サブスクにおける音楽
番田 

最近アマゾンで気づいたら音楽配信サービスに登録していたので、よく音楽を聴いている。とはいえ、流しっぱなしモードにしていると、有線放送のようではあったが、疲れるように思えた。誰が歌っているのかもわからない歌を立て続けに聴いているというのは、思っている以上に不安で、疲れを覚える行為だったのである…僕はそのような意味もあって、垂れ流しモードにはせずに、アーティストのアルバムごとに再生を一つ一つ選んで繰り返しているわけだった。懐かしい曲もあれば、新しい曲もあった。よく知らないアーティストはいたが、知っているアーティストがいなかったりもする。昔、HMVで店員にCDのある場所を聞いた西海岸のバンドは出てこなかった。僕はよく、シングルの出揃う日に店頭のランキングを見に出かけていたわけだけれど…僕は今思うとCDはボロ儲けの構造の商売だったと思うのだ。彼らの、CDを販売するという行為としての商売が。ただ、今はそうではなくなり、ユーザーはメディア自体に金を払わなくても曲を聴くことができるようになったわけだが。楽曲はランキングではなく、知名度やタイアップ、評判などで聞かれるようになったように思う。圏外だった歌手にもチャンスは広がったようにも思える…ただ昔の、聞き手である誰もがしらなかったような、インディーズのバンドなどとは異なる形であるような気もするが。DTMを駆使して、手軽に発信できるようになった昨今のシーンともリンクしている。バンドを組まずとも、そういった手腕さえあれば、コンピュータグラフィックスのイラストにも似て、道具を揃えることなく発信が可能になっている。ようは、ギターを弾かず、ドラムを叩かずとも、音さえ良ければ受け入れられるような音楽としての流行の流れになっているのである…僕はそのような流れは危険なことだと思うのだ。ライブに出かけると、そのことを痛感するのである。体感する場所であるライブ会場と、仮想空間であるネット上との乖離を。その穴を埋めるようにして、打ち込みで入れられていたドラムをライブ会場でサポートのドラマーに叩かせても、人間的な感覚とは大きくかけ離れているように思えるのである。そして、そんなことを、僕は今日はよく晴れた日の机の上で考えていたのだった。



散文(批評随筆小説等) サブスクにおける音楽 Copyright 番田  2022-09-26 01:06:35
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