完全な闇が取り払われるとき
ホロウ・シカエルボク


その日わたしはどうしても部屋のライトをつける気にならず、小さなテーブルの上の灰皿に蠟燭を置いて火をともしていた、そうして、ソファーにもたれて南米のリズムのようにゆったりと揺れる火を眺めていた、脚を組んで、背もたれに片方の肘を立てて…そんなふうにしているとそのうちに、子供の頃にそんな座り方をして母親によく叱られていたことを突然思い出した、人間は自分自身を忘れないものだ、たとえ表向きはすっかり違う人間になってしまっていたとしても…それからは記憶喪失患者のリハビリのように、長いこと思い出しもしなかったことを断片的に思い出しては、ちょっと眉をしかめたり舌を鳴らしたりしていた、昔話を楽しく語ることが出来るひとをわたしは信じない、寄せ集められた記憶はまるで虫食いだらけの黒魔術の呪文のようなものに思える、わたしは過去を憎む、それでいい、それはわたしがまだ自分を諦めていないことの証拠になる―誰もがそれを愚かなことだと言う、馬鹿な、どうしてそんな馬鹿なことを言うのだろう、わたしは自分自身で居ること以外のどんなことにも興味がない、だってそれが、人間が生きる理由のようなものじゃないか…この人生で特別、なにかを得たいという気持ちはもうない、それは、十代の時の微笑ましい野心だ、そうした日々の中で、次第にわたしは掴んでいったのだ、自分自身にとって一番重要なことはなにかと…それは富を得ることでは無い、なにかしらの芸術的成功でもない、政治家とか警察官とか、社会的な力を得ることでも無い、要するにわたしは、自分自身のままで居たくてもがいていただけだったのだ、それに気づいたのは人生を半分程度経過したあとだった、もちろん、おそらく半分程度ということだけど…目的が無くなったことは幸運だった、それからはただ懸命にわたしで居れば良かったから―乱れがちだった心は驚くほど平穏になった、窓の外の藪を徹底的にチェインソーで切り開いたらとても眺めが良くなった、例えるならそんな感じだった、それからわたしは無駄なものを切り捨てるのが格段に上手くなった、持ち物を捨てるということではない、ある種の人間とか、ある種の現象…社会と呼ばれるごくごく標準的な共通項…そうしたものに極力関わらずに生きることを覚えたのだ、わたしにしてみればそれはまったく無意味なものだった、考えても見て欲しい、サーカスの犬が偉そうにしていたらあなたはどう思うだろうか、社会人というのはわたしにとってまさしくそういうものだったのだ、なによりわたしが我慢がならなかったのは、かれらが人間的にあまりにも未熟だという部分だった、かれらにとってみれば与えられたものを上手にこなすことだけが人生であり、自分自身というものにそれほどの関心は無いように思えた、どうしてそんなふうに生きられるのだろう?わたしには到底信じられない、自分以外の誰かが描いた絵を完成させるために、ジグソーパズルのピースのように生き続けるのだ、途方も無く長い時間を…かれらとわたしの間には恐ろしく深くて広い谷が広がっていた、わたしは少しの間ならかれらの方に行くことが出来たが、かれらはわたしの方にやって来ることは出来なかった、というより、わたしのような人間が立っている場所というものをそもそも知らなかった、だからわたしにはかれらが理解出来たけれど、かれらにはわたしが理解出来なかった、ただ、自分の身近に居る誰かの人格にわたしを当てはめて、理解したような気になっているだけだった、方程式の応用問題の間違いのように…幸せとは薄っぺらい、さえないデザイン、あるいはロゴマークの描かれたシールみたいなものなのだ、それを受け取り、自分のどこかに張り付けることを拒みさえしなければ、ある程度のものを手に入れることが出来る―もちろんそれは、ある程度以上のものでは決してない、わたしはいつだってかれらの集まる喫煙室には寄り付かず、どこか風通しのいいところを見つけて座り込んでは、ロック・ミュージックや詩に関する本なんかを読みながら過ごした、お気に入りのアルバムのブックレットを持っていって、歌詞を読んでいることもあった、なにかについて考えること、その結果を自分自身に還元すること、それ以外はなにも大事ではなかった、思考すること、思考することだ、わたしはいつでもそんなことを口にしていた、そうしなければ自分自身の、もっとも大切な部分が失われるように感じていた、麻痺して、硬直して、やがて凝固してしまう…そんな不安がいつもどこかにあった、いま思えばその予感は正しかったし、それから逃れるためにしてきたこともなにひとつ間違いではなかった、わたしは一番不安な時期を曖昧にしなかったのだ、完全な闇の中で、見事なまでにもがき続けたのだ、さあ、もうすぐ蝋燭が燃え尽きようとしている、部屋の明かりをつけて、久しぶりに詩集でも開いてみることにしよう、今夜はまだ眠らなくたっていっこうにかまわない…。



自由詩 完全な闇が取り払われるとき Copyright ホロウ・シカエルボク 2022-10-31 00:02:57
notebook Home