寝不足
ホロウ・シカエルボク


あなたの指先に出来た小さな傷は
血が流れるまであなたにそれを気付かせはしないだろう
あなたの内奥に苔のようにこびりついた疲労は
夜更けのベッドの上で初めて口を開くだろう

聖なるものは狂ったように正しさを説き
裁判官は定められた基準によって罪人を矯正する
見るからに怪しい薬をメディアが誉めそやし
注射に並んだ連中が赤黒く腫れて死ぬ

ぼくは今夜の夢を深層意識で操作して
いっさいの罪の在り方を書き換えてしまう
オリジナルの軍隊は既存の価値観を駆逐してしまう
それには結構な時間がきっとかかるけれど

勉強してます、求道してます
だれかの素敵な文脈のコピーに夢中になって
澄ました顔して無難なものを静かに並べるなんて
御免ね、ぼくにはちょっと性に合わないんだ

零時になると聞こえてくるヒス、ヒス、ヒス・ノイズ
耳栓なんかじゃ到底塞ぎきれないぜ
柱時計が意気揚々とあらゆる針を逆に回し
窓明かりに寄り付いた羽虫は女郎蜘蛛に食われる

キッチンでシチューが煮詰まって真っ黒い煙が上がっている
警報機が断続的に赤色を吐き出して
水を撒けと警告している、うるさい、もう少し眠らせろ
だけどこれ以上は喉が痛くてどうしようもない

火が広がる、火が広がる、火が広がる、消防車のサイレン
近所の誰かが通報したに違いない
ぼくは毛布をかぶって、なんとかもう一度眠れないか
抵抗を試みる、抵抗を試みてみるんだ

窓が破られ、二人の消防士が雪崩れ込んでくる
大丈夫ですか、わかりますか、耳元で怒鳴りやがる
煩いし、熱い、ぼくは枕の下に隠していた拳銃で
二人の消防士を撃つ、ぼくの様子を確かめていた二人は避けられようもなかった

ぼくが寝直している間に、二人は丸焦げになり
その火はベッドの手前で鎮火した、中に人が居ても放水ってするんだね
ぼくは意識がなかったので一度病院に担ぎ込まれた、ナントカ中毒だって言われた
嘘だね、ぼくは寝ていただけだったのに

目が覚めてから二人の消防士のことを聞かれたけれど
ぼくはその二人のことを知らないと答えた
余程タイミングが良かったらしい、だれ一人それを疑わなかった
ぼくはそれからすぐにぐっすり眠った、病院の空調は完璧過ぎる

炎はすべて消えてしまった、二人の命もそのどさくさで処理された
どこかの専門家がもっともらしいことを言ってみんなが納得したらしい
だからぼくはじゃあいいやと思った
どうせ死と隣り合わせの職業なのだもの

零時になると聞こえてくるヒスノイズ、なにを聞こうとしたのか
あるいはなにも聞こうとしなかったせいなのか
ぼくは家を失って、なんやかんやと役所の人が世話を焼いてくれて
おんぼろのプレハブのようなものに住めるようになった

ぼくは二度と火事を起こすべきではない
ぼくは二度と人を殺すべきではない
ぼくは二度と試みるべきではない
ぼくは二度と枕の下に銃をおくべきではない

どのみち銃はどぶ川に捨ててしまった
そのほかの荷物はほとんど燃えてしまった
すすで汚れたベッドは無事だったけれど引き取る気にはなれなかった
洋服が何着か戻ってきただけだった

プレハブの家賃を自分で払えるようになりたいと
ストアーで働くことになった、いけ好かないやつらばかりだった
でもそんなことはもうどうでもよかった
もともとどうでもいいことの為に生きていたのにあの夜は眠ることにこだわり過ぎた

ぼくは夜になると神様に祈るようになった、既存の神ではない
ぼくの中だけに存在している神だ、それはなんと言うか
後悔とか贖罪とかそんなものじゃなくて
なにかひとつ決めるべきだと思ったんだ、なにかひとつ、あの夜の先のことを

夜はいつもとても冷たく、とても長かった、それは生まれた時からずっとそうだった
いつもぼくはなにかに拘束されてる感じがした、時折それは強固な鎖のように感じられた
ぼくは夜の中にその鍵を握る誰かが居るのだと考えていろいろなものを疎かにして
短い眠りの中でおかしな夢ばかりを見た、毎日毎日三本立てくらいで

夢と現実の境目について考えたことある?ぼくはいつでもそういうことを考え続けている
そしてその境目にはっきりとした線を引くことはいつだって出来ない
いつだって曖昧さの中で立ち止まってきょろきょろとするだけだ
朝は夜になる、夜は朝になる、時間の流れは真っ当であればあるほど奇妙なものに思える

ヒスノイズ、火が広がる、サイレン、銃声、プレハブ
日記を書いてもそんな言葉がただただ並ぶだけ
大丈夫ですか、わかりますか、大丈夫なこともわかったことも一度だってなかった
ただ安普請なアパートが一部屋燃えただけ

寝不足の為だけに生きているみたいだ
ぼくを映す鏡はいつだって曇っている



自由詩 寝不足 Copyright ホロウ・シカエルボク 2023-09-05 21:13:52
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