十六年ぶりに包丁を買う 冬待ち 二作品
山人
現フォ投稿は週一のノルマを期していた。が、最近は登山道除草に追われ、且つ勤務仕事の山林仕事で日々困憊し、活字を書く気になれないでいる。詩などを書いてみようとキーボードを打ち始めては見るものの、まったく形にすらならずで、数行で削除ということの繰り返し。だがしかし、やはりネット詩人は書くことが大切で、書かなければならないという義務感に襲われたりするのである。まったく、締め切りがあるわけでもないのに、何なんだろうこの切迫感は。
何よりもここ二カ月近く、終日休みということがなかった。なので、昨日は思い切って勤務仕事も休みをとり、ゆっくり好きな場所へでも行こうと思っていたのである。がしかし、貧乏性であるが故、常連客を断れず仕事をとってしまい休日ではなくなってしまった。あちこちの掃除を終えてふと調理台を見ると包丁が錆びかけている。一番新しい包丁でも二〇〇六年製だからずいぶん前だし、鋼製だから錆びやすい。しっかりと水気をとっているのだが、何らかの水分が付着するのか日にちを置くと錆びが浮くようになってしまっていた。また研がなければならないのかという落胆とともに、あたらしい錆びにくい包丁を入手しようという気になっていた。
思い込み。というのは実に損をするものだということは最近分かったことなのだが、ある事柄を断定的に思い込むことで、一切のある種の考えをシャットアウトしてしまう傾向が私にはあるようなのだ。それで随分遠回りもしてきたし、損をしてきた生き下手な人間だったのだと思っている。
包丁について、私は断固として鋼でなければ包丁ではないという思い込みがあった。鋼は錆びやすいがやわらかいので刃がつけやすく、管理をしっかりしていればずっと使うことが可能であり、それ以外の金属の包丁は良くないものという考えがあった。
包丁は数本持っているが、菜切り包丁みたいなごく一般的な包丁は錆びず、刃も着けやすくとても気にいっていた。そんな性質の牛刀を手に入れたいと思ったのである。仕事で使うモノを新調するなどということは、今まで無かったのだが、不思議なことである。単純に錆びにくい包丁がいきなり欲しくなったのである。それは、子供の頃、欲しかったおもちゃを手に入れ、寝床の枕元に置いて眠り、目覚めるとそのおもちゃの存在を確認してホッとする、そんな心境に浸りたいと思ったのである。
包丁は、道の駅の中にある刃物専門店を訪問した。高いものは三万円台まであったが、手持ちのお金もさしてあるわけではなく、刃渡り二十四センチ全長三十八センチの包丁を買った。一万四千三百円であった。
体力も落ちて、山林仕事や山の整備もきつくなってきた。自然と体全体が、もっと楽をしたいと思い始めているのであろうか。今までは、包丁など二の次であり、とりあえず切れれば良いというものであったが、ここに来て包丁が欲しくなったという心境は、如何なるものなのだろうと、何か不思議な気がするのである。
山小屋の調理はさして技巧などいらないが、それでもその末端として生きてきたという過去がある。ここいらでもう一度初心に戻れというわずかな鎹が芽生えているのであろうか。
冬待ち
好きな仕事であっても、それを取り巻く同僚の面子などが変わってくると、上司の態度も変わってくる。それを痛いほど知った年であった。それは定年をむかえ一線を退いたから故のものなのだから自然と言えば自然でもある。その自然なことを受け入れることが出来ず苦しんだ年だった。楽しかった十年は苦しみの一年のスタートだったのだと知る。
一昨日、客の食事を作り、客を送り出掛けることにした。来る某日に客から山案内(古道)を依頼されていたが、某沢の渡渉が難しいかも知れないとの情報があったので下見に行くこととしていた。あいにく天気は雨予報であったが、単独での行動なので気にすることはなかった。
雨は少し降っていた。駐車場には貨物のワンボックスカーが一台停車されているのみで、こんな雨模様の日に山に行く人はほぼ居ない。
先月後半まで、各所登山道の草刈りを行い、すべて終了していた。その荷物に較べれば、弁当などが少しあるのみの軽い荷でしかなかった。
未だ秋たけなわとは言えない景色がある。紅葉も始まりかけているといった感じで、きらびやかに視界の先の空気をつんざくような色合いもまだない。
執拗なほど手入れされた山道は、「山を愛する仲間たち」というレッテルを付けた人々によって作業が進められたものなのだろう。仲間の少ない私には理解できない世界があるのだった。たがいに笑い合い、終われば「また来年もよろしくお願いします」と散ってゆくだけのつながりのために愛好家たちは集合する。
雨はかすかに降っていたが、雨具を着る必要があるかどうかという愚問を自分に投げかけていたのだが、少し肌寒くもあり防寒のために雨具を着たまま歩いた。
5月末からおよそ10kgの減量を行い、さすがに体は軽い。よって、はやる気持ちが体を前に前に進ませ、椿尾根というところまではかなり早いペースで歩けた。
2時間半後、目的の沢に着き様子を見る。とくに難しい局面も見当たらず、少し拍子抜けしたような気がした。
帰りは、周回コースの番屋山に登ってから下るつもりだった。
昼過ぎから雨は本降りを迎えていた。
雨が樹々の葉にあたり、音を立てている。とても、気持ちがいい。誰も居ない山道。ところどころ香るような紅葉が映えていて、雨なのに遠望が程よく利いている。来てよかった。本当にそう思った。なぜなら、私という容器にこんなにも、すっぽりとわたしが収まっている。