浜茄子
本田憲嵩

あらたに開通された高速道路と道の駅にとって替わられたとても広いパーキングの、そのとても強い潮風にさらされた。元直売所の窓ガラスはいくつも破れはて、そこにはオニグモが何匹も巣を張りめぐらし、その赤茶けたトタン屋根はなかばくずれ落ち果てている。その地面にはおそらくはかつて無言で食べたであろう蟹の甲羅の抜け殻がその砂のうえで風に晒され風化しきっている。裏手にまわれば昆布色の海が見え、その泡だつ波音がとても力強く響き、草はぼうぼう伸び放題、曲がりくねった白い流木が無造作にいくつも放置されている。おそらくは車上生活者であろうか、その黄いろい軽自動車のほんの少しだけ開かれた窓から微かに聞こえてくるラジオの声、たおした運転席で両の腕を後頭部に組みながら、おそらくはだれの干渉も受けてはいない。ああ、ぼくが行きついたのはこんな世界の最果てなのか。その老いた彼はたしか先週もそこにいたはずだ。コカ・コーラの自販機に取り付けられた電子マネー決済の読み取りパネルはもうまったくと言っていいほど反応しない。その自販機本体ははひどく色落ちしている。
それでもとなりの湖畔のキャンプ場にはテントが二つか,三つ、きれいな水洗トイレがあり、炊事場にもまだきちん水がとおって、海岸では老夫婦とその孫が中身のない白い貝殻や海水で滑らかになった小石なんかを拾っているとても微笑ましい光景がある。国道を挟んだ向かい側には湿原の大きな沼が金色の陽にかがやき、ささやかな花壇には赤や白の浜茄子の花が色あざやかに咲き誇っている。
あらたに開通された高速道路と道の駅にとってかわられた、パーキングの、こんな最果て、こんな最果てでも、わたしはたしかに生きているのだ。



自由詩 浜茄子 Copyright 本田憲嵩 2023-07-23 01:08:51
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