反動
ホロウ・シカエルボク


無音の川の側に立っている、辺りは夜のように暗い、だが、夜なのかというとそうではない…なにか異常な理由があって、夜のような闇が演出されているという感じだ、根拠になるようなものはなにもない、ただ、そこに漂う空気の中に、人ならぬものの意図が感じられる、そんな風に言えばなんとなく想像も出来るだろうか…身を屈めて、流れの中にゆっくりと手を差し入れてみる、水の流れは速い…温度はなく、ただ、さらさらとした液体の感触が手のひらにその勢いを伝えるのみだ、立ち上がり、デニムパンツの腰の辺りで手を拭い、耳を澄ましてみる、川には音がない、それは最初にも言った、だが、それ以外の音はある、風が吹き、落葉がそれに煽られて裏返ったり、踊りながら少しばかり移動したりしている、そんな様子が聞き取れるくらいだ、生きものが―例えば野良犬なんかが、俺が食えるかどうか考えながら身を潜めているといったような感じはまるでしない、おそらくここには生きものと呼べるようなものは存在しない、ただ無音の川があり、その周囲に必要な最低限の環境が、可も不可もない感じで設えられている…言うなればそんな感じだ、けれど、それがこの世界のすべてなのかどうかは、なんとも言えない、しかし少なくとも、なんらかの理由によってこの場所にフォーカスが当てられていることだけは間違いないようだ、なにもするべきことを思いつかなかった、そもそもこんな場所に居る理由すら釈然としなかった、夢を見ているのか、それとももっとなにか―違う世界観の中に連れ込まれたのか―確証に至るような材料はどこにもなかった、あまりにも唐突で、あまりにも無意味にそんなところに放り込まれた、そんな感じがした、そのせいなのかどうかはわからないが、あまり能動的に動く気持ちにもなれなかった、そんなときにはなにもしないことだ、感情をフラットにして黙って立っていれば、おのずと自分のするべきことは見えて来るだろう、そう腹を決めていた、「川の音だけが存在しない」そんな場所にいるせいか、どこか現実感を欠いていた、おそらく、そんな場所であれこれと嗅ぎまわってみたところで、なにか納得が行くようなものを見つけるのは無理だろうという気がした、俺は黙って立っていた、時折風が吹いては、落葉が行き場所を探して路面を突っついた、この世界は動いているのだろうか、突っ立ってそんな音を聞いているとそんなことを考えた、不自然に構築された世界に居るような気がした…そのうちに喉の渇きを覚えた、川の水を飲むくらいしか思いつかなかった、そもそも周囲になにがあるかなどまるで目に入りはしないのだ、迷いはなかった、それが唯一自分の身体に起きたアクションだったからだ、手で水を掬い、一口飲んでみた、ただの水のように思えた、砂や石といった不純物は入っていないように思えた、山頂に近い川の水を掬って飲んだ時のような感じだった、相変わらず温度は感じられなかった、何度か同じように掬っては飲み、喉は潤った、だからまた黙って立っていた、ふと気づけば風の音もしなくなっていた、無意味なほどの無音がその場を支配していた、そんな場所のことをいつか夢想したことがあったのを思い出した、音のない世界―そんな世界に行ってみたいと考えていたのはいつのことだったか、まだあまり歳を重ねていない頃のことだった気がする、日常の中にある音があまりにつまらないものに思えていた時期があった、そう…小学校二年生くらいのことだったはずだ、朝起きて、母親と交わす会話、朝食、着替え…登校や友達との会話、朝の挨拶、授業、ちょっとした喧嘩、給食…下校、車やバイクの音、救急車やパトカー、大人たちの靴音、住宅地から聞こえてくる生活音―そういったもののいっさいが下らないと感じていた、こんな音がまったく聞こえてこない世界に行きたいと、子供にしては強く願っていたものだった…そんなことはすっかり忘れてしまっていた、もう何十年も昔の、ほんの一時期のことだったのだ―不意に蘇ったそんな記憶は、不思議と心をざわつかせた、思えばあの頃考えていた以上に、なにかを願ったことなどなかったような気がする、たまたま感情が抜けなかった死体だと、思春期にはそんな風に自分を称して青臭いシニカルな笑いを浮かべていた―(つまり、ここは…)そう考えずには居られなかった、俺はなにか、奇妙な入口を潜り抜けて、あの頃望んでいた世界を手に入れたのだと…俺は首を横に振った、俺が勝手にそう考えただけのことだ、この世界にはなにも、存在する理由なんて見受けられないじゃないか…けれど、少し前に考えた通り、アクションに従うとするならば、それが間違いなくその世界の理由だった、認めたくはなかったが、確信さえしていた…俺は声を上げようと思った、その世界の成り立ちに抗いたくなった、理由などなかった、本能的な衝動だった、俺は声を上げようとした、だが声は出なかった、口を塞がれているみたいだった、そういえば―俺は呼吸をしていただろうか?それはなにか真っ当な方法では行われていなかったような気がする、少なくとも俺の耳は、俺自身のそんな蠢きを少しも聞いていなかった、それは断言できる―俺は闇雲に手を振り回した、なにかの感触に出会いたかった、でも、ますます深くなる闇の中には、それ以上俺の手に触れるものはなにもなかった、恐怖がやって来た、俺は悲鳴を上げて―悲鳴を―途端、誰かが手を叩いたみたいに世界は入れ替わった、眩しいライトが俺の目を突いた、「気が付いた」ものものしい格好に身を包んだ見知らぬ男が、俺を見下ろして安堵のため息をついた。



自由詩 反動 Copyright ホロウ・シカエルボク 2022-11-14 16:22:23
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