読書における娯楽性と読破という苦痛について
山人

 今年の冬は暇な時間が多くあり、読書に勤しんだ。本来、読書は楽しむものであり、勤しむものではないだろう。
 平井図書館長は本好きであると紹介させていただいたが、繰り返し少々彼を紹介する。図書館長というのはもちろんジョークなのだが、とにかく本好きでかつては高速バスで新潟の山村から東京の古本屋に仕入れに出かけたのである。今ではアマゾンなどが普及し宅配で取り寄せているようだが、欲しい本があれば遠出も厭わないようだ。また、読むこと自体も病的に好きで、山林作業の昼休憩ですらもガスコンロで湯を沸かし、インスタントコーヒーを飲みながら尻シートを敷き読書にふけるのである。見ていると眠気に耐えつつ読書をしているようで、悲壮感すら漂っているという始末である。そんな平井氏は小説のみならず随筆などもよく読んでいるようである。
 私と言えば、本嫌いではないが飽きっぽい。なので基本、娯楽小説的なものばかり読んでいた。
 高校生の頃は青春小説(石坂洋二郎)みたいなものを好み、その後は川上宗薫や宇能鴻一郎といったいわゆるロマンポルノジャンルを好んで愛読し、自らも楽しむために途中まで同じような筆致で書いたこともある。その後、だいぶ本離れが続いたが、妻が長男を出産しに実家に帰ったころ、妻の実家で西村寿行の本はほぼ読破した。ジャンル的にはハードロマンみたいなものだったのだろうか。実猟を始めた頃でもあったので、大藪春彦なども読んだ。西村寿行はハードロマンでもありハードバイオレンスでもあったので、常に凌辱などの描写が多かったためか、読むごとにマンネリ化も感じてはいたが、社会への警鐘的なジャンルも多々あり、面白く読んだ。西村寿行以降は同じ西村姓の西村京太郎をよく読んだが、○○殺人事件といったタイトルは好まず、初期の頃の「消えたタンカー」などが好きであった。その後は森村誠一に傾倒した。彼の前身はホテルマンであり、ホテル業界をモチーフにしたものから、政治的な陰謀をテーマにしたものや、とくに山岳技術に長けていたということもあり、山岳小説もかなり手掛けていた。ただ、森村誠一や西村京太郎はシリーズものが多かったようだが、そう言うジャンルまで嵌るということはなかった。
 他もいろいろ読んだが、ほぼ、本屋さんで見出し文を読んで決めたものが多く、作家についてはあまり覚えていないが、割と集中的に好んで読んだのは、東野圭吾あたりであろうか。重松清などもそこそこ読んだ気がする。
 肌が合わない作家というのも多くいる。浅田次郎などがそれに近いが、作家自身の育ちの良さみたいなものが文面に出てしまっているというものである。つまり、そういった同類の匂いではなく、どこか何段か高いところに生き、生活しているという雰囲気みたいなものを感じてしまうのである。肌が合わないだろうな、と興味本位で買ったものに、かの有名な村上春樹がいる。二冊ほどしか未だ読めていないが、詩的でありつつ、ストーリー性もありおもしろかった。ただ、あまり感化されるのは良くない気がする。
 純文学という定義はなんだろうとウイキペディアを調べてみた。ウィキでは「大衆小説に対して「娯楽性」よりも「芸術性」に重きを置いている小説を総称する」と定義されているようである。今まで私は、そう言う系は苦手で、もっぱら共有できる見出し文などを見て買うことが多かった。ただ、この冬は暇を持て余すことが多いと平井氏に言われ、読書青年となることを決意した冬でもあったのである。もちろん、純文学というジャンルにこだわらず、娯楽作品も挟みつつ、エッセイや小難しい本なども含め、読破を目標に臨んだ。
 前出の村上春樹は純文学だろうと思うが、それはそこそこ読めたのだが、秋ごろに泣く泣く読破した三島由紀夫の「男色」はきつかった。何回か投げ出そうと思ったのだが、ついに読破した。内容は、そこそこ記憶に残ってはいるから、印象的だったのかもしれない。今まで純文学に触れたことがなかったので免疫ができていなかったというのもあるだろう、おそらく。第一、男色という世界観からして別世界のものであるのだから、そこの踏みだしの部分での差異というのがあったのだ。
 いよいよ冬となり、無人駅勤務が始まって直ぐ新田次郎に取り掛かった。新田次郎はウイキペディアの純文学ジャンルには入ってはいなかったが、時代背景は明治や大正の実録的な話だったので、自分的には芸術性はもとよりノンフィクション小説としての価値は高く、かなり印象に残っている。映画化された日本陸地測量部の実録である、「劒岳・点の記」や、富士山気象観測に尽くした野中到夫妻の「芙蓉の人」など迫真に迫るものであった。新田は役所勤務が前身であったようで、作家としてはあまり評価されていないようではあるが、描写も上手いし骨太の文体は好きである。 
 文豪と呼ばれた夏目漱石の「こころ」は描いていたイメージと大きく違っていた。柔和な印象の夏目の外観を、文体にもイメージしていたのだが、まったく別ものであった。繊細というか、内面的であり、ストーリー性はあるものの、陰湿なイメージに終始支配された。次に有名どころとして、太宰治の一連の短編集を数冊読んだ。印象は、自分語りの極致であろうか。「走れメロス」は大変力強い文体ではあったが。芥川龍之介の「芋粥」などは、昔教科書か何かで見た記憶はあったが、内容はからきし記憶になかった。夏目漱石にしろ、芥川龍之介、太宰治らも文体は何しろ現在使用されない単語がガラガラ出てきて、後尾にその説明が一覧されているが、それがかったるく気持ちが削がれることしきりであった。この三作家の自分が読んだ作品についてのみ言えば、ストーリー性はあまり感じられなかった。今後別の作品を読んだり、読んだものを読み返すことにより味わいが生まれるのであろうが、いまひとつ自分的にはインパクトに欠けるものではあった気がする。
 有名な川端康成の「雪国」はするする読めた。さしたる展開もないのにこれだけ読ませるのは女性描写が見事なのだろうと思う。これは前出の作家にも言えることだが、女性の表わし方がうまいようである。一方の語り手の「私」「僕」「先生」など、人物像についての具体性がことごとくされていないというのも不思議な手法である。
 実は詩集もそこそこ読んだ。谷川俊太郎は詩集ではなく、谷川氏の作品群の批評論集や対談集二冊を読んだ。この評論集読破もきつい修行のような読書であった。なにしろ和製英語のようなものがバシバシ出てくるのであるから、その意味を調べながら読み進めるという段取りで、時間もかかった。結果として脳内に何か残っているかと言えばどうなのだろう、あまり印象はない。詩集としては、一般人が出した詩集数冊と川口晴美の「やわらかい檻」、田村隆一、宮沢賢治程度であるが、一読でしかないので、ああ、すごいなという印象程度のものである。ただしかし、詩人は小説家よりは不利だなと思う。
 小説の楽しさというのは、もちろんストーリーの展開もそうだが、設定された時代時代に浸ることができるという点にあると思う。「宮本武蔵」を読めば戦国時代へ飛び、「峠」を読めば、幕末の混沌とした時代への生き急ぎを体感でき、現代へのはざかいの明治大正の身分の違いによる生活など。現代においても、携帯のない時代背景や新幹線高速がまだ完全普及していなかった時代など、さまざまな時代背景を疑似的に体感できるのである。
 つまらない小説に触れることもまた別の楽しさもある。いわゆるツッコミどころである。「ありえんだろう、実際!」というものから、森村ワールド(森村は好きではあるが…)に見られる、まったく別の人々がそれぞれに物語を展開し、それが平行移動し最後にすべてが交わるというスタイル。あるいは、何人殺せば気が済むんだろう、的なスタンス。あと、いちいち小説内での人々が長ーーい会話を延々と続けるという場面。つまるところ、信憑性があまり感じられないのは少し興ざめしてしまう。
 ただ、暇であればやはり読破するというのが大切であろうと私は思うのである。面白くないなぁ〜と思いつつ、最後に解説を読んでみると、解説文もまたただ書いた感満載なんて言うのもあるし、田村隆一の詩集の解説文なんかは、とてつもなく小難しいものであったりと。いずれにしても、本は書き手がいて、これは面白いはずと思って書き進めるのであるから、書き手の身になって読んでみることも読み手の重要な仕事ではないだろうかと思うのである。


散文(批評随筆小説等) 読書における娯楽性と読破という苦痛について Copyright 山人 2022-03-14 08:48:28
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