もう動かないのかもしれません。」
 困った顔をする主人

 不思議がる同心の背中に突如浴びせられる突き刺さる様な口調
 「中村さん!あなた、こんな所で何してるんですか?
  早く持ち場へ戻りなさい。そんなことだから、あなたいつも
  昼行燈なんて、皆んなから言われるんですよ!」

 「田中様、申し訳ございません。いえ、近江屋と掛け軸の話を
  しておりましてですね…。」
 「例の掛け軸の事ですか?そんなの、この不景気で町の人が
  何か面白い事求めて冗談言ってるに決まってます!
  行きますよ。」
 「はい。」
 気まずそうに何度も頭を下げていた中村主水
 「じゃあな、近江屋。」
 筆頭同心の田中の後を小走りで追いかけて行った

 近江屋の店内には畳の間に腰掛ける旅姿の男が
 通りを跨ぐ真向かいの大野屋へ視線を投げ
 独りごちる
 「俺から見りゃ、良い出来とは思えないんだがなぁ…。」

 大野屋が店の奥の帳場格子の脇に低い台を添えて
 ちょうど近江屋の店先を睨みつけるように置いた
 木彫りの虎
 毛の文様、歯まで細やかに掘られており
 重圧感や迫力、繊細さなど
 作家の力量を感じる と
 大野屋を訪れる人は口々に言った

 「そうかねえ…。」
 両腕を組み考える男には、虎にそなわる風格が無いように
 思えたのである 
 近江屋の掛け軸を振り返り見て言ったのだ
 「こっちの金魚の方が生きてるぜ。」

 この男こそ、天下の名匠と知られる彫刻職人
 左甚五郎であった。


自由詩 のらねこ物語 其の二十「木彫りの虎」(一) Copyright リリー 2024-02-19 20:39:07
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