正風亭(推敲後)
武下愛

はぁーっ。時が過ぎるのは考えているよりも早いですね。正風亭を建てて戴き、十数年も経つんですね。十数年の歳月を経て、大工さんの真心を実感させて戴いております。結婚する事を考えて貯めていたお金を使い、予め御客様、一人一人を大事にしたいと建てる前に要望を伝えさせて戴いてました。御店を建てて戴く所から始まりました。その間にお返しさせて戴ける事は、ご飯を作らせて戴き、御持ちする事しかできず、大変心苦しかったものです。初めて、大工さんを想い、材料にこだわったご飯、ごぼう、人参、筍、椎茸、鶏肉、砂糖、醤油、いりこ出汁、御米を適量にして、圧力炊飯器で炊いて、握った。五目おにぎり、鰹節の出汁と砂糖、醤油を合わせ、軽く茹でたほうれん草に合わせた調味料を掛けて、花鰹の削り節を最後にまぶしたおひたし、昆布で出汁を取り、玉ねぎのみじん切り、里芋、豆腐を入れた、お味噌汁。大工さんが笑顔で食べていらっしゃるのを拝見させて戴き、料理だけでも人は笑顔に成られる。料理しか取り柄のない私です。大工さんの笑顔に励まされ、思い出しては初心に返ります。大工さんが釘を使わず丁寧に木材だけを組み合わせ、半年以上掛けて建物を完成させて戴きました。頑丈だとは御聞していました。正風にあやかり。正風亭を開店しました。五人の御客様が寛いで戴ける手狭な店内です。こじんまりとした外観です。緑色の屋根は色あせて、薄緑色です。色が塗られていない飾り彫りもない樫で作って戴いた外観も色あせて、少しだけ朽ちた部分があります。より一層正風亭を際立たせています。正風亭に込めた想い。御客様を大事におもてなしをし、心からの御話をし、御支えしたい。初めは私ごときにできるか心配でした。期待は持てませんでした。不安だけが、募り、なん十人も背負った様に重くのしかかっていました。一年もたたず店を閉めるのでは無いかと、不安は募る一方でした。開店当初と今は違います。開店して御客様と出会い、関わらせて戴き、御客様の人間性がそれぞれ違います。何度も通って戴ける御客様のおかげで、成長してきました。お店をたたむまで続くのでしょう。沢山とは申せませんが、御会いでき、通って頂き、私はとても幸せでございます。

正風亭の隣に在る小さな、私の城である住処へてくてく向かいます。大工さんに建てて戴いた正風亭と御揃いの外観です。菊が飾り彫りされた樫で作られた引き戸を開くと、畳の青臭い香りがします。草履を脱いで、母から受け継いだけれど、木製である事しか分からない衣装箪笥から、着物を出します。着物選びは迷いますね。四季を感じて戴ける事も正風亭では大事です。三十着の着物の中から全体が真黒で雪景色から鶴が空へ舞い、鶴の足からはらはら落ちる雪片の着物にしましょう。帯は金色で紅葉三葉が散り散りに成る、赤が映える帯にしましょう。受け継いだけれど、新品の様な姿見を見つめ着物をはおり、袖を通し。共衿先と衿下を合わせ。背中心が曲がらないようにして。後衿を長襦袢の衿と重ねてピンチで止め、着物が肩から外れたり、背中心がずれたりするのを防ぎ。長襦袢の袖と着物の袖を揃え。衿を持ち、着丈を決め着丈がずれないようにしっかり引き。上前巾を決め、右ももの一番張っている所より一 、二センチ程かぶる所を目安にし。着物がずれないようお尻の位置でしっかり着て。上前を開いて、下前を巻き込み衿先を少し上に引き、上前より幾分短かめに押さえ、少し裾がつぼまった形にし。下前が決まったら、上前を平行に重ね。腰に合わせた位置に腰紐がきて、左手で上前腰紐の位置を押さえて、右手で腰紐を取り、上前を押さえたまま、左手に渡し。腰紐は紐丈の中心を持って渡し、結び目が腹部の中心より右よりに成り。結ぶ位置は自分の具合がよい所にし。右手、左手と着物の内側に入れ、おはしょりを整え。下前のおはしょりが厚くならないよう斜め上に折り上げ、おはしょりを整理し、衿を整え。左手で下前の衿を折り上げた所を押さえ。下前の衿の折り返しに、掛かる様に胸紐で押さえ。下前が緩まない様にし。元をきっちり合わせ。伊達締めを締め。おはしょりの長さは、帯下より五、 七センチぐらいにして形良く見せて。着物の着付けは終わりですね。次は帯です。今日は二重太鼓結びにしましょう。手先を帯板の下線位の長さに決め一巻きし。左手で手先の下部を背中心で引き、右手で帯を引き締め。二巻き目を巻き。右手でしっかり引き締め。後ろは斜めに折り上げ。手先を下ろして仮紐で押さえ、右側の帯の下を通して前で結び。手先の輪が下に成る様に折り返して前にあずけ、クリップで止め。たれ元を広げ。帯枕に帯揚げを掛け、たれの先から三十センチ程度の所に帯枕をあて。二枚重ねて、帯の端を揃え。柄を見てお太鼓の山を決め。後ろで帯枕と帯を持ち、お太鼓の山を両手で引き。帯の上線の所まで帯枕を持ち上げ、お太鼓を乗せます。帯枕の綿布を前で結びたれの内側を平らに整え。仮紐を外し、仮紐でお太鼓の下線を決め。手先を仮紐に通し、手先を引き出し。引き出した手先の余り分を内側に折り。手先の長さは左右二、三センチ位出る様に決めます。帯締めをお太鼓に通して前で結びます。帯も終わりです。姿見に映った全身を確認します。おかしな所は見当たりませんね。前身に鶴、背後の帯に紅葉。一度も染めた事がない黒い髪を、母も、祖母も、租祖母も使っていた、木製である事しか分からない木櫛で髪をとかし、清潔に見え、料理の邪魔、料理に入らない様に結い上げ、赤い紅葉をかたどった、かんざしを刺しました。きっと今日の御客様も喜んでくださるでしょう。立ち姿で引き締めた心持こころもち。しかめ面では御客様が心配してしまいますから、微笑みます。

《命を有難く戴きなさい》
《有難く戴く命を料理しなさい》
《命一つ一つの味を生かしなさい》
《拝顔できない方の手心で産み出された新しい命も生かしなさい》
《調味料も命でしょう》
《命で命を殺したら、猛省しなさい》
《初心を教えましたね》
《命を有難く戴きなさい》
《料理をする事は食べる事と同義です》
《後は、自分で得なさい》

拝啓、お亡くなりになられ。二十年以上の歳月が経ちました。私のような未熟者に、手紙を残されるとは思ってもおりませんでした。真白い用紙の真ん中。たった一行だけ、一行だけの。達筆なお師匠の御言葉に真心が有ります。

《命を有難く戴く初心を繋ぎなさい。途絶えさせるのなら、迎えに行くでしょう》

優しく厳しかったお師匠様。感謝の言葉など。有難く戴く命の前では。儚く散るのでしょうか?それでも。伝えさせて戴きたく存じ上げます。教わった全てが有り難き幸せな事ですと。何故、御亡くなりになられる前に。弱音の一つも零さず送りだしたのでしょうか。私等放って何も教えずご自愛くだされば長生きなされたでしょうに。今の私等が初心を教える事等。愚を愚にするだけでしょうに。頭の上がらない方は少なくは無いモノでございます。手を合わせ黙祷する暗闇に愛がございます。愛するでも愛されるでもなく。愛そのものでございます。

私は木陰に揺れる陽を見つめ、秋空をだんだん見上げていきます。水色が見上げるにつれて青色から、蒼穹そうきゅう。雲一つ無いですね。すぅーっと吸い込み吐き出した空気でさえ澄んでいるのではないかと感じます。二十年以上共に過ごし、変わりましたね。名称では無く、名前を名付ける事から始まりましたね。庭先に在るある背丈の違う、地面にしっかりと根を張る四季折々の木々を見つめます。空に映える木も在れば、子供位の背丈の木も在ります。人と違う所は、木は死ぬまで花を咲かせ、様々な顔を四季で拝見させて頂ける所です。人様は知能が有るゆえ苦悩の渦中で、ときさえも、とめてしまいます。本能と知能の違いをまざまざと見せつけられます。まだ冬ではありませんので、葉がそれぞれ生い茂り、秋風に揺れ、かさかさと笑っていると感じる事は想像です。それにしても少しだけ肌寒くなってきました。若くて青かった葉は赤く燃え、銀杏の葉は黄色く笑っている様です。地に落ちて乱雑に散らばっていてはかわいそうでしょうに。そのままでも美しいと仰る方もいらっしゃいます。ですが、人も葉も手心を加える事で更に美しさが増します。女によっては心配り《見た目、行動を、場面によって変えなくては生きていけない》です。一葉、二葉と黄色と赤が、落ちたくないと切望する様に、はらはら地面に落ちていかれます。人が苦を感じて混乱したまま転がり落ちる様で、心臓がキュッと掴まれました。心も痛みます。時計の様に思い巡らせながら、葉、銀杏の実を拾い思います。

淡く息吹く春へ思い馳せます。桜の枝にはまだ若い葉、夏になれば色濃くなる葉、既に薄桃色の花を咲かせ、雨が降らなければ一週間程で、儚く散ってしまいます。人は桜の散る姿を美しいと仰います。私は桜が世を憂いて薄桃色の花を散らすのでしょう。私が豪雪と溶岩の豪雨を春ですが、降らせていました。豪雪で溶岩が冷える事はございません。花びらが、一葉、二葉と、頬に張り付きました。慰めて戴いているようでした。かすかに雨が残っていたのでしょう。混ざり合い言葉にできず掌に閉じ込めました。桜のせい。桜のせいよ。また降り出した雨は桜色ではありませんでした、ですが幾分かましでした。放った花弁はくれない。私のせい。私のせいよ。春にしかいらっしゃらない御客様へ思い馳せます。あの方は、病気がちだけど元気でいらっしゃるでしょうか?病気ですと世の中では生き辛いでしょう。生き辛い方を、おもい、支えさせて戴きたい力が強まる事は、他の方によりましては悪い事なのでございましょう。

とめどなく湧きいずる青い夏へと思い馳せます。燃える白い花を咲かせるむくげは、二、三日でしぼみ、散ってしまいます。ですが、夏の間、何度も何度も消えないと叫ぶ様に花を咲かせます。青春を謳歌している様です。眺めては好きにして良いのですよ。透明にゆらりふわりと浮かび透ける淡い桃色が雲になって雨が降り続けて青春している私です。青春が終わるのか分からないのです。終われとも終わるなとも思わないのです。夏にしかいらっしゃらない御客様へ思い馳せます。あの方は穢れを知らない純粋さで、周りまで明るくさせてくださり、笑われますので。良い方が見つかっていらっしゃるのなら連れて戴きたいものです。時代が移ろっても、移ろわないでしょう。

触れれば溶ける白い冬へ思い馳せます。白い化粧をした寒椿が赤い大輪の花を咲かせます。白を幹に枝に花に乗せた寒椿は陽に当たり、白ときらめきながら、首からほとりと美しいまま落ちて、ゆっくりと色あせて枯れて土に還ります。真白に落ちたばかりの寒椿は美しいままいたいと、叫んでいるようです。うつろわない事等、世界にはありはしないでしょうに。とわに咲き続けていく事で美しいというおもいが、失われてしまうでしょう。存在する事が当然に成る可能性があるでしょう。じしょうにとらわれず、私だけは美しい寒椿の事を覚えていますから、なるべく苦しまれませんように。うつろい私から離れていくモノへ。心も体も健康でいられる事を鞭むちで強く打つより、もっと強くおもっています。けっして口に出せません。重荷に成れば、散ってしまうでしょう。冬にしかいらっしゃらない御客様へ思い馳せます。あの方は口先をへの字にしかめた顔をされて。同じものを頼まれて何時ものように黙られるのでしょう。逃げ場所がないという事は休まる事がないという事でしょう。正風亭が逃げ場所でいらっしゃればよろしいのですが。孤独を愛する方もいらっしゃいます。微笑みで固まる事はありません《見た目、行動を、場面によって変えなくては生きていけない》

とどまらぬ。
きせつもたまき。
うつるつき。

正風亭には、私が創造した季節の匂いがします。庭を掃除して、庭を拝見なさる御客様を想い、拾った赤と黄色の鮮やかな葉に手心を加えるように散りばめました。風習でもあります。刺激を与え、影響を及ぼし、感じ方、効果はそれぞれです。

店先に移動して、桜の花弁が風に舞い散っていく様を飾り彫りした磨り硝子をはめた、引き戸を横に滑らせて店に入ります。大工さんに作りあげて戴いた樫の卓には、隣り合っているけれど、離れ過ぎていない五席だけ、樫の椅子が横に並んで在ります。卓と真向いに在る調理場で、真っ黒な備長炭を火ばさみで掴み、三枚おろしの鯖なら二枚焼ける焼き場に置き、発火材を塗り、ぼぅっと赤い火を点けて温めます。今日もこだわった材料で料理をしましょう。今日は炭で銀色の秋刀魚を焼きましょう。水でさらしっぎゅとした白い大根おろしと外は緑色中は黄色のかぼすをひとかけ添えましょう。ぽん酢ではなく、醤油にしましょう。副菜は切り干し大根と、つなを和えましょう。汁物は銀色のいりこ、濃い緑色の昆布で出汁を作り、白いえのき、傘の部分が焦げ茶色で柄の部分が、純白でなくかすかに色を感じさせる白のしめじ、茶色のなめこ、傘が焦げ茶色で柄がしめじと似ているようで違うえりんぎ、白い豆腐を入れた、お味噌汁にしましょう。とんとんと、みじん切りした緑色の万能ねぎを最後に散らしましょう。殻を割った黄色い銀杏を串に刺して炭で焼きましょう。茶碗蒸しねぇ。具は、銀杏、焦げ茶色の椎茸、薄い黄色の筍、橙色の人参、剥き蒸すと赤く成る海老の小さいのにしましょう。産まれたばかりの新鮮な赤卵を茶碗蒸しに使いましょう。お味噌汁と同じ出汁にしましょう。蒸し器に水を入れて、ぼこぼこ沸騰するまで温めている間に。秋刀魚が臭わない様に水をサーっと掛け続けます。大根をしゃっしゃとすりおろし、絞って形を整えます。かぼすを八等分に関の包丁でとんとんして透明な保存容器に入れる。大根おろしとかぼすを冷蔵庫に保存。昨夜から水に漬けておいた昆布を火にかけて、お湯が沸く前にさっと取り出し、お湯が沸くまでに、にぼしの苦味であるはらわたと頭をぱりぱりと取り、お湯がぼこぼこ沸いたら残ったにぼしを入れ十分程茹でて出汁ができたら、さっとにぼしを取り出す。えのき、しめじはいしづきをとんとんと取り除く、なめこはそのまま、えりんぎは一口より、小さくとんとんと切る。豆腐を手に乗せ均等に賽子さいころ状にすーっと切る。銀杏を串にふすふすと三個さす。実と海老はそのまま、椎茸、筍は、食感と風味の釣り合いに合わせてとんとんと切り。人参を紅葉の様に切り、赤卵の黄身が掛かった卵白と濃い黄色い黄身を分ける。卵白は製氷皿に乗せ冷凍庫へ入れて、固まったら袋に入れて長期保存。出汁が冷えたら卵黄と白だしも一緒に鉢へ入れてがしゃがしゃとよく混ぜ、具と一緒に茶碗蒸しの容器に入れる。下拵えしたごしらはこれで終わりかしら。調理が早く済む料理はお客様がいらっしゃってから、御作りしましょう。味付けは濃すぎない様にしましょう。濃すぎると食が進まないのです。薄くてもだめです。食器ねぇーっ。秋刀魚は白磁に赤い紅葉をあしらった平たいお皿にしましょう。茶碗蒸しは白磁に青い松と海が描かれた器にしましょう。お味噌汁は紅の漆器にしましょう。和え物は白磁の花形な小鉢にしましょう。銀杏の串焼きは串一本分が入る柄のない白磁にしましょう。味の幅を広げましょうかね。今日はお塩にしましょう。桜色の梅塩、白いお塩、黒っぽい藻塩を、三種盛れる区分けされた碧色の柄のない皿にしましょう。あら。真っ黒だった炭が段々赤くなってぱちぱちないていらっしゃいます。近くに居るだけで汗が出て、夏の様です。所々灰に成るのは、まだまだ先ですね。これから始まる時間を想像させて戴けます。今日もあの御方達はいらっしゃるかしら?

十数年の歳月を経ても紺色の生地に白く正風とくずれて書かれた暖簾は変わりません。店先の入口上に掛けます。その時は、御客様をしっかりとおもてなしさせて戴ける様に、おまじないをします。黒い草覆、鼻緒は紅。片方の爪先を地面にかつかつとぶつけます。振り向かなくても夕暮れが引き戸の硝子を橙に染めています。くれゆくときは一瞬です。もう少し経てば、帳が落ちて夜が鶴の様に羽ばたくでしょう。風もだいぶ冷たくなりましたね。冬が足早に近づき、足音も聞こえてきます。

「女将、空いてるかい?」

聞き慣れた低い男性の声に、振り向きましたら何時もの御客様の一人がいらっしゃったようです。毎日のように通って戴ける事が嬉しく思います。私は微笑みます。何時ものように。

「はい。いらっしゃいませ。今日はお早いんですね」

「あぁ、女将に会いたくてね?」

「ふふっ、ありがとうございます。私も心より御待ち致しておりました」

引き戸を横に滑らせて開けますと。炭の焼ける独特の香りを真っ先に感じました。店内を満たしていたんですね。御客様は調理場に一番近い左の隅に在る何時もの席にがたっと座られました。私は何時もの様に、当然だと言う様に、焦げ茶色の瓶に入っている、えびすのびいるを冷えた透明なこっぷにこぽこぽと注ぎます。黄色のびいると白い泡の割合も大事なんですよね。昔は着物の勝手が分からなかったもので、よく汚していました。今は着物の袖を左手で抑えます。こつがいりますが小指からこっぷを置くと音が出ません。御客様がびいるで喉ぼとけを上下させて、ごくごくと飲んでいらっしゃいますが、私は年齢と釣り合わない子供舌なので、お酒を飲みたいと思った事は、失恋した時くらいです。それはさておき。

さぁ、今宵も正風亭が始まります。


自由詩 正風亭(推敲後) Copyright 武下愛 2022-06-30 10:41:06
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