「夏の思い出」江間章子
夏がくれば 思い出す
はるかな尾瀬 遠い空
霧のなかに うかびくる
やさしい影 野の小径
水芭蕉の花が 咲いている
夢見て咲いている水のほとり
石楠花色に たそがれる
はるかな尾瀬 遠い空
唱歌「夏の思い出」は江間章子作詞、中田喜直作曲で、戦後間もない頃NHKのラジオ番組で石井好子によって創唱され、人気となり広く知られる曲となりました。
私が子供の頃には音楽の教科書にも載っており、誰でもが歌ったことのある歌でした。
この曲とともに当初は知る人ぞ知るという程度の存在であった尾瀬も有名となり、観光地ともなりましたが、ここで一つ問題が起こりました。歌を聴いて一面の水芭蕉を想い描いて尾瀬に出向いた人たちを深く失望させる出来事があったのです。それは夏の尾瀬には水芭蕉が咲いていないからでした。
江間章子自身は著書『<夏の思い出>その想いのゆくえ』(宝文館出版)で次のように書いています。
水芭蕉を見ようと、夏休みに尾瀬へ行ったら、すでに水芭蕉の季節は終っていた。「あの歌の題名は間違っている」と、女性の旅行評論家という肩書きの人が、やはり週刊誌に書いていた、と静岡から、いくらか憤慨めいた調子で、電話をくれたひともいた。
水芭蕉は、雪が解けるころから、五月、六月の半ばまでの長い期間、咲きつづける。
「詩の中の〈匂っている〉はどういうことか。なんの匂いもないのにーー」と言うひともいる。花そのものから、鼻がかぐ匂いでなくとも、その情景から凛うものを、〈匂っている〉と表現していいのが、詩の自由なのだ。そして、水芭蕉が最も見事な、五、六月を私は〈夏〉とよぶ。歳時記の影響だと思う。そして、この前の戦争末期、偶然なことから、五人ほどの人たちと尾瀬に入って、いちめんに咲いていた水芭蕉を挑めたのは、その季節だった。
(江間章子「水芭蕉のこと」)
確かに俳句では旧暦の4月から6月を「夏」としているため、季語の多くは現在の季節感とはズレがあり、例えば七夕や天の川も俳句では「秋」のものとされています。でも、それは俳句の世界での約束事。それを詩においても、この「夏」は季語の「夏」なんですよ、とサラリと言ってしまえるのは彼女が自然派の抒情詩人ではなく、戦前のモダニズム詩の理念を自らのルーツとする詩人であったからでしょうか。
同じく『<夏の思い出>その想いのゆくえ』で「私たちの夢は<詩>であった」と詩人として生き始めた若き頃を回想しています。
日本は第二次世界大戦へ向かう時代であった。異様な気配が感じられても、それが戦争へとまっしぐら進んでいるということを、だれが看破できただろう。
・・・日本がアジアを制覇しようとしていた野心とは、全く別な場所にいて、私たちの書く詩はコスモポリタン的で、<モダニズム>とよばれた。外国の詩人の考えに、詩に、敏感な時代であった。
(「左川ちかが置いて行ったもの」)
その頃、彼女が夢を語り合い「きょうだいのよう」であった若い詩人たちの中でも、特に親しく、また鮮烈な印象を残して行ったのが左川ちかでした。
そのなかで、左川ちかの詩は〈主知派〉とも云われた。これから、詩を書く人も多くなり、詩もファッションのように、世相とともに変って行くだろうけれど、〈詩とはなんであるか〉が間われるときは、かならず左川ちかの詩が源流のように取りあげられていくだろうし、そうあってほしいと思う。
(「左川ちかが置いて行ったもの」)
と彼女は記しています。左川ちかは今年(2022年)になって全集が発刊され、話題になりました。数年前から翻訳もされ、海外での評価も高いといいます。
江間の言うことを信ずれば、今、左川ちかという詩人の再発見とともに、「詩とは何か」が新たに問われ始めているのかもしれません。
北園克衛は当時の左川ちかの出で立ちを次のように描写しています。
彼女が好んで着ける黑天鵞絨のスカアト、細い黑い線のある絹のシヤツ。緋色の裏のついた黑天鵞絨の短衣。廣いリボンのついた踵の高い黑い靴。一本の黄金蟲の指環。水晶の眼鏡がすべての現實を濾過し彼女の小さな形の好い頭の中に美しい image を置く。それらは彼女の、華奢の限りをつくした身體を寧ろいたいたしいものにして居る。それは美しい人間と言ふよりか、人間の精髄をより鋭く感じさせる。それは燃え上がる火の紅ではなく、消えることのない焰の靑さだ。
(北園克衛「左川ちかと(室樂)」)
黒ずくめの服装は当時相当目立ったことでしょう。
それで私が思い出すのは多田道太郎の『風俗学』という本に書かれていたことです。多田はひとはコトバにできない抗議ーー言語外抗議ーーの思い、抑圧された感覚を視覚に変換して表すのだ、と言います。
若い女性が奇抜ともいえるファッションで街を歩く。あれは、泣いているのだと思う。
泣くかわりに、泣くにひとしい非合理的主張をしている。感覚的表層のうえに、彼女らの
抑圧されたものの中身を表現している
(多田道太郎『風俗学』ちくま文庫)
左川ちかは激しく泣いていたのかもしれません。
そう思って彼女の詩人としてのデビュー作とも言える『昆虫』という詩を読むと、
「昆虫」左川ちか
昆虫が電流のやうな速度で繁殖した。
地殻の腫物をなめつくした。
美麗な衣裳を裏返して、都會の夜は女のやうに眠つた。
私はいま殻を乾す。
鱗のやうな皮膚は金屬のやうに冷たいのである。
顔半面を塗りつぶしたこの秘密をたれもしつてはゐないのだ。
夜は、盗まれた表情を自由に廻轉さす痣のある女を有頂天にする。
これは、泣きはらして殻のようになっていた感情を脱ぎ捨てて、言葉を電流のように世界に走らせるのだ、そんな詩人ーーー言語という他者を身にまとう者ーーーとしての彼女の決意宣言のようにも思えます。
これは決して「解釈」ではなく、私の興味に引きつければそう読める、腑に落ちる、というだけの事に過ぎませんが。
左川ちかは知人に出した手紙に次のような夢を語っています。
お金が出来たら、銀座のやうなところへ江間章子さんと店を出したいと話してますの。江間さんは帽子屋と寫眞屋、私は本屋、シルビアピーチの本屋のやうなの。早くお金が出来るといいと思ひます。そしたら内田さんもお客さまになつていらして下さいますやうに。... (内田忠「左川ちかのこと」)
江間章子は左川より2つ年下で同世代の詩を書く仲間であり、親しい友人でもあったようです。
二人の夢は叶えられることはなく、左川は24歳という若さで癌のために亡くなっています。
江間にとっては左川ちかは詩の世界の先達であり、彼女を失ったことの喪失感は大きかったようです。
私は戸惑った。左川ちかが消えてしまうと、私の心は野に放たれた子ウサギの不安で、一杯だった。
何処を、どう歩いていいのか。
(江間章子『埋もれ詩の焔ら』講談社)
左川の死の数カ月後出版された江間章子の処女詩集『春への招待』(東京VOUクラブ、1936)の本扉には小さく「à chika Sagawa」と記され、江間の左川に対する哀惜の念がうかがえます。
翌年、江間はこんな詩を雑誌に寄せています。
「結婚」江間章子
白鳥は帶の上で叫聲を轟かせる
今年は洒落れた衣裳が流行らなかつた
みんなの心が戰爭へ出掛けたから
相變らず
すみれの花束を持つて
わたしは危険なシャンデリヤの下にゐた
やるせないランデヴウ
字面だけを追うと、「今年は洒落れた衣裳が流行らなかつた/みんなの心が戰爭へ出掛けたから」というのはいかにも軽いですが、もちろん、ここで江間が言いたかったのは「洒落た服」のことなどではなかったことでしょう。
危険な戦争へとのめりこんで行く時局のなかにたたずんで、衣服は彼女たちの言葉のことでしょう。彼女たちが信じ、胸にいだいた純粋な花束、モダニズムの美もまた奪われていくのです。
次の詩はその名も『戦争詩集』(東京詩人クラブ編、昭森社、1939)という本に寄せられたものですが、
「一九三七年の蛇」江間章子
戰争は女から男たちを奪ふといふけれど
それはぼくから眼をとりあげた
ぼくは姿のない彫刻と愛し合つてゐる氣持だ
優しい聲も言葉もレコードをかけてゐるやうだ
ちやうどむかし、貧しかつた室に女優のポートレエト一枚貼りつけてゐたやうな
オレンヂ色の太陽よ
お前は夜でも出てゆくのか
ぼくはシネマへ行つて音樂を聞かう
春には最初のすみれの花束を貴方にあげませう
けふも永遠のイメーヂに雨がふる
夜
膏藥を貼った木も眠る
櫻草よ、その微笑が戰場を愉しませる
悲哀を繪にかきませう、かのプロフイルとならべて
ーー兵士の手紙ーー
よくある戦争詩とは違った感じで「すみれの花束を貴方にあげませう/けふも永遠のイメーヂに雨がふる」というところなど、彼女の意地というか、自分の詩の世界を奪われまいという思いが込められているようにも感じます。
それは彼女たち若いモダニズム詩人の庇護者的存在でもあった北園克衛でさえ、同じ本に、そのまんまな「戦争詩」を書いているのと比較すると、いっそう際立って見えます。
「戰線の秋」北園克衛
戰線にまた秋風が立つ朝
敵壘の上に
山砲が強烈なキャベツをならべた
敵彈が
頭の上の見えない鐵線をコスつてゆく
終日前面の敵と對峙する
戰機未だし
輕傷三
月明の夜が来る
漠々たる深夜の空を覆つて
空軍のすざまじい大移動があつた
やがて拂暁の眞水のやうな微風が
茫々たるススキを渡つた
僅かに花咲く一本の雜草の下
進撃の一瞬に
民族初劫の靜寂が果てしなく擴つていつた
もっとも、さらに激しくなっていく戦局のなかで、やがてはすべてが押しつぶされていってしまうのですがーー。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』で江間章子の項をみると、
江間章子(えま しょうこ、1913年3月13日-2005年3月12日)は昭和を代表する唱歌の作詞家、詩人。代表作に「夏の思い出」、「花の街」などがある。1972年に朝鮮画報社から出版された『万寿無疆』に、詩「金日成首相は地球の上のともしび」を発表している
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E9%96%93%E7%AB%A0%E5%AD%90)
となっており、やはり「夏の思い出」の詩人としての扱いです。多数の著書はあるのですが詩に関しては歌うための作詞が主だったようです。
金日成礼賛については何なのでしょうか。1970年代には北朝鮮による日本人拉致が始まっており、この礼賛は今となっては彼女の黒歴史としか言いようがないものでしょう。
もっとも当時北朝鮮を「この世の楽園」と喧伝した作家、文化人は多数いたので彼女だけを攻めるのは気の毒ですが・・・。
彼女は1957年に出した『詩へのいざない:現代詩の理解と作法』(柴田書店)という詩論集の時点ですでに毛沢東を賛美する詩を書く中国の詩人たちを肯定的に評価しているので、もともとそっち系の人だったのだろうという気はします。
百歩譲って、毛沢東を英雄視しようが金日成を賛美しようがそれは思想の自由の範囲と考えるとします。それよりも私が残念に思うことは、この頃の江間章子が自らがかつて信じたモダニズムの美学を捨ててしまっているということです。
江間は『詩へのいざない』のなかで春山行夫のコトバを引用して自らも信じるモダニズムの詩学を述べています。
詩人は用いる言葉に責任を持たなければならないし、持っているのがふつうなのだ。
しかしそれがあまりにも乱暴な用い方であったり、客観性を失ったものではいけない。
詩は絶対の境地で行動する、もっとも平均のとれた人間性の姿でなければならない。
わたしは、詩人の仕事は、ひとつの言葉を選んで取りあげても、結果としてはその言葉の解放を目的とするのがほんとうだとおもう。
捕えた蝶の種類を虫ピンで止めるのではなく、あべこべにピンをとりはずしてもう一ど蝶を蘇生させ、よろこびの蝶を飛ばしてやるのが言葉に対する詩人の考え方でなければならない
(『詩へのいざない』)
そのとおりだ、と私も思います。しかし、この本から十年後に彼女が書いたのは次のようなものです。
「わたくしたちは憲法を守る」江間章子
わたしたちは憲法を守る
わたしたちは憲法を愛する
わたしたちは憲法に従って生きる
わたしたちが憲法を守ること
それは誇らかな決意だ
わたしたちが憲法を愛すること
それは世界の平和のためだ
わたしたちが憲法に従って生きること
それはわたしたちのくらしの道だ
大きく眼をひらこう
しっかりと、その眼をそそごう
わたしたちが掲げる
平和と民主主義を守る憲法こそ
わたしたちが世界に約束する宣言だ
わたしたちが憲法を守ること
それは誇らかな決意だ
わたしたちが憲法を愛すること
それは世界の平和のためだ
わたしたちが憲法に従って生きること
それはわたしたちのくらしの道だ
いま、わたしたちは大きな
喜びをもって、声高らかに
誓いあおう!
宣言しよう!
わたしたちは憲法を守る
わたしたちは憲法を愛する
わたしたちは憲法に従って生きる
(『平和と民主々義:フォーラム平和・人権・環境・原水爆禁止日本国民会議news paper.6月1日、1967-06』)
・・・コトバを開放するどころか逆に意味でがんじがらめにしてしまっています。
詩人がどのような主義主張を持つかはもちろん自由ですし、またそれを自らの詩で訴えることも自由です。
しかしその主義主張がどんなに正しく美しいものであったとしても、その美しさと詩の美しさは全く別の問題です。それは江間章子自身がかつて述べていたことでもあったはずです。
西脇氏は詩人でないひと、悪い詩人、詩人でない詩人と区別する。そして、このひとたちは詩の美ということと、自然の美ということを混同するのが多い現象だという。
そして、自然の美ということと、詩の美ということは殆ど関係のないことであるといってよいといい、あるときはむしろ、前者が後者を妨害することさえあるといっている。
こうしてみても、詩はたしかに魂の仕事なのである。
(江間章子『詩へのいざない』)
いったい江間章子はどこでだれに何のために魂を売り渡してしまったのでしょうか。
モダニズム詩が戦時下の統制によって雲散霧消してしまったのは、かつて戦後の詩人たちが戦争詩を非難して「思想性と批評性がなかったから、戦争もまた自然と捉え自然を美しくうたうように戦争もまた賛美した」というようなモダニズム詩の理念そのものの欠陥が理由というよりも、自分たちが魂を売り渡した詩人でない詩人に成り果てていることに気づかなかったからではないのだろうか。
反省すべき点があるとすれば戦争協力詩を書いたことよりも、自らの詩学を裏切ってしまったことなのではないでしょうか。
それは売り渡した相手が軍国主義であれ、戦後民主主義であれ、同じことのように思います。
モダニズム詩に興味と関心を持つものとしては、戦後詩史のなかでのモダニズム詩の扱われようにとても悔しい思いをしてきたので、左川ちか等への再評価がモダニズム詩への再評価へとつながってくれないものかと願わずにいられません。
江間章子に関しても最後ひどい書き方になってしまいましたが、モダニズム詩の歴史を生きた証言者として彼女の書き残したものはとても貴重なものだと思いますし、彼女の詩も私は好きなので「夏の思い出」だけでなく、詩人としての仕事も評価されることがあれば、と心より思っています。
<参考リンク>
『左川ちか全集』左川ちか著(島田龍 [編集]、書肆侃侃房、2022)
http://www.kankanbou.com/books/poetry/0517
『天の手袋』 北園克衛 著 (春秋書房, 1933) 国立国会図書館/図書館・個人送信限定 図書
「左川ちかと(室樂)」
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1242287/59
『左川ちか詩集』 (昭森社, 1936) 国立国会図書館/図書館・個人送信限定 図書
「昆虫」
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1901761/11
『詩のために 』内田忠 著 (椎の木社, 1940) 国立国会図書館/図書館・個人送信限定 図書
「左川ちかのこと」
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1685598/56
『春への招待 : 詩集』江間章子 著 (東京VOUクラブ, 1936) 国立国会図書館/図書館・個人送信限定 図書
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1207912
『書窓. 5(1)』(日本愛書会書窓発行所, 1937-10) 国立国会図書館/図書館・個人送信限定 雑誌
「結婚(詩) 」 江間章子
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1774378/14
『戦争詩集』 東京詩人クラブ 編 (昭森社, 1939)国立国会図書館/図書館・個人送信限定 図書
「一九三七年の蛇」江間章子
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1128849/51
「戰線の秋」北園克衞
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1128849/60
『詩へのいざない : 現代詩の理解と作法 』江間章子著 (柴田書店, 1957)国立国会図書館/図書館・個人送信限定 図書
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1336344
『平和と民主々義 : フォーラム平和・人権・環境・原水爆禁止日本国民会議news paper. 6月1日(228) 』(フォーラム平和・人権・環境, 1967-06) 国立国会図書館/図書館・個人送信限定 雑誌
「わたくしたちは憲法を守る」 江間章子
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2841030/3
『「風は世田谷」~第390回~うたとともに 江間章子 詩と人生 (平成5年4月22日放送)』(You Tube)
『青春広場「夏の思い出」江間章子』(You Tube)