Rend Fou
ホロウ・シカエルボク
それは、どこから始まったのかわからなかった、部屋中に蚕の糸が絡みついているかのように白く、いつもそこにあるはずのものを認識することが出来なかった、いつもとは違うにおいがした、あまり適当な例えを思いつかないが、しいて言うのなら―黄泉のにおい、とでもいうような…身体も上手く動かすことは出来なかった、糸が絡みついているのかもしれない、いったいどういうわけだ、俺は直前までしていたことを思い出そうとした、でもどうしても思い出すことが出来なかった、そんなわけがない、たいしたことはしていなかった、でもここは自室であり、いつもと変わらない日常が淡々と繰り広げられていたに違いなかった、でもなにも思い出せなかった、目にしていたもの、手に取っていたもの、口にしていたもの、動作―なにも、瞬間に世界は塗り替えられた、俺は茫然として事の成り行きを見守った、数分―もしかしたら数時間だったのかもしれないが、その間はなにも起こらなかった、突然眠り込んで夢でも見ているのだろうか、そんな風に考えてみたがしっくりこなかった、とにかくある程度の時間が過ぎてから、身体の自由が利くようになった、とはいえ、ほんの少し確かめただけで、そこでどんなことをする気にもならなかった、部屋の中は糸が絡みついているわけではなく、ただ真っ白に塗り潰されていただけだった、絵具でもペンキでも無かった、ただなんらかの方法で真っ白に塗り潰されていた、窓はどうなったんだ、と俺は思った、窓があったんだ、俺がいま座っている正面の壁に―その壁に近寄って手を触れてみた、それはただの壁だった、窓の感触はどこにも見当たらなかった、俺は頭がおかしくなったのだろうか、と考えた、いままで当り前に展開されていた日常があっという間に壊れたのだ、そう考えるのは当然のことだった、俺はそう仮定してみることにした、もしもそうなら、このあと俺がやるべきことはなにもなかった、この現象が俺の部屋の中だけのことなのか、それとも他の部屋でも―あるいは区域や街で起こっているできごとだったにせよ、こんな出来事に遭遇したことがあるものなどいないだろう、とりあえずじっとしていることにした、でも、それは長くは続かなかった、部屋の外に出てみてはどうだろう、という考えが頭をもたげたからだ…少し危険な気はした、動かない方がいいという思いがあった、でも、少し確かめるだけなら問題ないだろうと思って、少し出てみることにした、しかし、着替えも財布も携帯も部屋の中には見当たらなかった、だからいまの格好のままで出てみることにした、ドアは鍵を掛けておいたはずなのに開いていた、まあ、鍵が見当たらないのだからそれでよかったのかもしれない、いや―部屋を出ようとしてあることが引っかかった、もしも、この部屋を出たあとでこのドアに鍵がかけられたらどうするんだ―?俺は外に目をやった、部屋と同じくらい白かった、いつも見えている景色がまるで存在していないように思えた、俺は部屋の中に戻りじっと座り込んだ―どれくらい時間が過ぎたのだろう?かなりの時間が過ぎたように思った、俺は自分の身体になんの異常もないことをおかしいと思った、座り続けていれば普通、背中や尻が痛くなるし、集中力だって途切れてくる、なのに俺は脳味噌まで塗り潰されたかのようになにも考えていなかった、そのとき俺は初めて恐怖を感じた、悲鳴を上げて外へ飛び出した、部屋を出てすぐに右へ曲がれば一階に下りる階段があるはずだったが、見つけることが出来なかった、畜生、と俺は自分のアパートの壁を蹴り飛ばした、それから闇雲に走り続けた、普通ならばJRの駅へと辿り着く方角だった、でも、なにも見えてこなかった、ただただ真っ白い世界が広がっているだけだった、俺は狂ったように叫びながら速く走った、息が切れることも無かった、俺はもう死んでいるのだろうか、と考え始めていた、わけがわからない、どうして突然こんな目に遭うんだ、なんでもいい、と俺は口走った、なんでもいい、どんなことでもいい、動いてくれ、この真っ白い世界から俺を出してくれ―その時―突然足元が奪われ、身体はもの凄い速度で落下し始めた、そしてその速度に合わせるように白い世界が霧が晴れるように散っていった、目の端に巨大なビルが見えた、地面からかなりの距離があった、なぜ、俺はこんなところにいる筈では―そう考える間もなく、俺は顔面から地面に叩きつけられた、脊髄を拠点にして、全身の骨が一瞬で砕ける感覚があった、もうなにも見えなかった、呼吸も出来なかった、地面が冷たかった、かなりの血が流れているのだろう、耳だけがまだ音をとらえていた、あの窓を開けることなんて出来ないはずなのに、誰かが嘘だろという調子でそう呟いたのが聞こえた、なあ、あんた、説明してくれないか、俺はそう懇願しようとした、でも、もう、なにも思い通りにはならなかった、真っ白い世界からは逃れることが出来たけれど、もうすぐ完全に、真っ黒い闇に飲み込まれようとしていた。