蝶を咥えた猫
ただのみきや

ひとつの自分が
無数の綿毛に変わる
わたしは消失し
野にある数多の物語となる


 未来から過去へとすり抜けた
 あなたはわずかな時間だった
こうして記憶は一瞬を一生にし
わたしだけがひとり一緒にいる


眼差しをはね返すものだけが
持ち物だった
見てごらんすべて
あなたが映り込んだこの世界を


      魚に翼は無用だ
だが魚の翼だけがここにある
    サモトラケのニケの
    大いなる欠損と共に
初めから無かったものだけが


音楽と共に揺れている
わたしは煙
わたしの生
異国の匂いの一本の線香


  蝉の響きは無辺の汀にうすめられ
光を抱いて空はまどろみを取りもどす


霧雨に鳥を追い
瞳が深まるにつれ
わたしを離れた
狐の吐息で
稲光と雷鳴の間の
飢えた肌へ
雨はささやいた


 うつむいた時計から芍薬の滴り
縫い閉じられた沈黙のほつれた糸


雨音がついばむ放心
わたしは輪郭を失って
遠くの耳に吸い込まれる
樹々を伴って風が羽ばたいた


言葉を蝕する
 こころの影


慣用句を着せられた少女が紅の糸を首に巻いて
グラウンドのまん中で空を見上げている
鏡との距離を測りかねた盲目の物差しを
祈りと嘯く者たちに倒れかかる剣になりたいと
冷たいぬかるみに頬をあずけて夢を見る
蜜蜂でいっぱいの頭の中で水晶が響いていた


           緑の伽藍の秘め事
  重なりあい触れあう葉のかそけき囁き
 めぐる視線がいっぱいに含んだ雫の輝き
    固い壜の蓋をあけようとしたまま
             手は煙になる


すき間なく雲に包まれて
足跡を残さない男の時間を飲み干した
土は笑う
瞑ったまま傷口を光らせて



                 《2022年5月28日》









自由詩 蝶を咥えた猫 Copyright ただのみきや 2022-05-28 14:55:26
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