燃える!
田中宏輔
登場人物 夫──壮年のサラリーマン。
妻──夫より三歳下。専業主婦。
娘──短大出たてのOL。
舞台 東京都世田谷区の一戸建て住宅。
(平成二年、八月七日、夕方。世田谷区の一軒家。
単身赴任で岡山にいっていた父親が、久しぶりに
東京に帰ってきたところ。台所で、夕飯の支度を
する妻の後ろに立つ。妻、振り返る。)
妻──あら、あなた。いつ、かえってらしたの。
夫──ああ、たった、いまだよ。
(ぼさーっと突っ立っている夫にイライラしてしまう
妻。ねぎを刻む音が、不自然なほどに大きい。まな
板の上から、ねぎの細切れがぽろぽろと落ちる。)
妻──そんなところに突っ立っていないで、すわっててくださらない。
夫──ああ。わかったよ。
(と言って腰掛けたとたん、椅子が燃え上がった。)
夫──おっ、おいつ。どうしたんだ、この椅子。
(立ち上がる夫。火は消えて、跡形もない。)
妻──えっ。何ですって。
(と言って振り返る妻。何がなんだかわからず、ただ
呆然として、椅子を見下ろす夫。妻、呆れ顔。)
妻──何なのよ、あなた。
夫──いや、何でもない。何でもない。
(夫、首をかしげながらすわりなおす。火がつく。)
夫──うわっ、おっ、おいっ。
(妻、振り返るが、椅子はまた何ともない。)
妻──どうしたのよ、あなた。身体の具合でも悪いのかしら。
(夫、愕然として椅子を見下ろしている。娘、登場。)
娘──ちょっと、おかあさん。聞いてくれる。あのひとったらさあ……
夫──おいっ。あのひとって、だれなんだあ。わしは聞いとらんぞ。
娘──お父さんには関係ないでしょ。
夫──何だって。
(娘、父親にむかって、ふくれっつらをする。)
妻──(夫に向かって)まあ、まあ、まあ。(娘のほうに向いて)あなたも落ち着いて。(そして、ふたりの顔を交互にながめて)すわって話せることでしょ。
(ふたり、うなずいて椅子にすわる。)
夫──うわっ。かっ、火事だ!
(と言って叫ぶ声も、女たちの耳にはまったく聞こえ
なかった。火の勢いは信じられないほどに強烈で、
男は燃える椅子の上でたちまち灰となっていった。)
娘──きょうのおかずは何。
妻──あなたの大好物ばかりよ。
(微笑みあう母と娘。さりげなく沸騰する、やかん。
ふたりは動かず、舞台の上の照明が溶暗してゆく。)