ボロボロの壁
ホロウ・シカエルボク

特にこれといって上手く続けられる仕事もなく、思い出したように働いては数日後には辞めている俺たちにとって、のんびりとしけこめるモーテルなんかあるわけもなく、だから俺たちはいつでもなんとかガソリン代だけを稼いでは、街から少し走った山の中腹にある、十年前に営業を取りやめたコテージの一部屋に忍び込んではヤリ溜めをした。疲れたり飽きたりして勃たなくなっても無理矢理二回は追加した、あとは裸のまま壁にもたれ、ラジカセで音楽を聴きながら毛布にくるまって煙草を吸い、酒を飲み、寝たり起きたりしながら朝までを過ごすのだ。それが俺たちの―デートと言えばデートみたいなものだった。俺たちは同じ学校の同じクラスで、腐れ縁から始まっていつのまにかそういう仲になっていた。それも、熱烈な愛とかそういうのではなく、いつのまにか、気が付いたら裸になって舐め合っていた、そんな感じだった。そもそもいつでもつるんでいられる同級生なんて限られていたし、その中でも俺たちはとりわけ人間嫌いな偏屈だった。ババ抜きで最後に残った二枚みたいな関係だったのだ。そんな関係は何年も続いた、四年とか―あるいは六年くらいは続いていたのかもしれない。いまとなってはそれが正しく何年だったのかなんて、俺にも、そしてあいつにも分ることはない。緩慢な自殺のような毎日だった。そして俺たちは、それがそういうものだと知りながらもそれを苦だとも思いもしなかった。どうせ他に生きる術があるわけもない。俺たちは野生の動物のような愚かさで自分の立ち位置を全うしていたのだ。


ある日の少し肌寒い冬に、いつものようにやりまくってダラダラしているときに、あいつ―アビーはこんなことを口にした。
「ここの壁さ、だいぶんボロくなったよね。」
うん?と、少しウトウトしていた俺はそれをもう一度繰り返してもらった。それから眠気覚ましに煙草に火をつけて、煙を吐きながらそうだな、と答えた。笑わないで聞いてくれる?とアビーはいつになく暗い表情で続けた。俺は煙草を消して頷いた。
「この安い木造のコテージがあと何年もつのか分らないけど…あたし時々、自分があの壁みたいなものじゃないかって考えることあるのよ、最近。」
歳より臭い悩みだな、と俺は返した。アビーの言うことは分らなくもなかった、いや、もしかしたら本当は恐ろしく分っていたのかもしれない。だから逃げようとしたのだ。
「俺たちまだ二十代じゃないか。」
そうだけど…と言ってアビーは俯いた。もっと上手く言えるはずなのになにも言葉が見つからない、そんな様子だった。俺は彼女がなにか思いつくまで待っているつもりでいたが、眠気覚ましの煙草を早々に消してしまっていたせいですぐに眠ってしまった。目覚めた時はもう朝で、アビーも静かな寝息を立てていた。女は老けるの早いっていうしな、と思いながら俺はその頭を撫でた。

それから数週間、俺たちは互いになんやかやつまらない用事を抱えて会うことが出来なかった。たまにはきちんと仕事をしたりしなければいけなかったから、それぐらい会わないでいることはよくあることだった。俺はなにも疑っていなかったし、なにも心配してはいなかった。これまでの生活が変わることなんて考えもしなかったし、始まった時と同じでなんとなくいつまでもそれが続いていくものだと暢気に考えていた。アビーがもうお終いにしましょうと言ったのは、ひと月ほどあとのコテージだった。

「あたしね、結婚することになったの。」
俺はどんな言葉も思いつかず、阿呆みたいに口を開けてアビーの顔を見ていた。彼女の言っていることがまるで理解出来なかった。まるで外国の言葉を聞いているみたいだった。
「今しかないと思ったの。ボロボロの壁になる前に…自分を守るために、何かしなくちゃいけないと思って。」
両親には少し前から煩く言われていたの、と、思い出したように付け加えた。
「だから、俺と別れて―誰かと結婚するって?」
自分でも馬鹿みたいだって思うわよ、とアビーは俯きながら言った。
「でもね、あたし、この壁を見るのが怖いのよ。怖くてどうしようもないの。まるで少し先の自分を見ているみたいな気分になるの。だから、利用出来るものは利用して、この人生を抜け出そうって思ったのよ。」
俺はなにか言うべきだと思った。だけど、なにも思いつかなかった。彼女にしてみればそれなりに納得のいく段階を踏んでいるのだろう。だけど、俺にとってはまったくの晴天の霹靂というやつだったのだ。この毎日にこんな終わりが来るなんてほんの数分前までまったく考えてはいなかったのだ。
「両親が凄く喜んでいるの…やっと親孝行してくれるって。何年かぶりに小遣いくれたの。だからね、あたし車呼んでそれで帰るから…だからね、送ってくれなくていいからね。」
アビーはあまり俺のほうを見ずに早口でそんなことを言って、じゃあ、さよならね、いままでありがとうと言ってコテージを出て行った。俺は何も考えられず、しばらくの間コテージで立ち尽くしていた。それからどうしたのかあまりよく覚えていない。気づくと自分の部屋で水のシャワーを浴びて震えていた。慌てて湯に切り替えて、バスタブに湯を張り、ゆであがるまで浸かっていた。


取り乱したりはしたものの、数週間は比較的穏やかに過ぎていった。俺は時間を持て余すのが嫌になって、フルタイムの仕事に就き、やけくそで働いた。食肉工場で豚肉を捌く仕事だった。力だけは無駄にあったので、年寄りの多いその職場で俺は重宝された。家に帰ると力を使い果たして、シャワーを浴びて飯を食うとすぐに眠くなってベッドに横になった。こんな毎日もいいものかもしれない、そんな風に考え始めた矢先のことだった。

ある夜、もう日付も変わったころ、俺は痛みで目を覚ました。左の手首にひどい痛みがあった。寝床で横になっていたはずなのに、リビングのテーブルの前に座っていた。電気をつけ、左手首を見てみると、いま切ったばかりという感じでざっくりと、まるで手を切り落とそうとしたみたいに切り裂かれていて、真っ赤な血がポタポタと床を濡らしていた。俺は悲鳴を上げて洗面に飛び込み、タオルを取って手首をきつく巻き(といっても片手でそうするのには限界があった)、救急病院へと駆け込んだ。自分では気づかなかったが衣服にもかなりの血がついていて、これは大ごとだと判断した看護師が順番を飛ばして診察室へと案内してくれた。
「あと数ミリ深かったら危なかった。」
デンゼル・ワシントンの若いころにそっくりな医者が処置を終えてそう言った。
「どうしてこんな怪我を?」
分らない、と俺は首を横に振った。医者は怪訝な顔をした。家で寝ていたんだ、と俺は分らないなりになんとか説明してみようと試みた。
「痛みで目が覚めて、ベッドに居たはずなのにリビングのテーブルの前に座っていて、手首から血が流れていた。尋常じゃない量だったから、ビビッてすぐ手首を縛ってここに来た。そんな感じだから、自分でもなにがなんだか…。」
医者は頷き、見てればだいたい分るけど、と前置きしながら
「ドラッグやらの類はやってないね?アルコール中毒とか、そういった経験もない?」
ないよ、と俺は答えた。夢遊病の類も?と医者は続けてきいてきた。俺は黙って頷いた。
「そういう…なにか、病気の疑いがあると?」
医者は少し迷いながら、けれども言っておいた方がいいだろうと判断したらしく、少し真剣さを強くしながら、こんなことを言った。
「人間はなにか大きなショックを受けたとき、心と身体のバランスが取れなくなる時がままある、本人がそのショックを自覚していない場合、無意識下においてそのショックに対してバランスを取ろうとするケースは結構ある…例えば、寝てる間に自傷行為に及ぶとかね。」
医者はそう言って俺の目をじっと見た。
「ここは総合病院だ。このまま精神科医に診てもらうことも出来る。君がそう望めばね。」
俺はそんな状態なのかな、と俺は困惑して言った。医者は俺の緊張をほぐそうとしたのか、少し表情を緩めて、笑顔を作りながらこう言った。
「我々は君に聞いた状況から判断するしかない。君は今回たまたまマズい方向に寝ぼけただけかもしれない。でもね、もう一度言っておくよ、あと数ミリ傷が深かったら君はここに来ることも出来なかった。それぐらい危ない状態だったんだ。」
俺は頷いた。少し悩んだが、今日はもう帰る、と答えた。医者は頷いた。
「もう二度と悪い夢を見ないように祈ってるよ。」
ありがとう、と俺は答えて病院をあとにした。


数週間後、俺は意識を失くして病院に担ぎ込まれた。道端で血まみれになって倒れていたらしい。仕事が終わってすぐの時間で、まだ眠ってすらいなかった。でもなにをやっていたのかまったく思い出せなかった。目が覚めると真っ白い部屋で寝かされていて、看護師が近くをウロウロしていた。俺が目覚めて驚きの声を上げるとこちらへやって来て、大丈夫、とだけ言ってナースコールを押した。この前の医者がやって来て、俺と目を合わすと悲し気に笑った。
「また会ったね。」
俺が答えられないでいると、彼はそのまま今後の説明を始めた。
「君はこのまま少し入院してもらう。精神科の方の病棟にね。向こうの先生に話をつけてある。これから一日か二日、完全に監視された状態で過ごしてもらう。もちろんそれは、君が安静にしていてもらうための処置でもある。君はどうしてここに居るのかも分っていないはずだ。心苦しいが、少し強引に進めさせてもらったよ。」
俺は何も言えず、頷いた。自分の身に起こっていることが理解出来なかった。連絡しておきたい家族は居るか、と聞かれ、居ない、と答えた。それから俺は監視カメラのついた部屋へと連れて行かれた。精神科の医者を紹介された。優しい笑みの、ソフィー・マルソーを思わせる女医だった。大丈夫よ、ここに居れば悪いことは何も起こらない。微笑むだけでそう患者に伝えることが出来る技術の持主だった。俺は安心した。腕になにかが打たれた。俺は急速な眠りの中へと落ちていった。

目が覚めると、俺は入院患者の格好のまま、あのコテージの真ん中で突っ立っていた、左のこめかみになにか冷たい感触があった。あの医者、と俺は毒づいた、大丈夫だってそう言ったじゃないか?もう助からないと分っていた、身体はなにも自由にはならなかった。目は自然に目の前を壁を睨んでいた、ボロボロになって―そんなにボロボロだったなんて信じられないくらいボロボロになったコテージの壁を。指先にじっくりと力がかかった、ああ、おしまいか―せめてもう少しなにか手に入れたかったな、俺がすべてを諦めたその瞬間だった、突然強い力で誰かが俺から銃をもぎ取った。続いて銃声が聞こえ、誰かがどさりと倒れた。俺は血も凍る思いでゆっくりと振り返った。左目からもの凄い血を吹き上げながら仰向けに倒れているのは、いままで見たこともないような小奇麗な格好をして、明るい色に髪を染めたアビーだった。


アビーの持っていたバッグには遺書があり、すべてに失望したと書かれていた。当然俺は疑われたが、引鉄が明らかにアビー自身の手によって引かれたことが分ると疑いは晴れ、また、俺や彼女の両親から事情を訊くにつれ、ある程度のことが把握出来るともう俺のところにはやって来なくなった。それから俺は診てもらう項目が増えひと月ほど入院したが、それからはびっくりするくらい良くなって退院した。そのまま仕事場に顔を出すとみんな喜んでくれた。俺は知らなかったが、毎日誰かしらが見舞いに来てくれていたらしい。無理はするな、あとひと月休め、でないと仕事はさせない、と親分が言うので大人しく家に帰った。眠りにつく瞬間には恐ろしくて仕方なかったが、何事もなく朝を迎えることが出来た。ちょっと愉快な夢さえ見た。それは過去と呼ぶしかない頃の夢だった。俺は目覚めるためにシャワー浴び、久しぶりに自分で朝食を作って食べた。なにが失われ、なにが残ったのかまったく分らなかった。だけど、時間は容赦なく更新され、遅かれ早かれ日常は再構築されるだろう。危うく死ぬところだった。でも生きていて、こうして新しい朝を迎えている。人生というやつはとてつもなく残酷なものだ。だけど、そこには必ず未知なる未来が待ち構えていて、日々を乗り越えたものにだけその姿を見せてくれる。俺はもうボロボロの壁かもしれない。だけどまだ横になって眠って、こうして目を覚ますことが出来る。

                                   了


散文(批評随筆小説等) ボロボロの壁 Copyright ホロウ・シカエルボク 2022-02-06 22:57:21
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