ブラッシュアップ症候群
ホロウ・シカエルボク
充血した眼球は茶褐色の世界を眺めていた、時計は高速で逆回転を続けそのくせ何ひとつ巻き戻されてはいなかった、四肢の長過ぎるアビシニアンが毛玉対策を施した餌を欲しがってはガラスのように鳴き続けていた、毛細血管の悲鳴が一斉に聞こえ過ぎて交響楽団のようで、洗い桶に伏せられたマグカップからは新鮮な血液が滴っていた、カーテンは太陽光に焼かれてティッシュペーパーのように燃え落ちる、電気ポットの熱湯をぶちまけて消火すると消炭と歪な布だけが残った、太陽を眺めたくなかったので窓はベニヤ板で隠した、三十度越えの九月が脳味噌を綿菓子にしてしまう、なにひとつ面白くないジャック・ルーシェのピアノ、気が付けば一日中聴き続けてしまった、夢を見るためにどうのこうの御託を並べるやつは嫌いだ、その逆も然りだ、鉞で一角獣の頭蓋骨を叩き割れば俺もお前も穏やかな壁の中で生きられるのか、だけどそれは他のどんなことよりも悲惨な話に違いないさ、ミネラルウォーターの2リットルボトルに半生が反映されている、おそらくは見世物になるようなものではないからチケットは要求されない、故障のせいで映りきらなかった電光掲示板は禍々しい死を予感させた、電車を待っていたホームには一台もやって来なかった、人身事故だってアナウンスがあったらしいけど聞きそびれていた、もしも蒸発するなら誰にも追いかけられない飛行機が良い、狂ったタクシーが公園のオブジェを飛び越えながら目的地を目指している、排気ガスが描く軌道はまるでブルーインパルスのお家芸のようさ、公園に佇む人々には何の意味もないみたいに見えた、植え込まれた木々よりも物言わぬものに見えたのさ、だけど俺はそいつらを片っ端から殺したりなんかしなかった、叩いても叩いても増え続けるものにムキになったところで報われはしないのさ、街灯の柱にしがみついていた最後の夏がアスファルトに落ちてしまった、六本の脚を上に向けたままカサカサに乾いてしまったそれを、もしも誰かの運命のように語れたら詩人だって大金持ちになれるだろう、市民会館の窓に最速で激突した雀がしかめっ面で死んでしまった、何も恥じることなんかないさ、なにも恥じることなんかないよ、お前はあの分厚いガラスにヒビを入れたんだもの…、すべてのものに対して結局は祈るしかない、祈りなど何処にもいかない、誰だってそんなことは分かっているのさ、喧騒の中でほんの一瞬の間まったくの静寂が訪れる時俺は果たしてそれを現実だと認識出来るだろうか?きっといつまでも覚えているんじゃないのか、連続するネガから切り取られた一枚のコマのように、ばらばらと散らばる、俺たちはいつだってばらばらとあちこちに散らばって蠢き続けている、頭上の駅には特急電車が滑り込んでくる、ああ、もしもあんな瞬間に自分がそこに居たならすべてを捨てて乗り込んでしまうかもしれない、でもそれは旅や移動機関の誘惑ではない、それはちょっとしたタイミングのマジックみたいなものさ、誰だって知らず知らずそんなものに操られて踊っているんだ、自覚していないどころか記憶にすら残っていないかもしれないぜ、だってそれが衝動というものの正体じゃないか、昔映画で見た古い西部劇の一幕、四肢に縄を括りつけてそれを馬に引かせていたんだ、いや、別に俺は死を望んでいるわけではないんだが、もしも殺され方を選べるのであればあんなふうに死んでみたいとは思わないか…つまりさ、それが衝動というものの正体なんだ、どいつもこいつもいろいろな辻褄を合わせることに夢中になって衝動というものをないがしろにしすぎる、本当は衝動を抜きにしてはどんなことを語っても無意味なことなのに、そうさ、公園に佇む連中みたいに無意味な代物なのさ、俺たちは塵だ、そうだろ、俺たちは塵だ、ささやかな風だって舞い上がってしまうのさ、どれだけ堅実さを装ったってあやふやさを露呈させてしまうんだ、公園の隅っこで申し訳程度の噴水が水を吹き上げている、噴水なんてものを最初に考え出したやつはいったい誰なんだ、吸い殻の残った灰皿を火炎放射器で燃やす、灰皿は折れ曲がった役立たずの金属に変わる、だけど飾り棚に置くならそうしたものの方が映えるかもしれないぜ、お前の愛しているもの、誰かの愛しているもの、その中に意味あるもの価値あるものがどれだけ在る?本当はぶっ壊れた何の役にも立たないものの方が好きなんじゃないのかい、俺は塵だ、価値や用途なんてどうだっていい、どうしようもなく見つめてしまうもの、そんなものを求めて風から風へと移動し続けていくだけなのさ、ねえ、これは極論かもしれないけどさ、俺はこんな風に思うんだ―意味あるもの、価値あるものを求めるやつらが躍起になって構成する社会は、結局無意味なものになっちまうんじゃないかって…だったらどうだ?俺はそこに存在する無意味を愛せるだろうか?愛せっこないね、だってそいつは、ただのなれの果てに過ぎないんだからさ。