壊れてからがとても長い
ホロウ・シカエルボク
カタコンベの中でしりあいを探す夢を見てた夕方のうたた寝、目覚めの為に入れたインスタントコーヒーはどこか素気なくて、俺は、さらに首を伸ばすのかそれとも殻の中に戻るのかと悩んでいるカタツムリのような気分で、ソファーの上で空気のノイズに耳を澄ましていた、夕刻は一日の死だという気がする、それはきっと夕陽が、柔らかな炎のようにあたりを染めるせいだろう、手元にあったアドレス帳を開いてみる、そこには誰のアドレスも書かれてはいない、先週の散歩の途中で気まぐれに買ったものだ、でもきっと、誰かにアドレスを尋ねるつもりなんてまるでなかったんだろう、近頃は書きとる必要すらないし…時々そんな風に、理由も用途もないままにテーブルに放り出されるだけのものが増える、たぶん俺は、どこかに無駄を作りたいのだ、人生に合理性を求めるやつは馬鹿だ、人生は降り積もる無意味の中から、時折心を激しく揺さぶるものに出会うためのプログラムなのに―デジタル時計は16時38分を表示する、昔みたいにパネルを捲って知らせてくれないか、と俺は無理なオーダーをする、時計を買う時にあのタイプを探し回った、でももうどこにも売ってなかった、壊れたものがアンティーク・ショップでバカ高い値段で売られていただけだった、動かないのにどうしてこんなに高いのかって、俺、訊いてみたんだ、店員は澄ました顔でこう言ったよ、飾り物としての価値ですから、って…俺は価値という響きがとても気になった、時刻を表示しない時計の、飾り物としての、価値、でもその店員とそんな価値について議論するのは時間の無駄だってわかっていた、だから、なるほど、と言って店を後にしたんだ、そんな面倒なプロセスを経て手に入れたこの時計だけれど、いまではどうして見つからないものをあんなに欲しがったのかわからない、そういう、熱病のようなこだわりってふいにやってくるときがあるよな、俺はもう時計のことなんかどうだっていい、時刻さえきちんと教えてくれればね―洋服屋が出してるやたら数字の読みにくいものでなければ、なんだっていい―変に長々と時計のことを考えてしまった、洗面に行って、とりあえず顔を洗った、夕刻のうたた寝から目覚めようとするその時に限って、排水溝に流れ落ちていく水をずっと眺めてしまう、まだ単調な夢から目覚め切っていないのか、そこに流れ落ちていく水の方が実は俺自身なのではないか、なんて考えてしまうのだ、排水溝に流れ落ちる最期というのはなかなかいいかもしれない、誰を悲しませることもないし、わざとらしい葬儀で居心地の悪い思いをしながら成仏しなくて済む、顔を拭くと少しマシになった気がした、少しストレッチをして、無理な姿勢で強張った身体をほぐした、たとえアスリートでなくたって、コンディションは整えておいたほうがいい、スプリントよりもこたえる現実なんて腐るほどある、しかも、ランナーほど評価されることもない、着替えて仕事に出かける、夜間のライン作業、流れて来る基盤に、決められた順番通りに何本かのネジを締めていく、自分の前にそれがあるうちにだ…二時間おきに二十分の休憩を挟んで、その作業が朝まで続く、特別な技能は要らず、特別急ぐ必要も無い、根気さえあれば馬鹿にだって出来る、慣れれば下らないことを考えながら黙々とこなすことだって出来る、当然人の入れ替わりは激しい、最初の休憩の時に居なくなってしまう新人とかも居る、適当な真似をして首を切られるやつも居る、作業場の天井には監視カメラがあって、誰がどんな仕事をしているかすべてチェックされている、もっともそのことを知っているのは長くそこに勤めている者だけだ、雑な仕事をする者はちゃんとやるように教えてもほぼいい加減にこなす、だったら放置しておいて辞めさせたほうがいいということだ、真面目にやり続け、居残った人間にだけ実はね…という感じで教えられる、もちろん、それを知った途端に居なくなる者も居る、プライドが高いのだろう…金の為に下らない事をやっている時点で、プライドなんてものは俺は捨てている、時々頭の中で、ジョン・ライドンの声が聞こえる、幸せか?とやつは問いかけてくる、そんなことはどうだっていいんだ、と俺は電動ドライバーのリズムで返事をする、きっと人間なんて、幸せになる気は本当はないんだよ―だってあいつらは、そのために他人を殺したりするんだぜ、仕事中にライドンの声が聞こえることが、昔は凄く嫌だった、でもいまはなんだか、愉快な気分になる、それはきっと俺はそこそこ上手く歳を取ることが出来たということなのだろう、その夜最後のネジを止めた途端に睡魔はやってくる、だから俺は仕事場から歩いて一〇分程度のところに越した、帰り道で居眠り運転などしないようにだ、本能に逆らう眠りにはメリハリがない、どんなに寝具に金をかけてもだ、どんなに分厚い遮光カーテンを窓に垂らそうとだ…帰宅してシャワーを浴び、歯を磨いて横になるとすでに、俺はカタコンベの入口に立っている、死体か、と俺は呟く、そうして思い出すのだ、アンティーク・ショップで高値で売られていた、時刻を表示しない時計のことを。