私が子どもを殺さない理由
佐々宝砂

また少女監禁事件があった。と書いてるあいだにまたあるかもしれない。というよりも、今この瞬間、誰かしら監禁または軟禁状態に置かれ虐待されて辛い目にあってると考えるのが冷静な見方だろう。報道されることだけが事件だ、と考えるほど私は幼稚じゃない。あれはきっと氷山の一角なのだ。

虐待されてる人間は気の毒だ。悲惨だ。なんとかして救われないだろうか、と考えるのは、一応人間として当然である。私とて、まずはそう思う。交番に駆け込んだ少女の「怖い」という叫び声、教会にふらふらと入っていった少女の疲れた様子、想像するとなんといったらいいかわからないくらい悲しい。まずは、そう感じる。いくら私だって、まずはそう感じるのだ、ということを強調しておきたい。普通の人は、少女たちの姿を想像して悲しんだあと、犯人に怒りを感じるだろう。私も怒りを感じる。だが怒りの内容が、一般人と私とじゃやや違うのだ。

幾度か書いてきたことだが、私はどっぷりホラーファンだ。血みどろどーろどろ内臓ぐーちゃぐちゃ排泄物げーろげろをこよなく愛している。古いとこだと月岡芳年の残酷絵(血の手形がべたべたついてるやつとか、銃口がこっち向いてるやつとか、ああ好きよ好きよ)、わりと新しいとこだとマンガ家の丸尾末広とか伊藤潤二とか、あと小説だとやっぱ友成純一を超えるヒトなかなかないのよね、『凌辱の魔界』サイコーよぉ、だなんていちいちあげてくとキリがないのでこの辺にして、とにかく私はそーゆーものが好きなのである。好きとゆーか必要なんである。ないと生きてゆけないんである。ホラーのない世の中になんて、生きていたくないんである。私にとって、ホラーはそのくらい大事なもんなのだ。

宮崎勤の幼女殺害事件の折、私は、テレビというテレビからホラー映画が一斉に消え失せ、マンガというマンガから残酷描写がみるみる減ってゆくのを目撃した。私の愛する、ホラーという小さな一ジャンルはこれでオシマイになってしまうのではないかしら、と危惧したほどだった。ありがたいことにホラーはオシマイにならなかったが、少なくともスプラッタ映画の興隆は完璧に終わった。当時すでにスプラッタのブームは終わりつつあったが、宮崎勤のせいで、完全に首を絞められて終わった。私はとても悲しかった。宮崎勤バカヤローこんちくしょークソッタレと心の中で何度も叫んだ。でも、宮崎勤を憎みきれない自分を自覚しないわけにはいかなかった。私のぐちゃぐちゃな私室は彼の部屋とあまりかわりがなかったし、私の本棚はほぼ八割SFとホラーが占めていた。数多くはなかったが、手持ちのビデオは全部スプラッタだった。エロ本もあった。アニメグッズも多少はあった。壁にはアニメのポスターが貼ってあった。つまり私は間違いなくオタクで、ヒトサマに後ろ指さされてもしかたない趣味の持ち主だったのだ。

でも、でも、私は宮崎勤じゃない。小林薫じゃない。絶対に、ちがう。私はあんな犯罪を犯したりしない。子どもを監禁しない。殺さない。誓う。誠心誠意、心の底から、誓う。感情的な理由ではなく、利他的な理由でもなく、非常に利己的な理由で、私は犯罪を犯さない。犯したくない。もし私が性犯罪や監禁罪を犯したら、いま以上に「表現の自由を制限しよう」という動きが強まるだろう。私はとてもホラーを大事に思う。しかし、ホラーには、ヒトサマに好まれない面がたくさんある。不快な表現、残虐表現がついてまわる。表現の自由が制限されるとたいへんこまる。制限される表現は、まず性描写と残酷描写だと予想されるからだ。私が表現の自由を叫ぶのは、表現者としての倫理感覚からではない。もうごく単純に、自分が生き延びるために必要な栄養をなくさないための必死の叫びと言っていい。制限されたくないから、私は犯罪を犯さない。ある程度は、自分の表現を自粛さえする。

私が犯罪者になったら、マスコミは言うだろう、「今度は静岡で、容疑者はなんと女性です。容疑者の部屋からは大量のSFとホラーが発見されました。また容疑者はインターネットのサイトで詩や批評を書いており、詩人を自称しています」・・・私一人の犯罪のせいで、SFとホラーだけではなく、このサイト現代詩フォーラムだって規制されちゃうかもしれないのだ。一時的な大騒ぎで有名になるかもしれないけど、そんなふうにここが有名になっても嬉しかないでしょ?

表現の自由には責任が伴う。しかし今の時代、表現の享受の自由にも責任が伴うのだ、と私はニュースを見ながら思う。残虐表現、幼女虐待イラスト、監禁ゲーム、そういったものが提供する快楽を享受している人間は、普通人よりいっそう自分の行動に注意を払わねばならない。パソコンに溜め込まれた画像が、ゲームが、本棚にずらっと並べた黒い背表紙が、犯罪の動機になった、と考えられてもしかたないからだ(関係ないけど、どうしてホラー本はたいてい黒い背表紙なんだろね)。

私は自分の好きな表現を守るために考える。こうなったらああなるな、といろいろ予測する。宮崎だの小林だのなんだのは、そういう予測をしなかった大馬鹿野郎だ。アホンダラのボケナスの脳味噌ゼロのスカポンタンの大マヌケだ。やつらがアホなことするから、自由が制限されそうになるのだ。目の前の自分の快楽しか考えない、ヒトの迷惑顧みない、バカタレども。許せない。頭にくる。本当に殴りつけにいきたい。

だが、そんなことすると犯罪になるので、私はやらない。かわりにこんなものを書き、なけなしの金をユニセフに寄付し、アフリカで暮らす自分のフォスター・チャイルドに可愛いハロー・キティー筆記用具を送付するのであった、いや、自分の善行は隠しておくに限るけどね、今回は書きたくなったのさ、恥ずかしいからあとでこの部分削除するかもなのだ(笑)。


散文(批評随筆小説等) 私が子どもを殺さない理由 Copyright 佐々宝砂 2005-05-17 03:35:34
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