詩の日めくり 二〇一九年八月一日─三十一日
田中宏輔

二〇一九年八月一日 「人生は物語って、よく言うけど」


物語を白紙にしていく作業が
ほんとうの人生なのかも
って思った。
さっき、マイミクのコメントを読んで
ふと、そう思った。
ひとりひとり
その物語の消し方が違うから
異なる生き方だってことね。
幸せが好きじゃないひとっているんだよね。
ぼくもそうだし
たぶん、エイジくんもそうだったと思う。
百億の嘘と千億のもしも、もしもで
いっぱい。


二〇一九年八月二日 「ヤリタミサコさん」


 ヤリタミサコさんから、詩集『月の骨/向う見ずの女のバラッド』を送っていただいた。親しくしていただいている方の言葉だ。読みながらも、いろいろな想像をしてしまう。おもしろい。


二〇一九年八月三日 「雨の日を選んできていた。」


はじめて会ったのが雨の日だったから。
つねに知っていること以上のことを
あとで知ることになるぼくだった。
また会ったら、そう言おうと思っていた。
でも、まだ会えていないのだった。
雨の日を選んできていた。
ああ、なんだか、この一行が愛おしい。
ぼくの性格が出ているから?
たぶん。
雨の日を選んできていた。
ずっと。


二〇一九年八月四日 「意味」


音には意味がない。
なぜメロディーやリズムとなると
情感を催させるのか。

色にも形にも本来は意味がないのに
なぜ絵画や彫刻に
こころ動かされるのか。

なぜ言葉には意味が与えられたのだろうか。
意味には言葉が必要だったのだろうか。

人間には意味が必要だからかもしれない。
それは、おそらく人間自身が意味だからであろうけれど。

はたして、人間が意味を求めているのだろうか
意味が人間を求めているのだろうか

それとも、ただ単に意味が意味を求めているのだろうか
人間が人間を求めているのだろうか

意味が意味を知る
意味が人間を知る
人間が意味を知る
人間が人間を知る

意味が意味を通じて意味を知る
意味が意味を通じて人間を知る
意味が人間を通じて意味を知る
意味が人間を通じて人間を知る
人間が意味を通じて意味を知る
人間が意味を通じて人間を知る
人間が人間を通じて意味を知る
人間が人間を通じて人間を知る


二〇一九年八月五日 「意味を吟味すること」


詩人のうち、いくらかは意味を吟味することで人間を知ろうとする
詩人のうち、いくらかは人間を吟味することで意味を知ろうとする
詩人のうち、いくらかは意味を吟味することで意味を知ろうとする
詩人のうち、いくらかは人間を吟味することで人間を知ろうとする

詩人のうち、いくらかは意味を吟味することなく人間を知ろうとする
詩人のうち、いくらかは人間を吟味することなく意味を知ろうとする
詩人のうち、いくらかは意味を吟味することなく意味を知ろうとする
詩人のうち、いくらかは人間を吟味することなく人間を知ろうとする

詩人のうち、いくらかは意味を吟味することもなく人間を知ろうともしない
詩人のうち、いくらかは人間を吟味することもなく意味を知ろうともしない
詩人のうち、いくらかは意味を吟味することもなく意味を知ろうともしない
詩人のうち、いくらかは人間を吟味することもなく人間を知ろうともしない

わたしは、これらのうちの、どの詩人なのだろうか

意味を吟味することで意味を知ることは
人間を吟味して人間を知ることとは違うような気がするが
もしかすると、それほど違うものではないものかもしれない。

人間を吟味することで意味を知ることと
意味を吟味することで人間を知ることとの違いは微妙な気がするが
ひょっとすると、まったく違うことかもしれない。

しかし、いずれにせよ、芸術とは吟味すること
詩とは吟味することなのだ。

吟味することは時間をかけることではないが
時間が吟味させるものではある。

時間が吟味させる
場所が吟味させる
出来事が吟味させる

これは怖いことである。

詩は
詩人は
時間に吟味され
場所に吟味され
出来事に吟味されるのだ。


二〇一九年八月六日 「夢」


地面、鳥、歌声。


二〇一九年八月七日 「ぼくが歩いていると」


これって
生まれてはじめての経験かも。
ぼくが歩いていると
後ろから歩いてきたひとがみんな
ぼくを横切って
ぼくの前を歩いてった。
なんだか
ぼくが後ろに
ゆっくりとさがっていってるような
そんな気もした。
なにもかもが
ゆっくり。

ぼくが見上げた空は
たしかにいつもよりゆっくりと
風景を変えていった

いつもより
たくさんのものに目がとまった
田んぼの周りに生えている雑草やゴミ
通り道にあった喫茶店のドアに張られたメニューのコピー
歩道橋の手すりについた、まだらになった埃
これって、きっと雨のせいだろうね。
ぼくは何度も
その埃が手のひらにくっついたかどうか
見た。
埃はしっかり、銀色に光った鋼鉄製の手すりにこびりついていて
(ステンレススティールだと思うけど、違うかな?)
ぼくの手のひらは、ぜんぜんきれいだった。


二〇一九年八月八日 「ル・マンド」


電車を乗り換えるとき
食べようと思って
ル・マンドというお菓子をリュックから出したら
そのお菓子を買ったときの領収書が道に落ちたので
拾おうとして、しゃがみかけたら
学生服姿の高校生の二人組のうちの一人が
さっと拾い上げて、ぼくに手渡してくれた。
ぼくの足が不自由だと思ったからだと思う。
人間のやさしさって
感じる機会ってあんまりなくって
あんまりなかったから
電車の扉がしまってからでも
その高校生たちの後ろ姿を
見えなくなるまで
ぼくの目は追っていた。


二〇一九年八月九日 「坂多瑩子さん」


 坂多瑩子さんから、詩集『さんぽさんぽ』を送っていただいた。おいくつくらいの方なんだろう。読みやすくて、わかりやすくて、とても好感の持てる詩がつづいて収録されていた。

 きょうから、寝るまえの読書は、エラリー・クイーン編の『ミニ・ミステリ傑作選』だ。むかし、といっても10年か20年くらいまえだけれど、読んだものだけれど、どんなのが載ってるのか楽しみ。


二〇一九年八月十日 「高柳 誠さん」


 高柳 誠さんから、詩集『無垢なる夏を暗殺するために』を送っていただいた。一篇をのぞいて、すべて散文詩である。しかも、すべての詩篇が「無垢なる夏を暗殺するために」を第一行とする。しかし、なんとも旺盛な作詩力に驚かされる。


二〇一九年八月十一日 「スニッカーズ」


日知庵の帰り
セブンイレブンで
大好きなスニッカーズを買って
帰りしな
ドアのところで
すれ違った青年が
中国人青年そっくりだったので
びっくりしたら
その子が、ぼくとすれ違う時に
にっこりしてくれたので
びっくりした。
ドキドキした。
はずかしくて、振り返りもしなかったけど
きょう、夢で出てくれたら、めっちゃうれしい。
涙が出てきそうやった。


二〇一九年八月十二日 「学科」


幸福の幾何学
倫理代数学
匿名歴史学
抒情保健体育
愛憎化学
錯覚地理
電気国語
苦悩美術
翻訳家庭科
冥福物理
最善地学
誰に外国語
摩擦哲学
無為技術
戦死美術
被爆音楽
擬似工作
微塵哲学
足の指天文学
虐待化学
超音波国語
暗闇体育
軽視哲学
自爆技術
奴隷美術
吐く地学
白痴学
顔面地理学
踏み絵保健体育
無言哲学
深夜地理
死亡生物学
忘恩倫理学
異常医学
白痴幾何学
高学歴地理
低所得者保健体育
踏み絵生物学
痛い化学
むごい芸術学
ひどい文学
よそ様哲学
モロだし幾何学
はみチン哲学
土人の家庭科
マクドナルドの土木建築
日本外交のお習字
無効哲学
向こう哲学
無光哲学
剝こう哲学
ふんどし家庭科
トップレス経済学
はみだし製図学
生乾き美術
なまはげ音楽
メリーゴーランド脱毛学


二〇一九年八月十三日 「民主主義。」


ひざまずくホッチキス。
不機嫌なビー玉。
気合いの入った無関係。
好きになれない壁際。
不器用な快楽。
霧雨の留守電。
趣味の書類。
率直な歩道橋。
寝る前の雑草。
気づまりな三面鏡。
粒立ちの苛立ち。
無制限の口紅。
時間につけるクスリ。
世界が、そこでけつまずく。


二〇一九年八月十四日 「野村喜和夫さん」


 野村喜和夫さんから、詩論集『危機を生きる言葉─2010年代現代詩クロニクル』を送っていただいた。ぼくの詩集『ゲイ・ポエムズ』、『LGBTIQの詩人たちの英詩翻訳』(ともに思潮社オンデマンド)を紹介してくださっている。取り上げられている詩人は、百人を超えるのではないだろうか。膨大な数だ。


二〇一九年八月十五日 「だれもが一度は考えること。」


証拠より論。
へそから上の領分には、宗教も真実もある。
悪意の行き過ぎほど安全なものはない。
金銭は人の尊敬よりも確かな財産である。
恥ずかしいと思うことは恥ずかしがって言うべきだ。
我がふり見て人のふり直せ。
力のない無力は無であり、無のない無力は力である。
けなす非難もあれば、ほめる賞賛もある。
あって一癖。
淫して楽しまず。
一方美人。
鳴らねば打たぬ。
皿を食らわば毒まで。
蛇藪。(蛇から藪が出てくるのよ。)
仇を恩で返す。
あらゆる善いことをした人でも、わたしに悪いことをした人は悪人である。
生きているライオンは、死んだ犬にまさる。
袈裟が憎けりゃ坊主も憎い。
船多くして船頭山に登る。
薬につける阿呆がいる。
味方の味方は敵だ。
大事が辛抱。
貧乏人でさえ、友人はおぞましい。
所が同じなら、品も同じ。
棒から藪。
柱の家は息子たちである。
恋は常に有益であるが、友情は時には害である。
自分を好きたいなら人を忘れよ。
憎しみ多ければ愛に至る。
憎さ余って可愛さ百倍。
曲者の恋。
輪の知恵。
念仏の耳に馬。
金棒の鬼。
例外の規則。


二〇一九年八月十六日 「薮下明博さん」


 薮下明博さんから、詩集『死の幻像』を送っていただいた。わかりやすくて、読みやすい作品ばかりだった。ぼくよりおとしを召していらっしゃるのかどうかなと思われたのだけれど、じっさいはどうなのだろうか。


二〇一九年八月十七日 「最初の接触」


 伊藤典夫翻訳SF傑作選『最初の接触』をジュンク堂で買ってきた。タイトル作が、ぼくの持ってる『世界SF全集』第32巻に入ってる作品だったから、出てすぐに買わなかったけれど、ハヤカワ文庫のトールドサイズの文字は読みやすいから、いいかなと思って買った。きょうから、これを寝るまえの読書にする。


二〇一九年八月十八日 「考察」


 徹夜してしまった。塾の生徒に読んでみてと言われて、その小説を読んだ。気分が悪くなった。悪意しか持たない人間がたくさん出てくる。現実とはあまりに違う感じがした。それとも現代においては、青年たちの感性は、悪意しか読みとれないものになっているのだろうか。悪意というよりは、自己本位性といってもいいかもしれない。もちろん、第一に自分のことを考えるものだろう。とりわけ自意識の高い人間は。自尊心の強い人間は、と言い換えてもよい。しかし、徳性といったものも、人間は持ち合わせているのだが、それが欠如しているのだ。キツネ狩りが貴族のスポーツであると本に書いてあって、それについて、長いあいだ疑問に思っていた。徳性がまったく感じられないのだ。人間同士がキツネ狩りをし合っているような小説だった。いま、P・D・ジェイムズを読みつづけている。人間が人間に対して残酷である事実を描いている。しかし、ジェイムズの小説には、人間が人間に残酷であると同時に、他者に情けをかけてやることができる動物であることをも、きちんと描き出しているのだった。生徒に、いきなりP・D・ジェイムズを読むように言うのはやめておこう。ある程度の生活年齢を過ぎていないと理解できないだろうから。 ジャック・ヴァンスの魔王子シリーズの最終巻は、シェイクスピアの『オセロウ』に匹敵するぐらいの名作であった。P・D・ジェイムズを読んでいて、しばしば、シェイクスピアの悲劇が思い出された。どこが共通しているのだろう。ああ、わかった。人間の魂の二重性である。『オセロウ』に出てくるイアーゴウにさえ、ぼくは人間の持つ厚みを感じるのだが、それは、シェイクスピアが巧みに、読み手であるぼくが感情移入できるように場面を配し、状況をつくりあげていく力があるからなのだろうけれど、読み手にも、それを受け取れる能力が必要であろう。魂の二重性、あるいは多重性は、ぼく自身が長いあいだ追及していたモチーフだけれど、人間のこころがいかに複雑なものであるかを知るには、やはり現実の生活年齢がある程度は必要であると思われる。ぼくは、あまり頭の出来がよくなかったから、30歳を過ぎてからだった。10代、20代は、SFやミステリーばかり読んでいた。純文学を読み出したのは、20代の半ばで、純文学はそれ以降だった。しかし、それでよかったと思う。おもしろいのだから。高校のときに読んだことがあったが、人間のことをあまり知らなかったので、よくわからなかった。よくわからないものは、おもしろくなかった。あたりまえか。そうだ。わからないし、おもしろくなかったのだ。うん? わからなくてもおもしろいものはあるのだろうか。あるか。パウンドのピサ詩篇、知らないことがいっぱい出てくるけど、おもしろかった。知らないと、わからないは違うか。知らないことが書いてあっても、おもしろいのだから、知らないことと、わからないことは違うか。違うね。エリオットの『荒地』なんか、笑ってしまったものね。そういえば、このあいだ、岩波文庫から出たエリオットの詩集、ひさしぶりにエリオット読み直して、やっぱり笑ってしまったものね。あ、知らないことと、わからないことが違うって知れてよかった。わからないとおもしろくないけれど、知らないことがあってもおもしろいものはあるってことからね。引用だけで作品をつくってたとき、すごく反発するひとがいたけど、知らないことにコンプレックスがあったんだろうね。人によって読んでるものが違ってるんだし、自分が知らないことを人が知っててもあたりまえなのにね。ぼくなんか、人がぼくの知らないこと知ってて、当たり前だと思ってるし、そんなことコンプレックスに思わないんだけどね。P・D・ジェイムズの『神学校の死』、つづきでも読もう。まだ5分の1。92ページ。寝ちゃうかもしれないけれど。何日か前、本を投げ出して寝てた、笑。


二〇一九年八月十九日 「柴田 望さん」


 柴田 望さんから、詩誌『フラジゃイル』第六号を送っていただいた。いまぼくはとても疲れていて、書くという行為から離れているのだけれど、書いてる方の熱量には驚かされる。読む行為だけでも疲れる体質になってしまい、文学から遠ざかっている自分を不思議な気分で見ている。むかしは違ってたのに。


二〇一九年八月二十日 「考察」


正しい現実は、どこにあるのか。記憶を正すのも記憶なのか。


二〇一九年八月二十一日 「呻吟」


文学極道に投稿していた詩を何度も読み直していた。
もう、何十回も読み直していたものなのだが。


二〇一九年八月二十二日 「詩論」


それは、言葉ではなく、言葉と言葉をつなぐもののなかに吸収されていった。


二〇一九年八月二十三日 「断片」


 彼は、まだ、わたしのなかに、わたしの喜びと悲しみのなかに存在していたのであった。


二〇一九年八月二十四日 「詩論」


 個々の人間の精神のなかにある「ことば」と、その個々の人間を取り巻く環境のなかにある「ことば」とは、つねに与え合い受け取り合っているものがあるはずだ。なぜ多くの詩人たちは、「ことば」をまるで変わらないものとしてしか扱えないのか。言葉は柔軟なのに、詩人はそうではないようだ。


二〇一九年八月二十五日 「処方箋」


あしたは高木神経科医院に。処方箋をもらいに行く。


二〇一九年八月二十六日 「詩」


 詩は霊的なものである。霊的な状態にない、いまの自分に詩が書けない理由は、ただそれだけだと思う。頭のなかで言葉と言葉がつながらないのだ。才能は持続しないものなのかとも思う。いまはただよいと思う小説や詩を読むだけ。そんな時期もあってもよいとも思う。書き散らかしてきた過去の自分がいる。


二〇一九年八月二十七日 「考察」


 花を見ようとして鼻を近づけるひともいれば、花を手折って匂いをかぐひともいる。詩を読もうとして、こころをそわせようとするひともいれば、詩を壊して、自分が理解できるものにつくりなおしてしまうひともいる。


二〇一九年八月二十八日 「詩論」


 どんなにすばらしい作品でも、それがひとの目に触れなければ、その作品が存在する意味がない。ひとの目に触れてはじめて、作品は作品になるといってもよいだろう。ネット上に作品を無尽蔵に発表できる時代だ。埋もれた才能などほとんど皆無の時代がやってきたのだ。歓迎すべきことではないか。


二〇一九年八月二十九日 「箴言」


事物というのは、見たあとで、見えてくるものだ。


二〇一九年八月三十日 「箴言」


体験に勝る教えなし。


二〇一九年八月三十一日 「ケナログ」


口内炎の治療薬 ケナログを買うこと。

 ネットで調べていたら、口内炎の薬 ケナログがことしの2月に販売中止になっていたようだ。代わりに、ケナログと成分がほぼ同じ 口内炎軟膏 大正クイックケアを買うことにした。口内炎は疲れやストレスがたまったときにできやすいようだ。




自由詩 詩の日めくり 二〇一九年八月一日─三十一日 Copyright 田中宏輔 2022-02-28 00:04:05縦
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