蠅の王が見ている
ホロウ・シカエルボク
細胞たちの悲鳴が渦を巻く目覚め、始まりの光度はいつだってキツ過ぎる、身体を起こすたびに、眠っている間に降り積もったものたちが行方不明になる、そいつらがいつ、どんな瞬間に姿をくらますのかわかったためしがない、拳くらいの大きさの蠅が窓ガラス越しにこちらを睨んでいる、俺は唾を吐きかける、窓ガラスが汚れ、蠅は、マフラーをいじったバイクみたいな下品な羽音を立てて飛び去って行く、おそらくは、すぐ近くで霧のようにきえてしまうのだろう、顔を洗い、ガスコンロで湯を沸かす、インスタントコーヒーは切れそうになっている、抗アレルギー剤を飲み込んで浸透するのを待つ、梅雨の始まり、往生際の悪い女のように湿気が居座っている、左腕だけが奇妙に冷えている原因がわからない、無作為の欠陥、そいつはいつだってそこにある、部屋の温度がゆっくりと上がり始める、エアコンのスイッチを入れる、いつからかずっと、混濁する季節の中で暮らしている、じっとしているのに飽きたら服を着替えて、空襲のあとみたいに焼けている外界を歩く、文明は騒音をそれとなく認知させる、空気を汚すものを利器だと呼ぶ、通りすがりに必ず、顔を盗み見ていくやつら、野良猫よりも無軌道な若者たちの自転車、自己肯定が大前提の連中は、歳を取っても子供のままでいる、もちろん、それは美しい意味合いなんかじゃない、変化を求めない純粋さはただの我儘だ、ゆっくりと、トレイが傾くみたいに世界が歪んでいる気がする、暑さと、おそらくは俺自身の歪みのせい、だけどその歪みは、あくまでもごく一般的な感覚に照らし合わせたものさ、俺はひとりしか居ない、でも、ある種の人間たちは、まるで、一本の幹から盛大に派生した枝みたいに、まったく同じように考え、話すことが出来る、潰れたライブハウスのそばの自動販売機で老人がうずくまっている、安い酒のケースを積んだ軽トラックがその横を走り抜けていく、流行病が幅を利かせるようになってから開けたことがない食堂の前で、貧血のように白い猫がこちらをずっと眺めている、アーケードの中で自転車の急ブレーキ音が響き渡る、それから怒号、俺は猫の目を見返している、新しい政党が中央公園で演説をしている、システムの中でシステムを変えようとするものたち、大切なのは崇高な理想なんかじゃない、餌を欲しがる鳩がそこら中をうろついている、ひとかけらでも食いものをやるとあちこちから飛んできてあっという間に大群になる、その餌をどれだけ投げるのか、その匙加減が政治というものなのかもしれない、いや、俺は政治が国を変えるなんて考えたことはない、人間そのものの営みが根底から覆され塗り替えられなければ、マシになることなんてありえないはずさ、それにしても、常日頃アーティスティックなハートを自負している連中が、いざ選挙になると突然いい子になって国民の義務とか言っちゃって、投票に行ったことをSNSでこれ見よがしに話してんのは毎度大笑いだぜ、集団の為のシステムなんか俺は信じたことがない、これまでも、これからも、ただこうしてひとりで歩いているだけさ、バブルが弾けたあとに出来た巨大で豪華なビル、これがほぼ空物件で鍵すらかかっていないことを知っているものはあまり居ない、まあ、俺がそこで誰にも会ったことがないからそう思っているだけだけど、俺は七階までを階段で移動する、窓からはアーケードの薄汚れた窓を見下ろすことが出来る、七階、つまり最上階はスカイラウンジだった、看板や机や椅子、カウンターの裏の戸棚の中なんかは撤去されているが、作り付けのカウンダ―とスツールは取り残されている、そこに腰かけ、この街のメイン道路を見下ろす、わけもなく忙しない車たちが先を争っている、それは餌に群がる鯉みたいに見える、ラウンジはしんとしていて、明るく、蒸し暑い、いつの間にか転寝をしてしまい、拳くらいの蠅の夢を見る、お前は人間だが人間のようではない、と、蠅は不思議そうな顔をする、俺が黙っていると、意図が通じていないと思ったのか蠅は話を続ける、世に溢れている人間という生きものは俺たちとそんなに違いがないように思える、そう言って前脚を擦り合わせる、それは彼らが怠っているからだよ、と俺は答える、なるほど、と蠅は大きく頷く、もっと人間のように生きることが出来るのに、横着をして蠅のように生きている、というわけだな?俺は頷く、勘違いしないでくれ、と慌てて付け足す、あんたたちを馬鹿にしてるわけじゃない、蠅は苦笑する、大丈夫、わかってる、そうして片手を軽く上げて別れの挨拶をする、俺も同じ仕草を返す、ぶうん、と巨大な羽音が俺の脇をかすめて遠くなっていく、目が覚めた時、そこにはかすかにまだやつの蠢きが残っているようなそんな気がしたんだ。