未完成協奏曲
メープルコート
酷暑の中、日傘もささずにこの村を歩く者がいる。
正午の鐘が鳴る。
家々の窓は固く閉ざされている。
黒いマントを纏ったこの男は、片手にステッキを持ち、長い石畳の坂を上ってゆく。
この男の他に、道行く人は見当たらない。
蝉時雨の中、男は坂を上ってゆく。
小高い丘の上から海が見える。
海は凪いでいる。
沖の方の大きなタンカーが小さく動いている。
丘の上に建つ屋敷の窓は開け放たれている。
屋敷の二階、広いヴェランダには小さなテーブルと籐椅子が二つ置かれており、
一人の老婆が長い手紙を書いている。
黒マントの男の顔には深く皺が刻まれていた。
ようやく丘の上に辿り着いた男は、立ち止まると大きく深呼吸をした。
そしてその丘の上に聳え立つ屋敷の門を叩く。
若い女中が出てきて二言三言声をかけ、屋敷の中へと通す。
そして二階の老婆に声をかけ、男をその老婆の元へと案内した。
老婆の寂しげな微笑みが印象派の絵画のように男の目に映る。
二人は海を見つめながらヴェランダの籐椅子に腰かけてしばらく黙っていた。
ようやく男がぽつりと話し始めた時、老婆は静かに泣いていた。
時刻は二時を回っていた。
「これを・・・」男は胸元から一通の手紙を取り出し老婆に渡した。
「彼の最後の手紙だよ、姉さん」
「私も手紙を書いてるのだけれどまだ書ききれないんだよ」
「あの人は楽になったんだね、もう苦しまずに済むんだね」
「あの人は私が生涯で愛したたった一人の人だった」
「ああ、彼もそう言ってたよ。最期は眠るように安らかに逝っちまった」
「すべては時代が悪かったんだ。けれども僕らは生きなきゃならない」
なぜ、と聞こうとして老婆は口をつぐんだ。
そして書きかけの手紙を綺麗に畳んで封筒に入れると、
「これはあの人の墓前に。許されるのなら」
弟は頷き、静かに封筒を受け取ると、もう一度彼方の海を見つめた。
少しだけ風が出てきた。庭の草木がぼんやり揺れている。
弟はゆっくりと深呼吸して、屋敷を後にした。
この丘の上だけは空気が綺麗だ。
弟の気持ちが少し軽くなった。
これから本格的な夏がやってくるだろう。
緑に囲まれた避暑地のようなこの丘の上でもう一度深く息を吸った。
強い日差しが緑を透かして淡く潤んだ。