陸に上がったワンピースの話
万願寺

 うすむらさきのワンピースを着たほっそりした女が丘の上をあるいている。この女は主人公ではない。この女は主人公ではないが、とても重要な人物であることは確かだった。うすむらさきはそのまま黄緑の丘をすらすらと進んでいって、一軒の家に入る。そこでは男の人がわんやわんやとお話をしている。うすむらさきは、ふん、と思ってしばらく黙って聞いていた。そのうちに、誰かが歌をうたおうと言い出した。それでうすむらさきは我慢ならなくなって、家を飛び出した。その時には白い小さな影が女についてきていた。その影のはしをつかむともなく右手にちょっと巻き付けて、うすむらさきは歩いていった。おおきな空が絵画のように金色の小麦を照らした。うすむらさきはよく歩く人だった。白い影はいつのまにか少女のかたちをして彼女に「それでは」とお辞儀をしていた。「では、そのように」とうすむらさきも応えて、きれいに生え揃ったまつげを伏せて、ゆうがなお辞儀をした。


 たくさんの形や、天使や、鳥や、とっても高価な、重くてごつごつしてたくさんの細かい装飾がなされた、もとは金色の額縁などが、うすむらさきに運ばれていった。そしてよく歩いて、丘にはいつの間にか道もできている。たくさんの動物達がうすむらさきのワンピースの柄になりたがった。みんな泣いてお願いした。でもだめだった。うすむらさきのワンピースの柄は、なんにもなかった。なんにもないという柄を、わたしは死守していきますので。と、厳しい口調で女が言うたび、おそろしすぎて動物たちは泣いてしまった。けれどたびたび彼女を訪れては、詩を差し入れた。


 ずっと歩いていたその丘の上に、おおきなおおきなクレーターがあった。かつて星が落ちた。その中心にうすむらさきは歩いていって、そのいちばん底で、思いっきりの声で、「ばーーーーーーーーか!」と言った。くそが、と付け足したかったが、それは、少し悲しくなってしまいそうだったのでやめた。クレーターから丘へ戻ると夕焼けだった。その日も野営をして、焚火の火をガラスのコップの水で消してから、すこしだけそれが煙をあげる様子を見ていた。その夜、クレーターの夢を見るかと思ったが、見たのはいつもどおりの、つまらない緑の蝶々を追いかけるだけの夢だった。


 さまざまなものがうすむらさきを煩わせた。多くの事で笑った。どうしようもないか、とも、思うことがある。笑い飛ばせればいいのに、うすむらさきの女は、そういうことができる「たち」ではなかった。
 動物達はあきらめずに彼女を訪ねる。訪ね続ける。ワンピースの柄のことはあきらめられても、彼女のことを諦めることはできなかった。
 女はもう道の先のほうにある。もうすぐ丘を出て行かなくてはならないのだった。どちらが東で西で、ということもわからないような動物たちに根気強くゴルフのクラブの種類など教えながら(当然かれらはおぼえられない)、女はよく歩いた。他のひとは、よく、彼女は丘の裏側まで行ってしまうんじゃないか、いや、実はもう行って帰ってきているのかも、などと噂した。そういったことを噂するのもまた楽しいことだった。


 うすむらさきは兎に角、丈夫な足を持っていたので、それでいろんな場所に行けた。彼女の足に踏み固められた丘は、それでも、百年後にはゆたかな森になってしまった。動物達は丘を離れて、さまざまな街へゆき、きっと私達、あなたのに負けないワンピースを仕立ててきますから、と言い残した。
 森の葉が、肉厚な南の気候の樹についた葉が、かさかさと揺れて、ちいさな女の子が顔を出した。こっちだよ、と父親に導かれて、駆け寄っていって、抱き上げられる。その子のもとには今でも、毎月さまざまな生地のワンピースが届けられるという。そういう仕事を、彼女はしていた。なお、うすむらさきの言い残すことには、私を絶対に主人公にはしないこと。銀河のなかでただたなびくだけだったうすむらさきのワンピース。


 ワンピースは、女に大切にされたわけではなかったが、それはそれは、とても大きな花のたばを抱えて、草として、花として、土として、丘のなかへ還っていったとのこと。


自由詩 陸に上がったワンピースの話 Copyright 万願寺 2022-05-27 18:40:38
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