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ホロウ・シカエルボク


凍った湖面が反射する太陽のような兆し、隙間だらけの部屋の中で俺は、雪崩のように落ちていく古い数々の感情を見ていた、時間の仕切りというものが皆無で、そこは過去でもあり、現在でも未来でもあった、真理とはいつだって幻みたいだ、それはどんな思考も、行動も、限界も存在しない瞬間にこそ訪れる一瞬の閃きだ、それにどんな名前を付けて、どんな引出に投げ込もうと勝手だけれど、時が来たら捨てなければならないということだけは忘れてはいけない、それは誰かの写真のように、いつだって同じ顔でこちらを見返してはくれない、自分の、あるいは状況の変化が、そいつの、色味や形状、あるいは意味合いを変えていく、より深い意味を持つこともあるし、まるで意味の無いものに化けることもある、そしてそれはどんな場合においても珍しいことじゃない、手に入れたものほど安心してはいけない、それは手に入れてお終いじゃない、そんな安易さが許されるのは死をおいて他にない、もしも本当の意味でも人間の人生というものを全うしたいなら、それは変化し続けるものだということを覚えておかなくてはならない、もちろん、そいつ自身が変化しないという場合もなくはない、でもその場合原因はそいつではなく、眺めている者のほうにある、そいつは見限られてしまったのだ、進化という過程から―目は澱み、視界が限定されてしまったがために、すべてが見えていると錯覚してしまい、映らないもののことなどこれっぽっちも考えなくなる、僅かな一点を見つめていれば確信は得やすい、限定された視界以外にも世界は在るのだと気付くことは難しい、なぜならそいつは、自分の目がポンコツだということに気が付いていない、それは視神経や、脳細胞や、五感のせいではない、といって第六感のせいでもない、そこに原因があるとすれば、それは物事に挑む姿勢のようなものの中にある、そこだけを知ろうとするのか、すべてを知ろうとするのか、自分が何を知っていて何を知らないのか、そんな自問自答の中で手にしていくものが目を曇らせないためには必要だ、人が、その人生の中ですべてを知ることなど在り得ない、すべての命は基本的に何も知らない、経験原則で語るのならばそれは余計にだ、知とはなんだ?それが予感であれば、ある程度は知っていると言える、それが経験であれば、知らないに等しい、何をもって知とする?何をもって生とする…?ビュッフェのように、すでに出来上がっているものの中から好みのものだけを拾い上げて、皿の上に並べ、それが知識だと涎を啜るやつもいる、たいていの場合、それは共有出来る、共有出来るということはどういうことか?そこに個人差はないということだ、人は共通のスケールを持ちたがる、皆が知っているから、皆が持っているから、ただそれだけの理由で―そうすると何が起きる?誰もが同じ趣味嗜好を持つようになる、本当の意味での思考はなされることがないまま錆びついていき、考えるといえば電算機のような方向のものばかりが残されてしまう、その場所に集まる無数の人間の目つきが、輝きが、寸分の狂いの無い同じ光度によって表現される、そしてそこに居る誰もが、そんな結果についておおむね満足している、なんておぞましい景色だ、と俺は思う、共通概念は大事だ、それは認める、だが、なぜそれだけの価値観に終始してしまうのか?その中で小器用に立ち回り、自分の地位を確立することにいったいどれほどの意味があるのだろうか?でもそんなことに躍起になる自分について誰も疑問に思うことは無いし、誰かがそれについて意見を述べることもあまりない、俺のようなはぐれものを除けばね…まるで国の為に特攻機に乗り込む若者たちのようさ、結局のところ、人々はマエストロを欲しがる、信じさせてくれる、絶対的な威厳をもったマエストロを…そいつの下につくことを選んだ自分が賢いのだと、それが一般的な自尊心の現れなのだ、それはどういうことか?自ら主題を探すことなく、見栄えのいい言葉に乗っかって追随を繰り返す…もちろん、そんなことがきちんと社会を回す油になっていることも間違いはないから、まるで必要ないものだとは言えないかもしれない、けれど俺に言わせればそれは、魂の奴隷みたいなもんさ―サーチライトから逃れろ、LEDの太陽の下に立っても命の意味はわからない、自分自身が食らうものの血肉のにおいを記せ、その羅列の中から必要なものを見つけ出すんだ、その認識が自分の血を巡る、ささやかな音を聴きながら、俺はまたがっちりと落とされた閂を持ち上げて、新しい暗闇の中へ足を踏み入れる、よく来たね、待っていたよ、埃っぽい空気が、俺を歓迎して反射する光のように踊っている…。


自由詩 verification Copyright ホロウ・シカエルボク 2023-01-09 14:33:32
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