深海で暮らす
ちぇりこ。

晴れたら、寂しい日
溢れて溢れて、水
遠い海で、海月が死んだ
海月、一個体分の水分量が
この星に加わって、溢れるから、雨
水になる
水に包まれて暮らすということは

この春に入居したアパートには
「グラン・プロフォンドゥール」
という名前が付いていた
フランス語で深海という意味だそうだ
力いっぱい畳の六畳間と四畳半
老朽化が進み二階へと続く
金属製の階段は錆びてしまって
踏板の真ん中には穴が空いている
二階建て六部屋の年季の入った賃貸物件
各部屋を隔てる壁はとても薄く
生活音がだだ漏れな二階の一室に
ぼくは存在を消しながら暮らしている
空き部屋は無いんだけれど
他の住人に出会ったことは無い
引越しの挨拶を兼ねた粗品のラップは
キッチンで気まずく沈黙する

水を溜めたシンクに
笹舟の代わりのレシートを浮かべる
そんな暮らしの背後に
雨の季節がくる、六月の
夜半から降り出した雨は雨足を強めて
午前二時を回るころには
骨格に逆立つ鱗、皮膚は表面張力を失う
水の底、沈殿する夜、夜中
こんな夜中だというのに、その人は
水、そのものでした
ぼやけた視界の先
夜と水の輪郭が混じり合う
水溶性の玄関の歪む先に
その人は居た、真夜中の
突然の来訪者に驚いたぼくは
水を打ったように、しん、となる
その人は、ぼくの部屋の
真上の部屋に住んでいるという
このアパートの、存在しない三階の部屋に
軽く会釈をしながら
さざ波を立てて、漂っている

ご挨拶が遅れてしまって申し訳ありません
わざわざお越し頂いて
ぼくは間の抜けた言葉を発し
キッチンでふやけたように横たわる
粗品のラップを一つ、その人に手渡した
六月は、うつくしい水の
澄んだ音色を奏でる季節
雨の降る日には決まって、その人は
ぼくの部屋を訪れるようになった
最期の紫陽花が、彩を失ってゆくように
会話を重ねるぼくたちの足下には
原初の海が、明けきれない空を写し取る
ある時ぼくは、その人に
名前を訊ねてみたんだけれど
陸で暮らすものには、聴き取れない発音で
もうじき梅雨が明けますね
そう告げて
ぼくの前から姿を消してしまった

夏が来た、夏は水を殺す季節
天真爛漫、とは程遠い熱の矢が
向日葵の瞳を溶かす午後
水の枯渇する午後に、その人は
どうしていたのだろうか
夏の間、ぼくの部屋を
とうとう訪れることは無かった
やがて夏も終わり、雨が降る
秋の長雨は幽霊の残滓のようで
雨に溶けだす街並みの寂しさ、呻き声
夥しい腕や脚が排水溝に流されてゆく
どうにも水が付き纏う
ぼくは、その人に会いにゆこう
雨の中を流されるように
その人の部屋を初めて訪ねる
存在するはずのない部屋を
水が流されてゆく度に
溺死した会話を拾いながら
言葉を一つ忘れて、暮らしを忘れて
ここに居たのか
水が流されてゆく、水が雨に流されてゆく
飽和した原初の海が見える
水の骨が見える、骨だったのかわからない
きみは誰だ
流れて、流されて、雨
そうだ、雨だ
存在しない三階への、存在しない階段を探す
雨を見上げる、息継ぎをする
(水に包まれて暮らすということは)
街並みの寂しさ、雨は降る




自由詩 深海で暮らす Copyright ちぇりこ。 2022-12-18 11:51:07
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