Lの昇天①
朧月夜
……小曲は終わった。
木枯のような音が一しきり過ぎていった。
そのあとはまたもとの静けさのなかで音楽が鳴り響いていった。
――梶井基次郎「器楽的幻覚」
*Lは雑踏の中にたたずんでいる
Lは雑踏の中にたたずんでいた。季節は3月。Lは空を見上げていた。雪。無数の淡雪が舞い降りて、そのうちのいくつかが彼女の薄い化粧をした顔に触れ、体温で溶けていく。
Sの街でもこの季節に雪が降ることは珍しい。それは、ほぼ一カ月ぶりの降雪だった。だからと言って、人々は慌てることもない。
Lは何も考えてはいない。雑踏の中にたたずんていることも。時折誰かの肩や手が彼女の肩や手に触れていくことも。気がかりなことは何もない。……そう、何もなかった。
<哀れなるかな、イカルスが幾人も来ては落っこちる。>
Lは、昔読んだそんな文章を思い出していた。何に出て来た言葉だったっけ――と、Lは考える。そうだ、「Kの昇天」という小説だった。Lは思い出す。内容はあまり覚えていない。たしか、誰かが入水自殺をし、その観察者が主人公(?)は天に向かって昇っていってしまったのだ、と思う話だった。
それも、今のLには関係がない。ただ、空から落ちてくる雪がイカロスの羽根の欠片のように思えていた。
いつまでもそうしていたかった。空は全くのグレーで、そこに吸い込まれてしまいそうに思える。そう、小説の主人公が昇天してしまったように、Lは死にたいと思っていた。理由はない。ただ何となく、という理由でそうしたかった。
(小説の主人公のようにこのまま天に昇れたら)
と、Lは考える。しかし、それは「死」だろうか。あるいは「死」ではないのかもしれない。あくまでも、Lが望んでいるのは生命を絶つことだったから。
そのことにも理由はない。生活には満足していたし、それなりに暮らしていけるだけの貯えもある。Lは実家に住んでいるから、今どきの若者たちのように日々の稼ぎで苦労することもなかった。苦労知らずの自分――それが今は恥ずかしくもなく、ましてや誇りでもない。
この世の何割かの人間は貧しさの中で生きているし、この世の何割かの人間は豊かさの中で生きている。その中間で生きている人間もいるだろう。自分もそのうちのたった一人だと、Lは思う。生きることに理由はないし、同様に死ぬことにも理由はない。
自分が物語の主人公だったら――と、Lは考える。主人公が死のうとしている場面から始まるような小説は、そう多くはない。今思いつくのは、パウロ・コエーリョの「ベロニカは死ぬことにした」くらいだ。その小説も、最後は主人公は救われてしまう。きっと、今の自分なら違った結末になるだろう。
(わたしには先というものはない)
そう一人で決めつける。
こんな気持ちを認めてくれる人を求めていたわけではない。不安定な自分と一緒に暮らしていくのであれば、それは介護と似たようなものとなるだろう。Lは看護師を探しているのではなかった。未知な道を一緒に冒険してくれる相手を求めているのでもなかった。
彼女にとって「死」は魅力ではなかったし、何かの結論のようにも思えなかった。ただ、それは決められていて、今の彼女が雑踏の中にたたずんでいるように、何かの必然のように思われた。
(「死」は来るんだ、確実に)
ただそう思っていた。
雪の降っている空から、Lは前方に目を移す。その動作もあらかじめ決まりきったもののようだった。街の中にいる以上、人は何かをしなければならない。街の中にいて、何もせずにいるということはホームレスにだけ許された特権だ。そして、この街にホームレスは少ない。
Lの目の前には、点滅する青と赤の信号が存在していた。それは何か、自己の存在をアピールしているもののように思える。「生きようとしている人々」にとって、それは何かの意味を持つのだろう。しかし、今のLには点滅する信号が抽象画か何かのように感じられた。存在することで存在している、それ以外の意味はない。
そして、地下鉄の駅へと降りていく人々。移動にも何かの意味がある。帰宅するために、仕事へ行くために、娯楽に出かけるために、人は移動をする。つまり、そこには目的があるのだ。目的がないものは、地下鉄にも乗らない。
*Lは街の中を歩く
Lは歩き出す。何かへの反抗心からでもなく、何かへの従順な心からでもなく、ただ目的がないということのために。
Lはまず、北へ向かって歩いていく。北は「死」をイメージさせる。「極北」という言葉もある。北は誰にとっても因縁めいたイメージを残すものだろう。この期に及んで自分が求めるもの――というのを、Lは皮肉に感じていた。
アーケード街を歩いていると、人の数は増えた。銀行、ラーメン店、ダイニング・バー、喫茶店。今さらのように、Lはこの街の雑多な構成のことに思い至る。そこでは、清潔と猥雑とが同居している。それは、S以外の街にはない特徴だった。
ごく普通の街では、繁華街とビジネス街とは明確に区別されている。しかし、この街にはそれがなかった。オフィスビルの隣に風俗店が並んでいることもあれば、高価な宝石店の隣にリサイクルショップが並んでいることもある。それはまるで、生と死との混在、静と動との混在を思わせた。
(今の自分の気分にはふさわしい)
と、Lは一人ごちる。誰にも聞こえないような声で。
Lの周囲にいる幾人かは、Lが狂気に駆られていることに気づいていただろう。何も見ずに、何の目的もなしに歩いていくということはそういうことだ。Lはかつて見た光景を肌で感じ、第六感で分析している。
(この街は自分にふさわしかったのだろうか)――と。
Lが死にたい気持ちはたしかに必然だった。それは、Lの曖昧模糊とした精神からもたらされたものだったろう。恋人とは2年も前に別れていたし、仕事を辞めたのも3カ月も前の話だ。Lは決して落ち込んでいるわけではない。そして、うつ病でもなかった。ただ、死に招き寄せられるように、それに向かって歩いていた。
Lの街にはY橋という自殺の名所がある。峡谷の上に架けられた橋で、100メートルほどの高さがある。そこから飛び降りれば、死ねることは間違いなかった。
かつて学校の教師から聞いた話では、Y橋にはかつて鉄条網が張り巡らされていたということだった。しかし、自殺志願者たちはそれを乗り越えて下へと飛び降りてしまうのだという。「自殺したい人は痛みを感じないからね」――と教師は言った。そのY橋も、今は鉄条網ではなく、防音フェンスのようなもので覆われている。
防音フェンスの上部は内側に向かって折れ曲がっていて、つまり、以前よりも飛び降り自殺がしにくくなったのだった。今でもそこが自殺の名所なのか、Lは知らない。ただ、自殺志願者が死の前に痛みを感じることはもうないだろう、とLは考えた。そして、
(そう言えば、自殺志願者は痛みを感じないのだったっけ)
と、思い直す。
Lは自分の右手で自分の左手をつまんでみる。そして、若干力を入れてひねる。Lは痛みを感じた。それは「生」の痛みのはずだったが、Lにとってそれはあまりにも茫漠としていた。「生きているから痛いのではなく、痛みを感じるシステムによって痛いのではないかしら」――と、今度は具象的に考えてみる。
北へ向かって歩いていると、H通りに出た。最初にたたずんでいた青江通りと比べると、そこには並木がないという違いがある。それが一層空の暗さと、そこから舞い降りてくる雪を際立たせているような感じがした。通りを歩く人々も、ここではいくぶん寒そうにしているように感じられた。
(なぜ、死にたいのだろう)
Lは、そこで再度思い直す。通りを行く人たちのいずれも、幸せとは行かないまでも不幸ではないようだった。それらの人々に比べて、自分が取り立てて不幸な訳でもない。ただ、死んで悲しむ人の数は少ないだろうと思えた。
「あの子は初めから死ぬことが決まっていたんだよ」
誰もがそう言いそうな気がした。
*H橋
交差点までやってきた時、Lはそのまままっすぐ歩道を渡ろうか、それとも右か左に折れようかと迷った。右に行けばS市の中央駅に、左に行けばH橋のほうへと行くことが出来る。H橋のたもとには、Lがよく通った喫茶店や図書館があった。そこからさらに北へと進んでいくと、Lが卒業した高校がある。
迷った末に、Lは西に向かっていくことに決める。川の流れが見たかった。
雪はその時小止みになって、すでにLの顔や衣服に触れることはなくなっていた。これくらいの雪や雨であれば、Sの街に住んでいる人々は傘をささない。もちろん、その時のLも傘をさしてはいなかった。ふと、肌に触れる冷たさがなくなったのをLは感じる。「冷たさ」=「死」ではない。当然、「冷たさ」=「生」でもなかった。
生きたい、という欲望を喪失したのだろうか。それとも、自分は何らかの快楽に憑かれているのだろうか、とLは考える。ハンドバッグの中からMP3プレイヤーを取り出して、Lはそのスイッチを入れ、ボタンを押した。ミレーヌ・ファルメールの"Dégénération"が流れて来る。Lは、自分に酔っているようではなかった。
H橋の下を流れる川の流れは、雪解け水で増水しているように思えた。
(ここへ飛び込めば、わたしは死ねるかもしれない)
と、Lは考える。そして、鞄の中から二冊の本を取り出した。「聖書」と「死の家の記録」。このごろずっと読んでいた本だ。それぞれを右手と左手に乗せて、重さを計ってみる。どちらも同じくらいに感じられた。
もし、右手のほうが重ければ上流から、左手のほうが重ければ下流から、Lは川の中へと飛び込むつもりだった。しかし、どちらも同じような重さに思える。このタイミングで神様が気まぐれを起こしたわけでもないだろうに、とLは考える。判断力の低下? そんなことも思った。
(死は必然だ)
と、Lは改めて思う。3月の初旬。まだ冬の気配が残る季節。誰もが花粉症の話題を口にし始める季節。その季節の中で、女が一人自殺したことなど、ニュースにもならないだろう。テレビやラジオはそれぞれの理由で忙しい。つまり、それぞれの社員の糊口をしのぐために。Lの人生にはそれは関係なかった。
友人がいないわけではない。しかし、Lの死を悲しむ者はそうはいないだろう。「やっぱり」と、皆は思うに違いない。今の時代、「神経衰弱」などという言葉は流行らない。今では、「神経症」という名前に変わっている。それは明確に精神疾患の一つで、狂気のことではない。Lが狂女かと言えば、そういうわけでもなかった。
ただ、Lはなんとなく生きていて、なんとなく死んだのだと、友人の誰もが思うだろう。だから、涙は流さないかもしれない。それで良い、とLは思う。今までそのために振る舞ってきてもいた。彼女にとっては、「死」が必然だと皆に思ってもらえるために。
LINEやメールでは「死」という言葉は使わない。自殺を連想させるような言葉も。ただ、Lは彼女が生きてはいないかのように振る舞うのが得意だった。何も感じず、何にも動じず、何にも感動しない、そういう冷たい女性に見せかけるのがうまかった。しかし、友人の皆がLは明るい女だと思っていた。
その不思議さを、Lは今になって考え直している。
(わたしにとって、死は必然だ)
だから、皆は驚かないのだ。というのが、彼女にとっての答えだった。あるいは、死後の彼女の感情を先取りして、死後には何が起こっても何も感じない、そういう予測が彼女の今の心理を決定しているのかもしれなかった。
しかし、ここは自分の死に場所ではない、とLは思う。この高さからでは死ねない、と思うからではない。入水後にもすぐに浮かび上がってきてしまう、と思うからでもない。誰かが彼女のことを発見してしまう、と思うからでもない。ただ、ここは自分の死に場所ではないような気がした。そして、誰かが止めに入ってしまうかもしれない。いかにこの街の人々が無関心に慣れているからといって、自殺志願者を放っておくことはないだろう……