詩の日めくり 二〇二〇年三月一日─三十一日
田中宏輔
二〇二〇年三月一日 「夢」
けさ見た夢。10人くらいの男女がいて、ひとりの男が女の頭に大きな岩をぶつけて殺そうとしている。べつの男がナイフをもっていて、ぼくのほうに近づいて腕を刺したところで目が覚めた。10人くらいの男女がいたところは工場のなかだった。
二〇二〇年三月二日 「マスタード」
「マスタード」の名前が思い出されなくて、「西洋からし」で検索したら出てきた。もうマスタードていどの言葉も忘れるくらいに忘却力がすごくって、自分でもショックを受けている。
二〇二〇年三月三日 「ガル・コスタ」
ガル・コスタの『ファンタジア』に入っていた曲が忘れられない。Amazon で探してもアルバムの『ファンタジア』が出てこない。ガル・コスタをはじめて聴いたのは、錦市場の喫茶店「木下」であった。「アサイー」という曲が忘れられない。
二〇二〇年三月四日 「理不尽な居酒屋」
ジミーちゃんと行った、府立図書館まえの居酒屋も忘れられない。ふたりで店に入って、カウンター席に坐ったら、小鉢がつぎつぎと目のまえに並べだされはじめたのだった。コの字型のカウンター席だけの店だった。ぼくが、「なんなんですか?」と訊くと、「うちはストップと言わないまで料理を出すシステムなんです。」と店のおばあさんに言われた。ジミーちゃんもぼくも、6つか、7つ並べられた小鉢を眺めながら、びっくりしてしまって、それでも気を取り直して、ぼくが、「もうストップしてください。」と言って、あまり飲まずに、ふたりは、出された小鉢の料理だけを食べて、気まずい雰囲気で店を出た。二度と行かなかった。店のシステムがあるのなら、そんなものは、客に先に言わないといけないと思う。
二〇二〇年三月五日 「舟橋空兎さん」
舟橋空兎さんから、詩集『朝と世界は相性が悪い』を送っていただいた。耳のよい詩人さんらしく、改行が適切な箇所でなされていた。一行が短い改行詩が多く、すらすらと読めた。草野理恵子さんの不気味な作品に通底するものも感じられた。すらすらと読めたのは、文脈の構成が巧みだったからだろう。また、思想的に語られる作品もあったりして、それが、詩集全体に凛とした雰囲気を醸し出させているなとも思われた。
二〇二〇年三月六日 「宇佐美やすしくん」
小学校と中学校のときの友だちに、宇佐美やすし(名前の漢字がわからない。卒業のときに配られた名簿もないので調べられない。)という名前のやつがいた。カントリー・ウエスタンが好きだったらしく、自分でもバンジョーを弾いていた。ぼくが大学生になったころかな。噂で、うさやん(と、ぼくらは呼んでいた。)がつくった曲が大阪の駅で流されているということだった。いまはどうしているのだろうか。もう60歳になっているだろうから、ひとに音楽でも教えているのだろうか。ふと思い出した。
二〇二〇年三月七日 「夢」
部屋に長髪の二人の青年が眠っていた。後ろ抱きに寝ていたほうの青年が、ぼくのほうを顎で示して、「こいつがここにいるし。」と、もうひとりの青年にささやいた。ふたりは身体を離して横になった。ぼくが二人の姿を見ようとしたら、二人の姿が消えていた。
二〇二〇年三月八日 「こひもともひこさん」
こひもともひこさんが怪獣のフィギュアを集めてらっしゃるのを画像を見て、ぼくも懐かしくて、ウルトラQやウルトラマンやウルトラセブンに出てきた怪獣のフィギュアを集めだした。EX500シリーズのものが出来がよいので、EX500シリーズの怪獣を中心に集めたのだが、いちばんのお気に入りを決めるとしたら、むずかしいな。パンドンもいいし、エレキングもいいし、ミクロスもいいし、ペギラもいいし、ゴメスもいいしな。ダダもいいし、ジャミラもいいし、ペスターもいいしな。ウィンダムも、カネゴンも、バルタン星人もいいな。配色のきれいさとフォルムで、パンドンかな。ウルトラQに至っては、指人形まで集めた。指人形のなかでは、だんとつに、怪物M1号がいいかな。とってもかわいらしいのだ。
二〇二〇年三月九日 「醍醐中学」
中学1年生の途中で祇園の家を改築するというので、醍醐の一言寺の近くに引っ越したのだが、3年生になると、またもとの祇園に戻って、中学も元の弥栄中学校に戻ったのだけれど、醍醐中学のときの思い出はいろいろある。そのひとつに、大きな家に住んでるお金持ちの家の子が、ふとった色黒のかわいらしい男の子だったけれど、制服の肩のところが破けてて、それを繕った跡がしっかり残ったものを着ていたことかな。お金持ちなら、さらのものを買えばいいのになあと思ったことを憶えている。ぼくが授業中にしんどそうにしていると、だいじょうぶかと声をかけてきてくれて、先生にことわって、保健室まで連れて行ってくれたことを思い出す。気のやさしい男の子だった。いまごろどうしてるだろうか。
二〇二〇年三月十日 「短詩」
「さあさ、これからお別れパーティーをしましょう。あなたたちがこの屋敷に来て、4年がたちましたのよ。そのあいだに、いろいろなことがありましたわ。でも、なんといっても、小林さんの失踪は驚きでしたわ。この場にいらっしゃらないのが残念だわ」ドーン「だれ、いま足を踏み鳴らしたのは?」
二〇二〇年三月十一日 「一本糞」
「一本糞」というのがあって、うんこが途中で途切れずに一本の棒状となって出てくるうんこのことなんだけれど、キングオブコメディの高橋健一が「一本糞」を出した日には健康だという証拠だと言っていた。ぼくも、「一本糞」をすることがあって、たしかに、そんな気がしていた。しかし、ときどき、非常に硬いうんこをすることがあって、そんなときには、一本じゃなくて、硬いのがいくつかボロボロっと出るって感じなのだけれど、そんな日も体調がいいような気がする。痛いけどね。お尻の穴。体調が悪いような気がするのは、やっぱり、柔らかいうんこ、液状に近いときは、身体の調子が悪いと思うことが多い。うんこで、体調がわかるね。幼稚園くらいのときの思い出なんだけど、うんこが硬くてなかなか出ないときに、お尻の穴がめっちゃ痛かった記憶がある。幼稚園くらいのときの記憶って数少ないのに、こんなのが貴重な記憶のひとつとなっているのであった。
二〇二〇年三月十二日 「鶏の首を切り落とすおばあちゃん」
ぼくがまだ、3歳か4歳くらいのときのおばあちゃんの思い出のひとつに、土間の台所で、鶏の首を包丁でゴツンッと切り落とすところを見たことがある。普段やさしいおばあちゃんが怖かった。なんちゅうことをするんやろうかと思ったのであった。焼き物も七輪とかいうものを使っていた時代の話だ。あとで知ったのだが、ぼくが成人してから知ったのだが、おばあちゃんはまだ女性の職業進出が少なかった当時にあって、料理人さんだったらしい。そら、鶏の首も切り落とせるわな。
二〇二〇年三月十三日 「ビッグボーイ」
河原町三条を2筋下がったところに、ビッグボーイがあった。地下一階の広いスペースのジャズ喫茶だった。学生時代には、毎日のように通っていた。友だちといっしょに、よく待ち合わせをした。大きな白いコーヒーカップでホットを飲んでいた。店は客のリクエストにも応えてくれた。学生時代には知らなかったのだけれど、いまから40年ほどむかしのことだよ。携帯電話もパソコンもなかった時代だ。出会い系のアプリがいくつもある。ある日、ビッグボーイのことがゲイ雑誌の小説に載っているのを見つけた。そうか。それで、不釣り合いなふたり組の男がビッグボーイにいることがあったのだと思った。体育会系の学生らしき青年と、中年の背広姿。当時は、ゲイとゲイが出会うには、ゲイバーに行くか、発展場と呼ばれるゲイ・サウナに行くか、ポルノ映画館に行くか、ゲイ雑誌の文通欄で知り合うしか方法がなかった。ビッグボーイもそういう文通欄で知り合った男同士が出会う場所のひとつだったのだなと思った。ビッグボーイのことはときどきゲイ雑誌に出てきていたから、当時は、相当の数のゲイが利用していたのだろうと思う。出会いの場所として。そんなことは後になって知ったことで、学生時代にはまったく知らないことだった。純粋にジャズとコーヒーと友だちとの会話を楽しむ場所として、ビッグボーイに通っていた。
二〇二〇年三月十四日 「ボマルツォ公の回想」
『ボマルツォ公の回想』を読み終わった。いままでに読んだ本のなかで、もっとも読みにくかったものだ。固有名詞の渦に飲み込まれながら読んだ。苦痛だったが、中断したくはなかった。上下二段組の600ページの大冊であった。おもしろかったかと聞かれれば、おもしろかったと答えるかもしれない。
二〇二〇年三月十五日 「断章」
「ぼくは親密な関係が好きです」
「好きでない人がいる? それが好きでない人がどこかにいる? でも、Rの字のつく月には、所有をともなわない愛のことを語りたくなる。それが人間関係でいちばん苦痛な種類なの。短期滞在渡り鳥歓迎。刺激的で、かつ腹立たしい。最終的行為だけど、所有はしない。まあ、ひとつの教訓だと思ってよ、ノースさん。それは別離の教訓をよみがえらせてくれる。冬の肉体の魔法を思いださせてくれる。融合と非融合。おまけにそれは春の恐ろしい欲望に対する免疫までこしらえてくれる。」
これだけの言葉を一気にまくしたてた彼女は、いまにも減圧で破裂しそうだった。
「ぼくは哲学者じゃないですから」
「哲学は舌の先にあるのよ。それと、腰のくびれや、耳のうしろや、両脚が胴体とつながる部分や、太腿の内側や、膝のうしろや、山の頂上や、谷間に。非武装地帯に」
(ハーヴェイ・ジェイコブズ『グラックの卵』朝倉久志訳)
二〇二〇年三月十六日 「断章」
友人というものは友人に対して、いつだって武器をもたず、胸の前に槍を構えたり、心臓の前に胸当をつけたりしないよ。友を信じている者は無防備なんだよ。
(テア・フォン・ハルボウ『メトロポリス』12、前川道介訳)
二〇二〇年三月十七日 「建仁寺」
幼いときには建仁寺が遊び場だった。といっても小学生低学年くらいまでだったと思うが。池ではザリガニ捕りをしたり、児童公園では紙芝居をよく見ていた。紙芝居のおじさんが売っていた水あめやせんべいを梅の味のするものに挟んだやつとか、あと型抜きというのもあったかな。型抜きはできたら、またもう一回やらせてもらえるという話だったけど、あるいは景品がつくという話だったけど、いつも失敗して、成功したことが一度もなかった。49数年まえの話だ。懐かしいなあ。その建仁寺も、いまでは池に入るのもダメ、球技をするのもダメのダメダメ尽くしである。遊ぶ子どもも減っているのだろうな。そりゃ、池には自転車が捨てられたりしてたもの、当たりまえか。
二〇二〇年三月十八日 「はじめて味わった理不尽さ」
その建仁寺の児童公園で遊んでいたときのことだ。いつもいっしょに遊んでくれていた2つくらい年上のお兄さんがいて、ブランコに乗っていたときのことだ。血はつながっていない近所のお兄さんだけどね。そのお兄さんより年上のやつが、ぼくのお兄さんのことを睨みつけ、急にはったおしたのだった。ぼくのお兄さんは口を切ったみたいで血を出していたけれど反抗しなかった。ぼくはなにもできなかった。このときに、言葉は知らなかったけれど、理不尽というものをはじめて知ったように思う。
二〇二〇年三月十九日 「レイモンド・ラブロック」
父親は趣味人で、寝室に、1メートル×2メートルくらいの映画のスティール写真をパネルにして飾っていた。たしか、レイモンド・ラブロックとかいう名前の俳優の半裸写真だったと思う。訊くと、フランス映画の「化石の森」とかいう映画の一場面だそうだった。ふたりの青年とひとりの女性の同棲生活を描いたものだったらしい。わざわざ写真館に頼んでつくらせたのだという。そういえば、父親は靴もオーダーメイドのものを履いていた。
二〇二〇年三月二十日 「父親への恨み」
父親には恨みがいっぱいあるけれど、そのひとつに、ぼくが小学校の4年か5年のときに、スイカを持たされてバスに乗っていたのだが、バスの揺れが激しくて、持っていたスイカを落として割ってしまったのだった。めちゃくちゃ叱られたのだけれど、自分は荷物を持たずに幼い子どもに重たいスイカを持たすほうが間違っているだろうと思うのだが、幼いときには父親は怖かったので、叱られるままだった。これも理不尽だな。
二〇二〇年三月二十一日 「丸物怖い」
京都駅周辺もだいぶ様変わりしている。むかし、京都駅のそばに「丸物デパート」というのがあって、親によく連れて行ってもらった。今のビッグカメラのところだろうか。最上階の食堂でお子様ランチを食べるのが定番だった。ある日、ウェイトレスさんが飲み物や料理の皿を載せた盆を持ったまま食堂の中央でこけて血まみれになったことがある。救急車まできて、大騒ぎだった。それ以来、ぼくは丸物に行くのが怖かったのだが、後年、大人になって母親に尋ねたら、そんなことは一度もなかったという。ぼくの偽の記憶はなんだったんだろう。謎だ。
二〇二〇年三月二十二日 「お使いが嫌だった」
そういえば、祇園に住んでたとき、古川町の商店街によく買い物に行かされたのだが、お使いがいやだったので見たのだろうが、古川町の横を流れる白川橋のところにある大きな岩にフナ虫みたいなものがびっしりまとわりついていたのを目にしたことがある。これなんかは、お使いが嫌で見た幻覚だったのだろうね、きっと。
二〇二〇年三月二十三日 「箴言」
自己を否定することができる者だけが、他者を否定することができる。
二〇二〇年三月二十四日 「ほやと豚の耳のハム」
ほやというものを一度だけ食べたことがある。生臭くて、一口、というか、ひとなめで食べるのをやめたけど、北山に住んでいるときに、畑の真ん中でやっていたおしゃれな居酒屋さんで、隣の席のひとが頼んでいて、おいしそうにしていたからジミーちゃんといっしょに、こちらも注文しようということになって頼んだけど、完全に失敗だった。そういえば、隣でおいしそうに食べているからっていって、こちらも注文して失敗した経験がもう一度あった。これまた、ジミーちゃんといっしょに行った北山のフィリピン料理屋の店で、隣の席に坐っていたカップルが豚の耳のハムを注文したので、めずらしいので、ぼくらも注文したのだが、出てきたシロモノの臭さといったら、ほかに比べるものがないくらいひどくて形容の仕方もないぐらいに臭くて、けっきょくジミーちゃんも、ぼくも食べずに店を出たと記憶している。ほやは生臭かったと、まだ形容できる。豚の耳のハムはなんとも形容の仕方がないシロモノだった。
二〇二〇年三月二十五日 「子どもって残酷だね」
子どもって残酷だね。いや、ぼくが残酷だってだけの話なんだけど、子どものころ、まだ小学生の低学年だったと思うけれど、大谷さん(うちの墓があるところね。)に行く途中、顔がやけどかなんかで醜くなっていた女性が二人連れで歩いていたのを見て、「あ、お岩さんだ。お岩さんだ。」と弟たちとはやしまくって追いかけたことがある。これまた幼いときのことだけど、家にきていたあんまのおじさんには、親のいないところで、「めくらのおじさん、めくら、めくら。」と言ってからかったことがあった。いまのぼくには考えられないけれど、常識を身につけていないガキんちょのぼくは、バカだった。人でなしだった。いくらむかしのこととはいえ、反省しきれないことをしていたのだなあと思う。こころない人でなしだった。
二〇二〇年三月二十六日 「考察」
ぼくがなにかを考えているときって、同時に何人かのぼくが考えてて、その考えを頭のなかで述べ合ってるって感じかな。みんなもそうなのかもしれないけれど。
二〇二〇年三月二十七日 「断章」
神と出逢ったらどうなるか? おまえにわかるかね?
(フィリップ・K・ディック&ロジャー・ゼラズニイ『怒りの神』10、仁賀克雄訳)
二〇二〇年三月二十八日 「断章」
ガスは考えた──あとどれくらいしたら、ハルジーは、自分が自分に仕掛けた罠に気づくだろうか?
(アルジス・バドリス『隠れ家』朝倉久志訳)
二〇二〇年三月二十九日 「短詩」
棒も歩けば犬にあたる。
二〇二〇年三月三十日 「あいちトリエンナーレ・表現の不自由展・その後」
天皇の燃える肖像写真、美しい映像だと、ぼくには思われましたがね。美的センスの違いでしょう。
二〇二〇年三月三十一日 「詩人なんて乞食だ」
詩人なんて乞食だと、むかしのぼくは思っていましたが、ぼくは自費出版に1500万円以上出しました。乞食ではないですね。