ある日、なにもかも塵のように
ホロウ・シカエルボク


身体はいつしかカサカサに乾き、指先から紐が解けるように崩れ落ちていった、それは一瞬のことだった、それが死というものだなんて思えないくらい簡単な、あっけない結末だった、そのせいかどうかは知らないが、俺の意識はぽつんとその場所に取り残された、致し方ないことだと言えた、死を理解出来ない、体感出来ない人間はこの世に霊魂を残してしまう、そんな話を昔聞いたことがあった、そして、いまの俺がまさにそれだった、なんの前兆もなかった、痛みも、苦しみも…ただ誰かの、例えるなら神様の気まぐれでそんなことになったというようなお終いだった、俺は俺の死を見ていた、つまり、事前に身体を抜け出していたのだ、それが、よく言われる本当に苦しい時は意識が飛ぶといったような防衛本能のたぐいだったのかはよくわからない、だいたい、霊体が肉体を完全に抜け出してしまっては、もう生きるも死ぬもないのではないだろうか、とにかく俺はそんな具合で肉体を追い出された、これからどうすればいいのか?死を自覚して、成仏するべきなのだろう、けれど俺はなにも納得していなかった、まあ、こういうのは先を急いでも仕方がない―のんびり行こう、もう死んでしまった、これ以上誰を待たせることも悲しませることもない、俺の死を悲しんでくれそうな誰かはみんな遠くに居るし…自覚が出るまでひとつ、この状況を楽しむとしようじゃないか…俺はとりあえず自室を突き抜けて高く浮かんでみた、そうしたいと思うとだいたいその通りになった、ハイテクだ、という感想を思わず口にして、苦笑した、もうそういう次元じゃない、ふわふわと浮かんで、しばらくは夜空を眺めた、俺の住んでいる街はあまり空気のいいところとは言えなかったが、生活の影響を受けない高さまで昇るとしかは開け、昔田舎の川で見上げたみたいな馬鹿でかい星空を見ることが出来た、いつ見てもいいもんだよな、と思いながら眺めていると、東の方の地平線が明るくなるのが見えた、朝になるとどうなるんだ?と一瞬身構えたが、ドラキュラではないのだ、光に当たったからって別にどうということはないだろう、身体を裏返してさっきまで住んでいた街を眺めた、大通り沿いの信号や二十四時間営業の店舗を除けば、玄関や街灯などのひっそりとした明かりがあるだけだった、天上の星空に比べれば味気なかったが、そんな灯りの羅列も悪いものではなかった、俺は上空から馴染みの場所を眺めながらうろうろした、妙に既視感があったのだが、しばらくそうしているうちに地図アプリのせいだと思い当たった、もちろん、アプリが写せないものまではっきりと見えた、男の夢、みたいな光景だっていくつも見えた、ただどうにも気分が盛り上がらないのは、きっと肉体を離れているせいなのだ、そんなことをしているうちに夜が明けた、すっかり明るくなるといろいろな建物から水漏れのように人々がちょろちょろと出てきては奇妙なほど速足で駅や駐車場へと向かって行った、自分がそこに居ないいま、そんな光景はオチの無いコメディのように見えた、会社でも覗いてみるかな、と俺は思いついた、課長や同僚たちが俺が居ないことに慌てながら、それでもとりあえず仕事を片付けなければとバタバタしているさまをニヤニヤしながらしばらく眺めていると、ひとりの女子社員が席を離れた、二十四歳の秀才、美人だけどいけ好かない女だ―トイレにでも行くのかな、俺は興味本位であとをついて行った、トイレの手前で彼女は振り返り、明らかに俺の方を向いてこう言った、「なにやってるんですか?」え、と俺はたじろいだ、「見えてるの?」「はい」「あぁ…君、そっち系?」言い方気に入らないですけど、と、吐き捨てるように彼女は言った、「そうです、そっち系です」で、どうしたんですか、と少し真剣な調子で尋ねてきた、実は昨夜こういうことがあって、と俺は洗いざらい話した、彼女は時々うんうんと頷いて、とりあえずお部屋に行ってみましょう、と言った、「俺の部屋?」「私の部屋なわけないでしょう」と彼女は言った、そりゃそうだ、女はいったん机に戻り、一段落ついたのでちょっと〇〇さんの様子見てきます、と、課長に声をかけた、おう頼む、と、課長は書類から目を離さずにそう返した、君俺の家知ってたっけ、と俺は訊いた、そんなわけないでしょう、と彼女は答えた、スマホを取り出し、地図アプリを起動させる、「住所教えてください」―そんなわけで俺たちは俺の部屋にやって来た、「鍵、開けてください」ポストに入ってる、と俺は答えた、「不用心ですよ?」「取られて困るものも、入られて困ることも特にない」女は唇を尖らせて肩をすくめた、部屋に入ると、女は俺が寝ていた場所を眺めた、そして、思った通りだ、と呟いた、「なにが?」「あなたに見えてないだけなんですよ、あなた自身が」そう言いながら女はスカートを脱ぎ始めた、「いや…なにやってんの?」「いや、せっかくですから」「まる見えなんだけど」「ご自由にどうぞ」…というようなことがあって、女はなんでもなかったような顔をして救急車を呼んだ、救急車の中に潜り込んでも俺には自分の姿は見えなかった、病院から女は会社に連絡を入れ、俺が意識不明の状態で救急搬送された、と告げた、どういうこと、と、俺は尋ねた、「あなた、まだ死んでないですよ…魂がまだ繋がっています、病院で身体を維持してもらえばそのうち戻れるかもですよ」そうなのか、と俺は他人事のように返事をした、「で、さっきのなに?」いやまあ、と女は初めて口ごもった、「あまりにも、いい状態だったので…」「変だよ、君」俺の処置が一段落するまで女は病院に居て、病室やら病状やらを確認すると会社へ戻っていった、俺の仕事用のパソコンのパスをスマホに記録した上で、これで会社のことは心配ないか…と、俺は一安心した、まあ、別に心配もしていなかったけど―仕事が終わる頃に私のところに来てください、女はそう言い残していった、俺は手持無沙汰になり、いったん病室に寝ている自分を覗きに行ってみたが、やはり姿を見ることは出来なかった、それにはいったいどういう理由があるのか、夜、再び女と会ってから俺はそう尋ねてみた、「まあ、なんていうか、あなたの魂があなたの肉体を認識出来なくなっている、という状態、です」「そんなことあるんだ」「理由のわからない昏睡とか、だいたいそうですよ」「君、いったい何者なんだ」「親が…神職ってだけですよ、それも、代々続く、力を持った家系っていう、それだけです」「君は何故普通の仕事をしてるの?」「兄が家を継いだもので」と、いうような話をしながら俺たちは女の家に着いた、「それで俺は何故君の家に?」「魂だけの状態っていうのは危ないですからね、私ならあなたの身体が治る前にあなたが消滅しないように維持しておくことが出来ます」「それはどうやってやるの?」「私から離れなければいいんです、充電器みたいなものです…生体のエネルギーが薄まることが危険なんです、私ならあなたの魂にちょうどいいエネルギーを供給し続けることが出来ますから」あ、じゃあさっきのは…、と俺はピンと来た「接続ってわけだ」いえ、と女は澄ました顔でそれを否定した、「ただ、私がしたくなったというだけのことです」「あ、そう…」そんな風にして俺と女の暮らしは始まった、といっても俺はただ彼女に付き添っているだけだった、けれどなんていうか、こうして一緒に過ごしてみると、いけ好かない感じはまったくしなかった、彼女が美人である故の、俺の偏見のようなものだったのかもしれない、時々は笑ったりもする、普通の女だった、まあ、意識不明の男をアレする一面はどうかと思うけれど―そんな生活が二週間ばかり続いた、そして、それは俺の異変の始まりと同じように突然終わりを迎えた、俺、どうやら死ぬようだ、俺は直感をそのまま口にした、台所を片付けていた女は一瞬ピタっと止まり、そう、とだけ返した、「残念だ、元に戻れたらなにかお礼をしたいと思っていた」「まあ、アレがお礼と言えばお礼かもね」と女は言って、無邪気に笑った、その拍子に、右目から涙を零した、どうして泣くんだよ、と、俺は言おうと思ったけれど、もう、口にすることが出来なかった。



自由詩 ある日、なにもかも塵のように Copyright ホロウ・シカエルボク 2023-01-24 22:02:52
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