二〇二〇年七月一日 「『幻想と怪奇 宇宙怪獣現わる』」
『幻想と怪奇 宇宙怪獣現わる』の再読終了。憶えていたのは、パトリシア・ハイスミスの「かたつむり」だけだったが、繰り返しになるが、シオドア・スタージョンの「それ」1作品があるだけでもこのアンソロジーの存在価値はある。いま目次を見て半分も思い出せず、自らの忘却力にいまさらながら驚く。
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二〇二〇年七月二日 「『幻想と怪奇 おれの夢の女』」
きょうから寝るまえの読書は、『幻想と怪奇 おれの夢の女』シリーズ3巻目、さいごのアンソロジーの再読だ。目次を見て1作品も思い出せず。まあ、読むときに新鮮でいいのだけれど、読んでる途中でも思い出せないことがほとんどだから、まあ、新刊本を読んでるのといっしょだな。お得と言えばお得だ。
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あ、ゼナ・ヘンダースンの「なんでも箱」も憶えていたのだが、彼女の短篇集でも、さまざまなアンソロジーでも読んでいて、もう憶えていなければ、ほんもののボケだな。なんべん読んでも名作。
二〇二〇年七月三日 「前掛けを洗うこと。」
前掛けを洗うこと。カードを受け取りに郵便局に行くこと。ほら、フィッシング詐欺に以前に遭ったでしょ。新しくつくってもらったクレジットカードね。
二〇二〇年七月四日 「死人使い」
『幻想と怪奇 おれの夢の女』の再読を終えた。レイ・ブラッドベリの「死人使い」以外、いま読んだ3篇の短篇しか憶えていない。なんという忘却力。情けない。憶えているのは、よほどの傑作か怪作だということだろう。「死人使い」は萩尾望都が、好きなブラッドベリのなかでは、嫌な作品に挙げていた。
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二〇二〇年七月五日 「『死霊たちの宴』」
きょうから寝るまえの読書は、ゾンビ・ホラーのアンソロジー『死霊たちの宴』上下巻。10年以上もまえに読んだかなという記憶がある。きてれつなゾンビものが入ってた記憶があるが、詳細は思い出せない。カヴァーが超好みだった。
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日知庵の帰り、駅の近くで、こけて、まゆの上を傷つけちゃって、血まみれ。59歳で、飲んだくれて、血まみれ、ひさびさ。手でまゆのあたりを手でさぐって血を見て、ひゃーって感じだった。でも、こんなことがあっても、ときにはいいかなっとも思うぼくがいる。ぼくはおかしいのかな。
あしたは高木精神医院に。
二〇二〇年七月六日 「ホーム・デリヴァリー」
日知庵からの帰り道、ヨッパでこけて、顔を地面にぶつけて血を出してしまった。帰って部屋に戻って顔を見ると、眉毛のうえを血まみれにしてしまっていた。ああ、齢をとると、ヨッパになると、まともに歩くこともできないのだと思った。でも、お岩さんのようになったまえよりひどくはなかったのでОkか。
『死霊たちの宴』上巻、チャン・マコンネルの「花盛り」、リチャード・レイモンの「森のレストラン」の2作品を読んだけれど、エロと暴力が特徴的な作品だった。ゾンビが出てくる作品のアンソロジーだと、そうなるか、と思わせられた。2作目は記憶にあった。
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3作目に収録されていた、ラムジー・キャンベルの「唄え、されば救われん」は、ラザロを出してきた。甦る死者としては当然と言えば当然か。さて、4作目は、スティーヴン・キングの「ホーム・デリヴァリー」いったいどんな作品だろう。楽しみだ。
キングの作品を読み終わった。記憶していたものだった。妊娠中の妻が蘇った死者である夫を殺す話だった。夫はロブスター漁をしていて、嵐の夜に死んだ溺死者だったのだが、4か月後に海から家に戻ってきたのだった。
二〇二〇年七月七日 「パステル都市」
パステル都市がいま改訳中だそうで、新刊で出たら買おうと思っている。数年まえに友だちに譲っていて、先日、読み直そうと思って本棚になかったことに気がついたのだった。首をちょん切る歩行機械が登場する未来の中世的な世界で不思議な小説だった。はやく出してほしいな。
二〇二〇年七月八日 「すべてがひとときに起こること。それこそが永遠」
ゾンビのアンソロジーを読んでいるのだが、ただ人肉を食らうバケモノとして扱っているのではなくて、物語にさまざまな工夫がしてあって、読ませるものになっている。ここひと月、ふた月ばかり、怪奇と幻想ものを読んできて飽きそうになっていたが、ゾンビもの、なんだか読んでて生き生きとしてきた。
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フィリップ・ナットマンの「始末屋」は短いながらも続篇を期待させられる終わり方だった。エドワード・ブライアントの「地獄のレストランにて、悲しき最後の逢瀬」は読み物として優れていた。スティーヴ・ラスニック・テムの「胴体と頭」はアイデアが抜群だった。すべて読み直しをしてすぐ思い出した。
ゾンビ・アンソロジー『死霊たちの宴』上巻の再読を終了した。グレン・ヴェイジーの「選択」は、哲学というか神学というか、そんな方面に赴いたもので、ゾンビ臭くなかった。レス・ダニエルズのものは、ゾンビに赤ちゃんが生まれるというもので、しかもその赤ちゃんは、ふつうの人間だったというもの。
グレン・ヴェイジーの「選択」には、「すべてがひとときに起こること。それこそが永遠」(夏来健次訳)というすてきな言葉がある。「「詩人て、だれのこと?」」(夏来健次訳)という言葉もある。
きょうは徹夜しちゃった。きょうから寝るまえの読書は、ゾンビ・アンソロジー『死霊たちの宴』下巻の再読。どれだけ、ぼくを楽しませてくれるかな。
二〇二〇年七月九日 「西原真奈美さん」
西原真奈美さんから、詩集『光りのパース』を送っていただいた。実景があって、その実景だけがもたらせる豊饒さというのがある。西原真奈美さんの詩がそうだ。ご自分のことを書かれても景物を書かれても父やねこのことを書かれてもその豊饒さがうかがえる。おこころが豊かであられるのだろうなと思う。
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二〇二〇年七月十日 「闇の展覧会」
本棚を探してもなかったので、ハヤカワ文庫から出てた『闇の展覧会 霧』、『闇の展覧会 敵』、『闇の展覧会 罠』を Amazon で買い直した。3冊で、送料込みで2050円だった。『敵』は、背に破れがあるらしいので、覚悟している。カヴァーが命のぼくだから。2050円、新刊本2冊が買えたなあ。再読。
二〇二〇年七月十一日 「がっちり食べまショウ」
『死霊たちの宴』下巻の途中だけれど、4作品を読み直した。ダグラス・E・ウィンターの「レス・ザン・ゾンビ」は純文学みたいだった。スティーヴン・R・ボイエットの「パブロフの犬のように」とブライアン・ホッジの「がっちり食べまショウ」とジョー・R・ランズデールの「キャデラック砂漠の奥地にて、死者たちと戯るの記」の3作品は、設定が凝っていて、ああ、文学とは、順列・組み合わせなのだと再認識させられた。この3作品は、暴力描写もすさまじくて、暴力描写がゾンビ作品の特徴なのだと、これまた再確認させられた。
二〇二〇年七月十二日 「『影よ、影よ、影の国』」
徹夜で、『死霊たちの宴』下巻を読み終わった。ニコラス・コイルの「サクソフォン」は人間並みの知能と行動力をもったゾンビたちの話で、ロバート・R・マキャノンの「わたしを食べて」は、ゾンビが一般人化しているなかでの恋愛ものだった。あとひとつの話は特におもしろいものではなかった。
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きょうから寝るまえの読書は、カヴァーが超かわいい、シオドア・スタージョンの『影よ、影よ、影の国』の再読。楽しみ。
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Amazon で注文してた『闇の展覧会 罠』が到着した。並み程度の状態。読むのは、1、2週間後かな。
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二〇二〇年七月十三日 「廿楽順治さん」
廿楽順治さんから同人詩誌『Dawn Beat』第16号を送っていただいた。廿楽さんの作品「船岡山」「東京大明神」の2作品、うまいなあと思わせられる。どこからこんな詩を思いつかれるのか、聞いてみたい気がした。
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二〇二〇年七月十四日 「『闇の展覧会 敵』」
『闇の展覧会 敵』商品説明には背表紙に破れがあるとは書いてあったが、表表紙に破れがあるとは書いてなかったので、返品希望した。ショップからの連絡待ち。でも、もう新たに、Amazon で、『闇の展覧会 敵』を別のショップで買った。
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二〇二〇年七月十五日 「広田 修さん」
広田 修さんから、詩集『societas』を送っていただいた。さまざまな題材を扱っておられて、ひとつひとつの作品が、じっくりと練られてつくられているなと思った。「僕は仕事ができない」「裏返る」など、ひじょうに共感できる作品がある一方、「年度の終わり」といった突き放される作品もある。重厚。
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広田さんの作品、「無口ゆえに」にも大いに共感できた。「時間」といった作品にも共感できた。しかし、「一職員」といった難解な作品もある。きょうじゅうに読み切れないと思う。読み切るのに時間を要する詩集のようだ。
『闇の展覧会 霧』が到着した。新刊本のようにきれいだったので、大満足。きょうから寝るまえの読書にするつもりだ。楽しみ。再読だけれど、きっと新鮮な気持ちで読めると思う。細部を憶えていないからね。
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到着した『闇の展覧会 敵』表表紙に破れがあったけれど、これで読むことにした。本文は新刊本のようにきれいだったからね。
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『闇の展覧会』は『敵』『罠』『霧』の順番だったようなので、この順に読むことにする。そのまえに、シオドア・スタージョンの『影よ、影よ、影の国』の残り、2篇を読まなければならない。スタージョンの作品、ぼく好みの独特の視点から語られていて、好き。
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二〇二〇年七月十六日 「『死霊たちの宴』」
Amazon で、『死霊たちの宴』上下巻のカスタマーレビューを書こうとしたら、ぼくには書き込める資格がないということがわかった。過去1年間のあいだに、5000円以上の買い物をしていなかったためであった。そうか。過去1年間に、Amazon で、5000円以上、本を買っていなかったか。
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『闇の展覧会 敵』を読んでいるのだが、たくさんの怪奇幻想ものをつづけて読んできたからか、刺激がなくなってきた。叙述の仕方を読みながら味わっているという感じだ。驚かせてくれる作品にはなかなかたどり着けそうにないな。
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ジーン・ウルフの作品でさえ、刺激的ではなかった。
『闇の展覧会 敵』ロバート・ブロックの「クリスマスの前夜」はグロなだけの作品だった。ジーン・ウルフの作品はピントが合ってない写真のようだった。ロバート・エイクマンの作品「マーク・インゲストリ──客の物語」は散漫な印象。
ラムジー・キャンベルの「闇の
孕子」はラブクラフトの焼き直し。アイザック・バシェヴィス・シンガーの「敵」は読ませるが、怪奇ものとは言い難い。あと4篇、どだろ。
クリフォード・D・シマックの「笛吹く古井戸」には、シマックらしい情景描写の細やかさを味あわされた。作中に出てくる、恐竜の胃袋に入っていた石の話は、ほんとうの話なんだろうか。興味深い。再読なのにすっかり忘れていた。
つぎのチャールズ・L・グラントの「赤黒い薔薇の庭」は、さいごのあたりの描写が意味がわからなかった。怖くもないし、嫌な気分にもなれずに、ただ放り出されたかのような感じがした。
二〇二〇年七月十七日 「あと2篇だった。」
あと3篇。ここまで1篇も記憶になかった。記憶力の低下がはなはだしい。
あと2篇だった。カール・エドワード・ワグナーの「なつの終わるところ」とジョー・ホールドマンの「リンゼイと赤い都のブルース」 両方とも叙述が優れていた。ワグナーのものはまだ怪奇ものと言えそうなものだったが、ホールドマンのものは怪奇ものとしては弱かった。
すべて既読なのだが、本棚になかったので、Amazon で、ホラー・アンソロジーの『ハードシェル』、『スニーカー』、『ナイト・ソウルズ』、『999 狂犬の夏』、『ナイト・フライヤー』、『カッティング・エッジ』を買った。総額で、3000円ほどだった。『ナイト・フライヤー』の中の1作しか憶えていない。
きょうから寝るまえの読書は、『闇の展覧会 罠』これまた1作も憶えていない。
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ついでに、これまた既読だけれど、本棚になかったので、吸血鬼アンソロジー『血も心も』もAmazon で買った。送料込みで400円ほど。
ついでに、『幽霊世界 』(新潮文庫)もAmazon で買った。送料込みで500円くらい。
本を8冊買ったので、Amazon でカスタマーレビューが書き込めることになった。1年のあいだに5000円以上の買い物をすればよいのだ。さっそく10冊ばかり、レビューを書き込んだ。
二〇二〇年七月十八日 「高野 尭さん」
『闇の展覧会 罠』冒頭の作品は、ぼくの好きな作家、シオドア・スタージョンの「復讐するは……」であった。男性に犯された女性が復讐するというものだが、病気をうつすというもの。HIVを経た現代では、現実的である。スタージョンのものは即効性の痛みを伴うものだったが。
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二番目に収録されていたエドワード・ブライアントの「闇の天使」も復讐ものだった。ブードゥー教のように、人形を用いて、というもの。これも女が男に復讐するのだが、なんと相手の男を妊娠させてしまうというもの。
高野 尭さんから、詩集「逃散」を送っていただいた。ぼくなど太刀打ちできない言葉の構築性をもってらして、おいくつくらいの方かしらと思って奥付を見たら、1961年、ぼくと同じ年にお生まれになった方だった。この方のような言葉を使って生活することなど、ぼくには到底できないと思った。
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二〇二〇年七月十九日 「ゲロンチョン」
3番目に収録されてたリチャード・マシスンとその息子のリチャード・クリスチャン・マシスンの「精神一到……」は生きたまま棺に入れられて葬られた男の話で、オチがよかった。次に収録されてたジョイス・キャロル・オーツの「ビンゴ・マスター」はまったくの普通小説で、ホラーではなかった。
5番目に収録されていたエドワード・ゴーリーの「莫迦げた思いつき」は1ページごとに絵がついていて、絵のしたに、3、4行の文章が載っているもの。これはホラーというより寓話のような感じがした。これまた記憶にいっさい残っていなかった。
ラッセル・カークの「ゲロンチョン」を読み直した。これまた記憶にいっさいないものだった。叙述がうまい。タイトルは、エリオットの詩から。つぎに読み返す機会があるとしても10年くらい先になると思うけれど、きっと話は忘れていると思う。明日にも忘れているかもしれない。いや、きっと忘れてる。
二〇二〇年七月二十日 「しかし、そもそも石とは何か?」
レイ・ブラッドベリの「見えざる棘」は時間もののSFだが、ホラー風味はなかった。ゲイアン・ウイルソンの「罠」は鼠が襲ってくるものだが、ありきたりだった。『闇の展覧会 罠』は、ちょっと平凡な作品が多いかな。あと長めの1篇で終わり。おもしろいかな。どだろ。
『闇の展覧会 罠』さいごに収録されてたT・E・D・クラインの「王国の子ら」を読み終わった。254ページから382ページまであり長めの短篇だった。叙述はうまかったが、ほとんど普通小説で、終わりにちょこっと怪奇ものめいた描写があるだけだった。
きょうから寝るまえの読書は、『闇の展覧会 霧』の再読だ。本分の3分の2を占めるスティーヴン・キングの「霧」だが、叙述がうまかったことだけは憶えている。他の4篇ともども再読が楽しみだ。
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秋山基夫さんから、詩集『シリウス文書』を送っていただいた。詩型を見て、つくづくフォルマリストなのだなと思われた。「夢とわかれば覚めなかったのに/覚めないままに生きながらえて」といった詩句にこころの目がとまる。
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Amazon で購入した本が7冊届いた。『スニーカー』、『999 狂犬の夏』、『ナイト・ソウルズ』、『ナイト・フライヤー』、『カッティング・エッジ』、『ハード・シェル』、『血も心も』、『ハード・シェル』の表紙に破れが、『スニーカー』の表紙に折れがあったのが残念。
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『闇の展覧会 霧』冒頭のデニス・エチスンの「遅番」を読んだ。だいたいの内容はつかめたが7割くらいといったところ。はぐらかされている部分があって、作品にくっきりとした輪郭を与えない。
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リサ・タトルの「石の育つ場所」つくりものめいたところが目立つ。
「しかし、そもそも石とは何か?」(リサ・タトル『石の育つ場所』広瀬順弘訳、68ページ、うしろから4、5行目)
マンリイ・W・ウェルマンの「昼、
梟の鳴くところ」ようやくこれぞ怪奇もの、というものに出合った。点数をつけるとすると低い点数になるものだけれど。
二〇二〇年七月二十一日 「『幽霊世界』」
Amazon で注文していた『幽霊世界』が到着。
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デイヴィス・グラッブの「三六年の最高水位点」は、読んでて楽しい作品であった。デイヴィス・グラッブの作品はソノラマ文庫海外シリーズの1冊『月を盗んだ少年』が本棚にあるので、そのうち再読しようと思った。さて、これからキングの「霧」である。シリーズで唯一、記憶に残っていたものである。
「霧」やっぱりおもしろかった。動きがあって、映像が思い浮かぶ。映画のようだ。詩も動きのあるものが好きだ。小説も動きのあるものが好きだ。映画版とはさいごが違うが原作の小説のほうがよい。
きょうから寝るまえの読書は、ホラー・アンソロジー『ナイト・フライヤー』の再読。スティーヴン・キングの作品だけは憶えている。記憶に残る情景描写を書く作家であるということであろう。
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二〇二〇年七月二十二日 「『ナイト・フライヤー』」
キングの「ナイト・フライヤー」のさいごの場面は、記憶していた通りだったが、そこに行くまでの箇所は、記憶してなかったが、読みながら思い出していた。何年さきになるかわからないけれど、また再読するときも同じようにさいごの場面しか覚えてないんだろうな。
つぎに収録されているポール・ヘイズルの「昼食に女性を」は、タイトル通りの作品で、とても短い作品だった。途中まで読んで、思い出した。優雅な筆致で残酷な作品だった。
「昼食に女性を」のさいしょのページ、大きなくしゃみをして、開いたページを唾で濡らしてしまった。すぐにティッシュで拭いたけれど、ちょっとしわしわになった。でも、時間がたって見てみたら、しわしわがなくなっていた。不思議。でも、よく見ると、波のように、しわしわが残っていた。およそページの4分の1くらい。唾がたくさん出たものなあ。
二〇二〇年七月二十三日 「血の口づけ」
きのうの夜はものすごい食欲だった。日知庵でまかないで出してもらった鰻丼とサラダやおかずを食べたあと、帰りにお土産でもらった赤福まんじゅうひと箱と、とんかつ弁当を部屋に戻って、1時間ほどかけて食べた。たぶん、いままで食べた量のなかで最高だったと思う。どれもみな、おいしかった。
つぎは、デニス・エチスンの「血の口づけ」を読んだのだが、作品のなかの作品というか、脚本仕立ての作中作のアイデアはいいとしても、地の部分がよくわからないもので、作中作はわかるものだけに、読んでて、もやもやした気になった。
そのもやもやを解消するために、地の部分を、地の部分だけを、もう一度、読み直した。意味はわかった。怪奇ものではなかった。作中作はゾンビ映画の脚本だったので、いちおう怪奇ものの短篇ということになるのかな。
二〇二〇年七月二十四日 「オレンジは苦悩、ブルーは狂気」
クライヴ・バーカーの「魔物の
棲む
路」は、ダーレスの「淋しい場所」を思い出させる雰囲気だったけれど、さいごの場面が唐突すぎて、それまでの物語と乖離しているような感じがした。さいごの場面をどうにかしたら、ずっとよい作品になっていたような気がする。
トマス・テッシアーの「
餌」はホラーといっても、魔物が出てくるんじゃなくて、ただ太った女性が出てくるだけで、食べることに執着した女性に、さいごは男性が圧し潰されて死んじゃうという話。ホラーというよりコミック。
M・ジョン・ハリスンの「パンの大神」好きな作家だけに贔屓目かもしれないけれど、幻想系の純文学めいたものに思えた。点数をつけるとすると5点満点で3点かな。雰囲気はある。優れた作家だと思うけれど、M・ジョン・ハリスンの短篇は、長篇ほどおもしろいものではない。長篇はすこぶるおもしろい。
デイヴィッド・マレルの「オレンジは苦悩、ブルーは狂気」を読んだ。これまた読んだ記憶がいっさいないものだった。アイデアがすばらしい。叙述も見事だ。ただ怪奇ものというよりは幻想系だろうと思う。
ピーター・ストラウブの「レダマの木」40代の作家が7歳のときに経験した性的体験を中心に物語は進む。ようは、幼児性愛者にいたずらされたことがつづられるのだけれど、そこの描写がけっこう生々しかった。怪奇ものでも幻想系でもなかった。なんでホラー・アンソロジーに入れたのか理由がわからん。
二〇二〇年七月二十五日 「死者との物語」
チャールズ・L・グラントの「死者との物語」釣りをしている家族と女性がでてくるが、ふつうの会話がなされるだけで、タイトルを見ると、だれかが死者なのかもしれないけれど、そんな雰囲気もなくって、こんなんありなんかいなと思わせられた。
二〇二〇年七月二十六日 「大和田 始さん」
トマス・リゴッティの「アリスの最後の冒険」隠遁した女流作家が朗読会で朗読するというのがおもな場面だが、ちっとも怪奇ものじみたところがないシロモノだった。
ラムジー・キャンベルの「このつぎ会ったら」自分のことを作家だと思い込んでいて、ベストセラー作家たちが自分のアイデアを盗んで出版していると妄想している男が主人公。ホラーでもなんでもない。つまらない作品だった。
尊敬している翻訳家の大和田 始さんに、ぼくのツイートに、いいね、していただいてびっくりしている。とてもうれしい。M・ジョン・ハリスンの『パステル都市』を改訳してらっしゃるところだけれど、改訳、ほんとうに楽しみにしている。
ホイットリー・ストリーバーの「プール」を読んだ。これまたホラーでも、幻想系でもないシロモノだ。息子がプールで溺れ死ぬというだけの作品だ。ストリーバーといえば、『薔薇の渇き』、『ラスト・ヴァンパイア』、『ウルフェン』といった傑作長篇を書いた作家なのに。この短篇はよろしくなかった。
二〇二〇年七月二十七日 「『血も心も』」
ハリイ・ハリスンの『人間がいっぱい』がいまいくらくらいするのか、Amazon で見たら7119円してた。1か月まえくらいには、4000円だったと思うけれど。たしかに名作だけれど、値上がりしすぎだと思う。ハヤカワは復刊するべき。アシモフ、クラークばかり復刊せずにね。
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さいごに収録されていたジャック・ケイディの「暗黒を前にして」これもホラーじゃなかった。戦争のときに悪さをした人物が戦後にノイローゼになり、その友人も狂っていて殺し合うというもの。むかし、『ナイト・フライヤー』手放したのもわかる。
きょうから寝るまえの読書は、吸血鬼アンソロジー『血も心も』の再読。おもしろかったかな。これまたひとつも憶えていない。
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1つ目のダン・シモンズの「死は快楽」は、シモンズの長篇『殺戮のチェスゲーム』の冒頭をはしょったものだった。意志の力で他人にいうことをきかせる超能力者同士の殺し合いを描いたもの。『殺戮のチェスゲーム』自体は別のところに主題があるし、分厚い上中下巻に分冊されたもので壮大な物語である。
2つ目のゲイアン・ウィルスンの「海はどこまでもぬれにぬれ」は、ルイス・キャロルの詩からインスパイアされたもの。短い作品だった。
3つ目のギャリー・キルワースの「銀の首輪」は、吸血鬼に聖水の注射をしたって話だ。はじめて読む話だ。この本もまた再読なのだけれど、すさまじい忘却力のせいではじめて読んだ気になるのであった。
4つ目のハーラン・エリスンの「鈍刀で
殺れ」説教伝道師が聴衆の犠牲になっているという話だ。直接、血を吸われるために、とうとう一人の少女に刺されてしまったというわけ。
5つ目のスコット・ベイカーの『静脈条虫」シャーマンと呼ばれる魔術師の物語。おもしろかった。ブルガーコフの『巨匠とマルガリータ』を思い出した。話はぜんぜん違うけれど。
6つ目のレオニード・ニコライヴィッチ・アンドレイエフの「ラザロ」読みながら、どんな物語か思い出していた。さいごのところが思い出されなかったけれど、物語自体は興味深かった。ラザロについては、ゾンビのアンソロジーでも触れられていた。なんといっても、よく知られた話だからね。
7つ目のハーヴィ・ジェイコブズの「乾杯!」アイデアがさえてるって感じ。
8つ目のシャロン・ファーバーの「砂漠のヴァンパイア、よみがえる」読んでも意味がぜんぜんわからない話だった。吸血鬼も出てこず、怪奇ものですらなかった。
二〇二〇年七月二十八日 「『血も心も』」
9つ目のエドワード・ブライアントの「夜はいい子に」は、逆転の発想でおもしろかった。少女たちにエネルギーを奪われる吸血鬼の物語だった。
10作目、フリッツ・ライバーの「飢えた目の女」タイトル通りの作品だった。
11作目のタニス・リーの「ジャンフィアの木」雰囲気のある作品だった。伏線もしっかりしていたし。
12作目のスーザン・キャスパーの「
闇の申し子」医学的な理由で血を欲する女性の話。吸血鬼って感じはしなかった。
13作目のスティーヴ・ラズニック・テムの「夜想曲」は詩だった。なにも感じない。
二〇二〇年七月二十九日 「死者にまぎれて」
14作目のガードナー・ドゾワ&ジャック・ダンの「死者にまぎれて」は、ナチ収容所に囚われていたユダヤ人の吸血鬼の物語だった。これは、シモンズの長篇『殺戮のチェスゲーム』と重なる部分もあって、おもしろく読めた。
二〇二〇年七月三十日 「『999 狂犬の夏』」
15作目のチェット・ウィリアムスンの「その悲しみを……」役者の話。他の役者の才能を奪う話。血ではなく、感情を奪うのだ。
16作目は、SF作家としてよく知られた、ぼくの大好きなジョー・ホールドマンの「ホログラム」これは詩だった。だが、感情移入できなかった。
17作目、さいごに収録されていた物語はSF。才能の枯渇した芸術家が、こころに接触する機械を操る主人公に診てもらう話。けっきょく芸術家は、現状維持を望み、才能は枯渇したままという話。この本も5点満点中、3点といったところか。
きょうから寝るまえの読書は、ホラー・アンソロジー『999 狂犬の夏』の再読。これまた一つも作品を憶えていない。
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1つ目、ジョー・R・ランズデールの「狂犬の夏」おもしろかった。アメリカ南部の風土がよく表現されていた。ホラーというよりミステリーって感じかな。
二〇二〇年七月三十一日 「『999 狂犬の夏』」
2つ目のトマス・リゴッティの「影と闇」は、ホラーというよりも形而上学的な問題を作品にしたもののように受け取れた。読むのが少し苦痛だったのは、ぼくが哲学的な言葉の言い回しに慣れていなかったせいだろう。
3つ目は、スティーヴン・スプライルの「ヘモファージ」とても短い吸血鬼ものだった。もう少し長くてもよかったのに。というか、叙述がうまいので、もっと長く味わっていたかった。