田崎さんちの牛
ちぇりこ。

ぼくの通う小学校の通学路沿いには
数件の農家がぽつぽつと建っていた
集落は、山々で挟まれており
ど真ん中を貫く小さな川の出口には
海が広がっている
山の麓の、あまり面積の広くない田畑に
寄り添うように建っている農家
その内の一軒は、田崎さんという家だった
毎朝の通学時、この春小学校の一年に上がったばかりのぼくは
いつも田崎さんちの前で竦んでいた
田崎さんちの玄関に続く細い通路の先から
毎朝、地の底から噴き出してくるような声
声と言うよりも質量の塊のようなその音に
ぼくは動けなくされていた

「田崎さんとこ、牛がおるけぇね」

口数の少ない最上級生の男子に手を引かれ
ぼくは通学を促される
牛、牛というものが、ぼくの生活圏内に存在しているなんて
恐れより好奇心が勝ってしまったぼくは
放課後、近所の仲の良い上級生のお兄さんにせがんで牛を見にゆく
細長い通路を進んで田崎さんちの、玄関の前を通り過ぎる
突然開けた空間に古びた小屋が建っている
入口は開け放たれていて中は見えない
真空の闇が広がっているように見える
呆然と立ち竦むぼくを

「はよう来い」

お兄さんは小屋の入口で手招きをする
小屋に入ると
やはり真空の闇空間がぼくにまとわりついて
何も見えない
と同時に初めて嗅ぐ、怒涛の獣臭にぼくは圧倒される
徐々に暗闇にも眼が慣れてきたぼくの眼前
いや、見上げる視線の先に、牛
柔らかい泥土の丘がせりあがったような巨大な体躯
黒い大きな瞳は光を映さないガラス玉のようで
金属の輪が鼻を貫通している
ゆっくりと左右に振られる顔の先から
バスタオルをぎゅっ、と搾ったような大きな舌が器用に動いている
その舌先に、丁度ぼくの頭がある
はたして、ぼくの頭は
赤白帽子が変色する程、絡め取られるように舐め回され続けた
呆れたように笑う、お兄さんの声が遠くから聴こえてくる
頭の中でぐわんぐわん反響する
ぼくは、宇宙空間にただ一人
放り出された小さな芥なのだろう

「子牛おったら良かったのう、可愛いけぇね」

お兄さんの言葉はもう、宇宙言語にしか聴こえない
どうやって家に帰ったのか、記憶がない
溢れる獣臭に塗れたぼくを、気にもとめない母に

「おかえり」

と言われて、ぼくは日常に帰還した

それからは足繁く牛の元に通った
すっかり慣れたぼくは、牛を見る
牛もぼくを見る
鼻先に手を伸ばす、怒涛の涎が降り注ぐ
ぼくは喜んでその涎を
司祭から施される聖杯を受けとるように
跪き、享受する異教徒なのだ
そんなある日
いつものように牛に会いにゆくと
細長い通路に田崎さんが立っていた

「もう来ちゃいけんよ、牛が煩そうなるけぇね」

そう言って田崎さんは踵を返して玄関に向かう
ぼくは大きくゆっくり揺れる田崎さんの背中を見ていた
田崎さんの背中越しに、牛を見ていた
田崎さんは牛の言葉がわかるのだろう

(もう、これからは来ないでくれないか)

牛に、そう別れを告げられた気がして
ぼくは玄関に消えてしまった田崎さんの背中を
ずっと見ているしかなかった

ぼくの生活圏内から
牛は忽然と姿を消した
見上げるほど大きな存在なんて
見知った大人たちしか知らなかった
ぼくは
牛に会って初めて
生きものに成れたような気がする





自由詩 田崎さんちの牛 Copyright ちぇりこ。 2022-03-15 09:09:36
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