日記読めよ。マジでさあ
こんにちは!みんです

日記を書くこと自体は一般的だが、それは人に堂々と見せるものではないと思われている。むしろ見せたら恥ずかしいし、ましてや人が見ておもしろかろうなどという”作品”のつもりで公にすることはよほど白眼視されていることのようだ。昨日今日読んだ本の中にすでにそんな記述が発見されているので引用する。


いつも思うのは、随筆原稿やなんかでこのように得々として自分ごとについて語る人がいるけれども、いったいなにをお考えになっていらっしゃるのでしょう、ということで、無防備というか無邪気というか、別におどれが日本酒飲もうが青酸カリ飲もうがこちゃ興味あるかれ。それでも得々と自分のことを語ってやまぬというのはなぜか。それは寂しいからであろう。寂しいから周囲に自分ごとを語って、「僕はこんな人間なんだけど、ねぇ?どう思う?どう思う?ねぇ?ねぇ?」と問い、「おしゃまさん」などといってほしいのである。はっ。哀れな奴だ。(町田康『真実真性日記』講談社 2006年 p.56L3~12)


筆者は「随筆原稿」、つまり刊行することを前提としたものの中に「自分ごとについて」「得々と」語ることを(自嘲的意味合いも込めて)痛烈に批判している。


(堀木克三の本について)収められているのは戦後、農業組合の機関紙等にポツポツ発表したものらし方が、いかにも文芸批評家らしい独り合点な文章であり、かつ短文であるだけに尚と内容が掴みにくい。嘉村(引用者中:嘉村礒多という小説家)についての一文も、すでに知られている部分へ屋上屋を架したものにすぎなかった。(中略)かような内容の私信を、自著に序文代わりに掲げる心情とは、一体どう云うものなのだろうか。この文芸批評家の恥辱の在りかとは、一体奈辺にあったのだろうか。「こりゃ、ひどすぎるわ。殴るにも値しない人だったんだ」(西村賢太『苦役列車』新潮社2011年 p.141L13~16、p.143L6~8)


ここでは、日記や随筆とは異なるが「独り合点」な「私信」的性質を持つ「短文」を「文芸批評家」の立場から小品集として刊行したことに対する激しい憎悪が見られる。

自分ごとについて著した私信的な短文を独り合点な調子で得々と語り、それを原稿におこして”家(か)”ぶること、それは日記を毎日書いている私にも何割かは当てはまる性質ではないかとの恐れが急に立ち上ってきた。こんなことをしているのには本当は何の目的もないのに、得意な気持ちでやっていると思われるのはゴメンだ。

そうは言っても、日記文学といって個人の日記という体で人に見られても恥ずかしくないくらいの作品を完成させてしまうケースも多々ある。そのような場合、私的で自分のことばかりの内容だったら誰も見ても面白くないのだからフィクションを大いに混ぜた上で日記にするし、読む側もフィクションとわかっていながら読むことになる。そんなイメクラ的ロールプレイの中にわずかな真実味が見え隠れしているところに、日記文学の読みの可能性がある。おもしろいのは、作中の日記の著者が現実の著者と同一人物でなくても一人称小説として成立してしまうところだ。それもふつうの(日記形式を取らない)一人称小説とは全く別の要素を持っている。それに着目して、古典だけでなく現代文学でも日記形式の小説というのはたくさん書かれている。

このように、日記にロールプレイの要素が含まれている以上、日記文学と随筆との間には何らの大差もないと思う。読む側が著者と内容を切り離して読むことはできないものか。今から書く私の日記も、すべて私の人格とは全く関連性をもたないものとして読んではくれないだろうか。というか、いかに自分について語っているような文章でもその語りは必ずしも素直であるとは限らず、文中で理想的な人格を作成してあたかも著者本人の本心として登場させているかもしれないだろう。しかし日記という形式自体がもう怠惰で、読まれるとしても目と背中の筋肉をだらりと弛緩させながら口を半開きにして斜め読みされるから…だが他人が書いた文というのはその程度の価値しか本来持ち得ないもので、読む側が筆者に協力してやる必要など微塵もない。だいいち日記なんて書く側もそんな姿勢だしな。だが、そんな恥部をあえて晒すことで何らかの道を開こうとする行為自体はそんなにおかしくもないし、随筆原稿1万枚でも書いたらいいと思う。読まれなくたって、別に怒んないしさ。


散文(批評随筆小説等) 日記読めよ。マジでさあ Copyright こんにちは!みんです 2022-12-26 13:22:33
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