コリドラス
ちぇりこ。

わたしがまだ幸せの形をしていた頃、恋人と暮らしていた
春の夕暮れの匂いのする水槽の底で、わちゃわちゃと低砂をつつくコリドラスの口許にある二対のヒゲのように仲良く暮らしていた
彼は時おり水面から顔を出して外の空気に触れようとするんだけど
酸素を思いっきし吸い込んで慌てて水底へ戻ってきて金魚のように口をパクパクさせる
そんな彼の姿が可笑しくて二人してころころ笑いあっていた

そんなある日
そろそろ俺たちも外の空気に慣れないとな
と彼はわたしの手を引いて外へ出る練習を始めた
最初は家のすぐ脇にある電柱の所まで恐る恐る行き着くと、踵を返して一目散に水槽の底までものすごいスピードで戻ってしまっていた
それでも徐々に行動範囲を広げていったわたしたちは近所のコンビニ、児童公園、商店街のアーケード下と
駅前のシネコンに辿り着く頃にはもうすっかり冬だった
わたしはコートのポケットに手を突っ込んで歩いていた
上着を着てこなかった彼は後ろからわたしのコートのポケットに手を突っ込んできてポケットの中で指が触れ合うと
約束、指切りげんまん指切った
と言ってわたしの顔を覗き込んできた
彼の眼は遠い国の大きな火山の火口で悲しみを湛えて横たわる青いカルデラの湖水のようだった

それからわたしは、彼には内緒で独りで行動範囲を広げていった
部屋に戻らなくなる間隔は日増しに長くなり
二日くらい戻らなくなる日もざらだった
彼の眼を盗んでこっそり部屋に入りコートをハンガーに掛ける、慌てていたのでコートの内側からドングリやいちょうの葉っぱやエゾシマリスがぼとぼとと落ちてきた
わたしはバツの悪そうな顔したけど、彼は見て見ぬふりをしていてくれた
彼が何かわたしに喋りかけたけど、彼の口からは空気の泡がポコポコ出るばかりで、わたしにはもう彼の言語は理解出来ないでいた

そうして一週間、半月、一ヶ月と彼の部屋を空けることが増えていった
わたしは西の果ての砂漠を行き交うキャラバンのフタコブラクダのコブの数を数えたり
南の島の大きな白い女の身体のような砂浜に仰向けで寝っ転がって、日本からは決して見ることの出来ない星座を眺めてたりしてた
そうして二度と水槽の底には戻らなかった

彼はまだ水槽の底で低砂をつついて暮らしているのだろうか
誰か水の底の言語を理解できる人と二人で暮らしているのだろうか
そういえばあの日以来着ることのないわたしのコートは、まだ彼の部屋のハンガーに掛かっていて
春の夕暮れの柔らかな陽が差し込む水槽の底で水草のように揺れているんだろう
ポケットの中には
叶わなかった約束が絡まったまま腐敗している二人の小指が
きっと
安らかな寝息をたてているんだろう




自由詩 コリドラス Copyright ちぇりこ。 2022-01-25 23:12:07
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