少女と剃刀from前橋百物語
医ヰ嶋蠱毒

白衣の少女は密室で睡る。鉄格子を嵌められた方形の窓。翼を休めに来たと思しき青い小鳥の喧しい囀りが、彩りを帯びた一連の言葉として彼女の脳裏へ綴られる。砂の海、炎の山、氷の大陸。こっちにおいで。孰れも少女には想像すらつかぬ異國の光景。目を醒まし、施錠された鉄の扉を叩く。ママ、赦して、赦して。私が悪いの。パパを誘ったのは私、あの子を孕んだのも私。ごめんなさい、ごめんなさい。重い解錠の音。残飯、とはいえ食事か、さもなくばまた殴られるのか。黝い痣に塗れた幼い顔を涙が伝う。――僅かに開いた扉の隙間から鈍く光る何物が投げ込まれた。其れは剝き出しの剃刀の刃。真逆、死ねということ? 少女は逡巡の末、自らの手首にソレを宛がい、一息に滑らせる。皮膚が裂け、血管が千切れ、薄い脂肪が割れ、痩せた筋肉が破れる。脈動に合わせて噴き出す鮮血は赫い。綺麗。わたしにもこんなに綺麗なモノが。血液は軈て床一面に広がり、ドス黒い血溜りとして少女を沈める。沈める。沈める。真暗な闇へ少女は沈む。――其処は深海である。七色に燿る海月の群れが頭上を過り、巨大な抹香鯨が眼下を泳ぐ。蛸の演奏と歌う鮫。少女は遂に水底へ辿り着く。惑星の歴史を刻む数々のクレーターから泡が立ち昇り。クレーターから。クレーター。――其処は月面である。満天の星と銀河。直截に皮膚を照らす太陽の暖かな光を浴びる少女は、遥か彼方に浮かぶ青を湛えた巨大な球を一望し嘆息する。ああ、世界はこんなにも綺麗なのね、こんなにも。砂の海、炎の山、氷の大陸。今なら行ける気がするわ、何処迄も、何処迄も。

本日未明、G精神病院の保護室にて、五三歳の女性(住所不定、無職)が死亡した状態で発見された。手首には深い傷があり、死因は自殺であると推測されている。看護師は、持ち物のチェックは入念に行い、監視カメラの不具合等は確認されなかったとして……。


散文(批評随筆小説等) 少女と剃刀from前橋百物語 Copyright 医ヰ嶋蠱毒 2023-09-09 23:33:00
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