Time Was
ホロウ・シカエルボク
停留所からバスが走り出した瞬間に、ずっと昔見た夢を思い出すような漠然とした感覚が迷子になっていることに気付いた、噛んでいたガムを捨ててあまり混んでいない喫茶店を探す、近頃じゃそんなことさえままならなくなった、餌を食らう牛や豚みたいに横一列になって座る店が増えた、といって、やたらと気取った名前の、注文に時間が掛かるコーヒーなど飲みたくもないし―カップに入った当り前のコーヒーが飲みたいだけなんだ、そういう時はメイン通りから一本、道を外れてみるといい、どういうわけかそんな通りには必ず草臥れた喫茶店が必ずある、ドアを開けるとカウベルの音が聞こえる、懐かしい、俺はジャストな世代じゃないけれどそう感じる、前世からの、あるいは遺伝に組み込まれた記憶なのかもしれない、余裕ブチかましてるソニー・ロリンズのサックスが聞こえる、ボリュームはそんなに大きくはない、席に着くと水とおしぼりがやって来る、コーヒー、と暖かいおしぼりで手を拭きながらそれだけを言う、数学者を思わせるクラシックな眼鏡をかけた背の高い痩せぎすの白髪の店主は、何も言わずに頷いてカウンターへ戻っていく、コーヒーはすぐにやって来る、マシンを使っているのだろう―こんな裏通りの、昼過ぎにまるで客も入っていないような店で、そんなマシンを使ってどうなるのだろうか、俺の分以外はすべて排水溝に流れ込む結果になるのではないか、そう考えた瞬間カウベルが聞こえ、六人の営業職らしいサラリーマンが入ってきた、なるほど、固定客があるなら問題ない、というわけだ、コーヒーは特別美味くも不味くもなかった、でも俺は特別美味いコーヒーを探していたわけでもないのだ、
中央公園のベンチに腰を掛けて車道を帯のように連なる車を眺めていると、父親がこの世からおさらばした午前3時のことを思い出した、スクーターで病院に向けて走った路面電車が中心を陣取る不自由な主要道路は昼間の騒ぎが嘘のように静まり返っていて、車など数台しかすれ違わなかった、あれは確か月曜だったはずだ、怪我をして仕事を休んでいて、その日から復帰する予定だったから―ルアーを制作している会社だった、今はどこかに引っ越してしまってもとあった場所には車の修理工場が出来ている、そんな仕事をしていたことなどすっかり忘れていた、ご多分に漏れず、あまり面白い仕事ではなかった、夜明け前、月と街灯の灯りだけで彩られた古臭い街は、どこか知らない国のように見えた、あったという間に病院に着いてしまったから、そんな景色のことはすっかり忘れてしまっていた…思い出してしまえばまるで昨日のことのようだ―年寄の夫婦が座るところを探していたので何も言わずにベンチを離れた、大手のカラオケ屋の屋上に設置されたオーロラビジョンが音声無しで地元の店舗のCMをひたすら垂れ流している、まるでこの街が豊かで、希望に満ち溢れていて、愛を感じさせるかのような―戯言―街がまだ動き始める前なら音声だって聞くことが出来る、そんなにたいしたことは言ってないけれど…もう何度この街を歩き、あちこちの店を覗き込んだだろう、俺の興味を引くような店はほとんど無くなってしまった、婦人服の店や、ネイルサロン、高級文具屋、コンビニエンスストア、焼肉屋、酒を飲ませるところ、女を弄べるところ―つまりそれがこの街のすべてだ、辛抱強く開け続けていた雨具の店も先日軒を畳んでしまった、三度その店で買物をしたことがある、レインコート、店頭のビニール傘…つまり、そういうことだ、近頃は余所からやって来た人間がそれまで見たこともないような洒落たデザインのスイーツやコーヒーの店が次々とオープンし始めた、そんな店はまだこの街の風景にしっくりとは来ていない、でも、少しの間生き延びることが出来たら、そこにそんな店が出来る前のことを思い出せる人間もかなり少なくなるだろう
詩人たち、詩人たち、書きあぐねたノートの上に、まっさらなワードの画面の中に、お前たちがこれから書き綴るものはなんだろう、それは希望だろうか、それは絶望だろうか、それは美しい愛だろうか、それとも醜悪な罪だろうか、それがなんであれ、それがなんであれ、俺はあまりにも簡単にそれを語って欲しくないと思うのだ、言葉はもっと難解であっていい、詩はもっと偏屈であっていい、断捨離だのミニマリズムだの、現代のイマジンはとかく簡単になりたがる、でも聞いてくれ、時代錯誤だと思われてもいい、あんたの部屋の剥き出しの壁は、所狭しと本や雑誌が詰め込まれた本棚に勝ることなんて決してない、死した後で部屋に残されるもの、それが人生の証拠だ、もしも俺がくたばる時が来たとしても、俺は何も隠したりしない、すべてを置いて現世から出て行くよ、色褪せたブコウスキーやブローティガン、アルバート・サムスンのシリーズ、丸尾末広や楳図かずお、もはやタイトルを列挙する気にすらなれないたくさんのコンパクト・ディスク、どうせ俺は用意周到に死ぬことなんか出来ない、俺の人生は断線のように終わるだろう、だったら悪足掻きなんかしないよ、死ぬ間際になってそんなことを初めても遅いんだ、俺は生まれた時からずっと悪足掻きを続けているんだぜ、自動販売機で甘い炭酸の飲物を買う、飲み干して、空缶を捨ててしまえば一日はもうラストランへのアップを済ませている。