詩のこと、言葉のこと
由比良 倖

(1)
 僕が中原中也を好きなのは何故か、言葉には出来ないけれど、敢えて言えば、中也の詩には現実感と非現実感の間での揺れがあって、非現実感から現実感を取り戻そうとする希求を感じて、それはもちろん僕が勝手に感じていることだけれど、とても僕の感覚とシンクロするところが多かったし、今もそうだからだと思う。後は、中也の詩は、説明や前提抜きで、唐突な言葉が出てくることが多いけれど、それがあまりに自然なので、だから情景より何より、それらの言葉を連ねるに至った感覚や感情の流れの方を強く感じる。視覚的に想像する小説的な読み方だと、中也の詩は、イメージとしては灰色で、つまらないことが多いのだけど、彼の詩を流れる感情を感じられたら、日本で一番面白い詩が読めると思う。中也の詩はリアルだ。世界的にも歴史的にも残る詩だと思う。中也の詩をよくよく読めば、言葉の勉強はそれだけでいいと思う。それも、まあ、そういう説明は後付けで、最初に中也の詩に惹かれたのは何故か、すごく惹かれたというだけで、あまり言葉にしない方がいいのかもしれないけれど。

 言葉って、すごく面白い。言葉があることは本当に不思議なことだ。心の奥深くにある暗闇のような楽園のような、普段はよく見ることの出来ない場所。言葉について考えていると、心の底の方にどんどん降りて行ける気がする。
 僕は例えば「遙かな空」という言葉のイメージを心得ていると思う。「悠久」という言葉も知っている。「幽邃な風景」と書かれていても、何となく分かる。そんなの、ありきたりな言葉だと思って、特に注意を払うことなく通り過ぎてしまうけれど、僕はそんな言葉をどこで覚えたのだろう?、と思うと不思議になる。辞書で調べたこともないし、日常会話で「悠久」なんて言葉は滅多に使わないし、本を読んでいて、文脈から意味を知ったと言うには、ぴったりとした使い方を知りすぎていると思う。「遙か彼方の」という言葉と「とても遠い」「あまりにも遠い」という言葉のニュアンスの違いも知っている。
 「出かけるのは億劫だ」という言葉と「出かけるのは面倒だ」という言葉の使い分けも知っている。「億劫」の方が内面的で、個人的で、憂鬱な響きがあると思う。正確に説明は出来ないけれど、「億劫」の方がブルーで、「面倒」だと少しとげとげしていると思う。人によっては語感は少し違うと思うけれど、この間友人と「ほかほか」と「ほんわか」の違いについて話していたら、彼が「ほんわかというのは何となく向こう側の感じで、ほかほかはこちら側の感じがする」と言ってて、それから「ほんわかの方が新しい言葉のイメージがあるな」と言うので、考えてみたら僕も同じだと思ったので、面白かったし、とても不思議だった。
 それからネットで「幽玄」という言葉の英訳がとても難しいと言っていたので、彼とどういう意味か考えていたら、まず古くて、人智を少し超えていて、それから静かで、自然を感じて、少し暗くて、…、「古池や蛙飛びこむ水の音」には合うけれど、「東海の小島の磯の白砂に」には全く合わないし、少し狭い感じで、もし無理矢理「幽玄の人」という言葉を作ったら、それはまず子供じゃないし、何か山の奥深くで苔を舐めて生きてる仙人みたいだと思う、人間じゃないかもしれない、「幽玄の犬」はブルドッグより絶対、古い神社の狛犬に近い、ということで大体意見が一致したんだけど、どこで「幽玄」なんていう言葉を覚えたのか、ふたりとも全然分からなかった。

 僕は日本語を意識的に学んだことは無いので、僕の知らないところで、日本語のネットワークみたいなものが勝手に構築されているのかもしれないし、イメージや語感が熟成されているのかもしれないけれど、しかもそのイメージが人によってばらばらというのではなくて、結構一致するというのは、どういう仕組みになっているのだろう? 意味や使い方をいちいち暗記していたら切りが無い。言葉をすらすら作れるAIは、「幽玄」という言葉を、どういうときに使ったら的確か、ほとんど完璧に学んでいるけれど、人間は殆どイメージや感情で覚えていて、多少用法からずれていても、そこから新しいイメージを得ることが出来る。
 例えば、これは個人的な感覚だと思うけれど「幽玄な4月」だとずれすぎていて、咄嗟にはイメージが湧かない。でも「幽玄な三角形」だと微妙に分かる気がする。「幽玄な壁」は個人的には面白い。でも現代詩みたいだし、面白がれる人は僕だけかもしれないと思うと、段々不安になってくる。それはそれとして「言葉を知っているとは言葉を使えることだ」というのは少し違ってて「言葉を知っているとは、言葉を感じられることだ」と言う方が近いと思う。小説や詩を読めるということは、意味が分かって、要約も出来るということではなく、何かしらの風景みたいなものを感じられることだと思うから。詩は、意味で書いたり、描写したりすることもあるけれど、多少意味的には繋がらなくても、感覚では繋がっている言葉が出てきて面白い。


(2)
 中原中也の詩の話に戻るのだけど、僕は中也を生きている人みたいに思っていて、彼を友人みたいに思う。だから中也詩集はバイブルではなくて、生きている友達そのものだ。遠い誰かに語りかけるように中也の詩に接するときもあるけれど、基本的には僕は会話の途中で「中也はね」と身近な友人みたいに話してしまう。そういうところから僕は言葉を信じているし、詩を信じている。
 中也は詩の中にいると思うので、一応中也についての伝記や改題みたいなのも読み込んだし、彼の批評も日記も読んだけれど、あまり面白いとは思わなくて、詩だけを読んでいる。書簡集や小説や、あとは中也のお母さんの回想や、友人たちの書いた彼の思い出、中也の恋人だった泰子のエッセイも読んだけれど、いまいち面白くない。詩を生きた人だから、詩を読めばいいんだと思う。詩よりも本人の性格や生活が面白いなら、詩なんか読まない方がいい。詩以外の、彼自身が書いた言葉には私小説的な、生活の重みみたいなものがあって、とても感動的ではあるのだけど、ずっと傍らに置いて読みたいとまでは思わない。

 英語を学ぶのは、日本語をマスターしてからだと思っていたけれど、到底マスターすることなんて出来たりしないと、最近には分かってきた。そしてまた英語もマスター出来ないだろう。極めるなんて無理だ。ある意味、言葉とは無意識から掬い出してくるものだと思うけれど、無意識は底なしだから。どこでどうやって、感情と言葉が結びついているのか、書いている最中には微かに分かるけれど、言葉と感情との繋がりをぷつっと切って、そこから改めて言葉の仕組みについて考えても、「言葉ってややこしいな」という嫌な感想しか出てこない。
 本を沢山読んで、熟読して、心の底に言葉を沈めていくしか無いのではないかと思う。そしてまたそこから言葉を掬い出す。ロボットには他のやり方があって、その内ロボットと対話出来たら面白いと思う。人間の書き方は、言語学や言語の仕組みの解明では発達しなくて、心の底をもっと旅出来るような方法が確立されるしかないのだと思うけれど、その進化はとても遅いと思う。ゆっくりゆっくりと新しい本が書かれて、古典としての本が蓄積されていくのを待つしかないと思う。僕は僕で中也を持ち上げたけれど、それは僕の勝手で、誰にとっても、友達になれて、とても多くを学べて、語り合えるような本があればいいと思う。

 僕はいつも「僕はこれしきの詩しか書けないのか」とがっかりする。文章も、今書いている、この程度しか書けない。


(3)
 日本語の美しさって、呆れかえるばかりだ。意識の表面に並んでいく、ささくれ立った言葉をあっさり捨ててしまって、心の深くから浮かび上がってくる言葉たちだけを信じること。夜の部屋、泡のようなLEDの光の中で、瞳孔が拡がっていく。拡がった瞳孔の奥に、本来見えないはずの遠い国の景色が見えて、少し目を細めると、身体の中にふうわりとした快感が渦巻いていく。そんな微かな快感の中で静かに、日本語を書いていたい。できたら詩も、小説も書きたい。

 「彼女には散々泣かれてしまった」という日本語も、おそらく英訳はとても難しい。英語で日本語訳が難しい言葉もたくさんあると思うけれど、「泣かれてしまった」という簡単な言葉のニュアンスを英語に移すとすれば、まず「泣いた」と「泣かれてしまった」の違いを明確にしなければならない。これは、英文法の本に書かれていたことなのだけど。
 「泣いた」はもちろん「cried」でいいけれど、「泣かれてしまった」には、「僕に向けて訴えかけるように泣いた」とか「泣くとは予想もしていなかったけど、彼女は泣いた」というニュアンスがあって、英文法の本によれば前者は「She cried on me.」が妥当かと書かれていた。後者の意味も含めるとすれば「彼女が泣くとは予想もしていなかったのに、その想像が間違いであることを強調するように、彼女は僕に向けて泣き顔を見せた」という感じもあって、しかもシチュエーションによって、そのニュアンスはかなり異なる。
 そして「散々」もとても難しい。「こっちが嫌になるくらい、とても」という感じの意味になるのだろうか? 「散々」という言葉には、話者自身が、ちょっとげんなりしたというような含みがある。字義的にはそうなると思う。でも言葉を使う人が、いちいちそんな意味を探りながら言葉を使っているということはまず無くて、どういう訳か、感覚としてその意味合いを知っていて、しかもかなりきちんとそのニュアンスが読者や、聞く人には伝わる。「彼女は昨日、すごく泣いたんだ」と言えば「彼女に何があったんだろうね」という会話に繋がるのは自然だし「昨日、彼女には散々泣かれたよ」と言えば「それは君も大変だったね」という返しが自然だったりする。お互い感覚的に話しているけれど、しかもその感覚が、きちんとした言葉遣いに結びついている。

 三歳になる甥が遊んでいる動画を、妹(甥の母親)がときどき送ってくるんだけど、現在形や過去形の使い方は、どうも実地体験で感情と関連させて覚えているという感じがする。例えば甥は電車が好きで、電車がやってくると「でんしゃがきました」と、わくわくする感じで言う。電車が走っていくと「でんしゃが、いっちゃった」と少し残念そうに言う。それだけでもすごいと思うのだけど、けれどそこから一歩進んだ言葉は、どこでどう、……やっぱり本の中でかな?、……覚えるのだろうと、今の無邪気な甥の様子を見ながら思う。三歳の甥が「僕の希望を載せて電車がホームに滑り込んできた」「そして電車は走り去って行ってしまった。僕にひと固まりの不安だけを残して」という物言いをしていたらびっくりするけれど、でもそれを大人が書いていたら、さして何とも思わず素通りしてしまう。
 小説では、日常では全く使わないような、曖昧な心情や情景を、とても的確に表現する言葉によく出会う。それを読むたびに僕は、とてもふわっとしたような、でもそういう気持ちって自分にもあるという、懐かしさや安らぎを感じる。あまり思い浮かばないので、さっき書いた「幽玄」を使い回すけれど、「その家の戸を開いた瞬間、一瞬にして時代をいくつか遡ってしまったような感覚に捕らわれた。ただ古いというだけでなく、幽玄とさえ言えるような空気がそこには漂っていた」という表現があるとして……ちょっと下手な描写かもしれないんだけど……、多分、甥にしても、この表現をあと十年くらいすれば、過不足無く読めて、何かしら、イメージを伴って感じられるようになると思う。小学校や中学校で「幽玄」の意味を一から学ぶことは無いだろうし、時代を遡る経験を、おそらく一度も経ないにも関わらず、何故か分かってしまうと思う。そして多分、有りがちな表現として、立ち止まることも無く、こんな文章は読み飛ばしてしまうようにさえなるだろう。
 僕は本に囲まれた生活をしている。さらさらと読み飛ばしただけなのに、不思議な、遠い余韻を、僕の中に残していった本がたくさんある。どんな魔法のような表現が、僕の中にこんな、遠い感慨を残していったのだろうと、再読してみることが多い。そしていつも思う。何でもないような表現、僕にとっては日本語が、既に魔法のように、本来言葉にならないような感情や、「何か」としか言いようのないものを、僕の心の底から掬い取ってやまないのだと。

 中原中也の詩は、矛盾に満ちていて、どうしても視覚的なイメージにならないというか、中也自身が明確なイメージを避けているという感じがする。それなのに、僕の心には、ひとつひとつの詩に対しての、明確な、イメージでもヴィジョンでもない、何かが残っている。
 例えば、僕が中也を読み始めて最初の頃から大好きだった「一つのメルヘン」という詩には、陽がさらさらと射しているし、その陽といっても硅石か何かの粉末のようだし、蝶が落とす影は、淡くて、それでいてくっきりとしていて、最後にさらさらと流れるのは、今度は陽ではなくて水であるし、これは多分、絵にも漫画にも、映像にもならないと思う。でも言葉にすれば、それはすんなりと分かる。少なくとも、分かるような気がする。でもどうして分かるのかは、全然分からない。
 それから「冬の夜」という詩では「……痩せた年増女の手のような、その手の弾力のような、やわらかい、またかたい、かたいような、その手の弾力のような、煙のような、その女の情熱のような、燃えるような、消えるような……」という長い形容が出てきて、それが「冬の夜の室内の、空気よりよいものはないのです」に繋がるのだけど、これは「分かる」という感覚をぎりぎり超えているか超えていないかのところで、でも綺麗に言葉に収まっていて、息が切れそうなくらい、本当にすごいと思う。あともう少しのところで言葉からはみ出そうだと思う。

 ひと言では説明出来ないことを、そしてまだ説明されたこともないことを、言葉は描く。心の中から何が出てくるのか分からない。心は言葉にならないことだらけなのかもしれない。言葉を与えられても与えられても、そこからするりと抜けてしまう、永遠に余りある何かが心の中にはある。同時に、言葉にされるまで、言葉に滲みいって形になるまでは、気付きもしなかった感情や情景が、心にはたくさん、多分無限にある。意識からは逃れゆき、生活からは疎外された何かを、掬い取る言葉たち。言葉から心が余り出るのか、心から言葉が余り出るのか。その相互作用によって、言葉の列は永遠に成されていく。
 心は言葉に滲み入り、心は言葉を超えていく。言葉は心に沈みゆき、言葉は心を超えていく。その言葉をさらに心は把捉し、またも言葉を超えていく。言葉の強さは、的確な表現ではなく、書き続け、書かれ続け、終わりなく心を汲みだし続けることにある。終わらない旅。人類が言葉を見付けたときにはもう既に、永遠を決定づけられた心の旅、それは悲しいかもしれない。嬉しいのかもしれない。
 言葉について書いたので、言葉に限定したけれど、表現には一般に「終わらない」という性質があるのだろうと思う。僕は言葉への偏愛があって、言葉によって一番、僕が遠くに……あるいは深くに……惹かれるのを感じていて、言葉への興味を、言葉が煩わしく思えた時でさえ捨てられなかった。僕の底の方で形成され、熟成されてきた、言葉のネットワーク。意識では気づけない場所。僕の長年の人生そのものが、全て織り込まれているような場所。時間/空間、そこからはみ出る言葉たち。心の中の壮大さ。全ての言葉にそのような性質がある、とすれば英語にも奥深い強さと、何もかもを超えていくものがあって、きっと一筋縄ではいかなくて、面白いだろうなとわくわくする。短い人生で、多くの言葉を学べないことは残念だけど、今書いているこの瞬間が、永遠にも連なる感覚があると、そんな残念さは問題にならない。永遠に浸れる今を感じている僕の心は、安息と希望を感じている。

 言葉が好きだ。僕は書き続け、読み続けるだろう。きっといつまでも。それが出来ると思える今、僕にとって人生は嬉しいものだ。言葉と心を巡る旅。それが誰にとっても、嬉しいものであることを、僕は願っている。……もしかしたらその嬉しさを共有出来るかも知れない……という儚いような、ちょっと泣きたくなるような、希望も込めて。


散文(批評随筆小説等) 詩のこと、言葉のこと Copyright 由比良 倖 2023-04-15 22:02:53
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