遠いひと
佐々宝砂

 1

少女は夕暮れにオルガンを弾き
聞き覚えたメロディを拾う
不安定なコードで単調な伴奏を繰り返し
遠い歌声に耳を傾ける

暗い森の奥 澱んだ沼の畔
彫刻のように動かぬ蟾蜍(ヒキガエル)を従えて
遠いひとは 古代の仮面に顔を隠し
うつむいて甘く低くささやく

あるいは オートバイで疾駆しながら
割れて掠れた声を虚空に投げる
雨に濡れた髪が闇に融ける

少女は自分が傷ついて血を流したと思う
黄ばんだ鍵盤をでたらめに叩くと
遠いひとが遠くで嘲笑った


 2

少女はゾンビ映画を偏愛した
汚穢と血と泥が氾濫する画面の向こうに
透きとおった水があって
そこには遠いひとが泳いでいるのだった

ビデオを見ながら少女は日記を書く
(あのひとはきっと上にはいない
 だからあたしも上にはいかない
 あたしは下に沈んでゆくんだ)

凍てつく二月の夜
少女は冷たい水を浴び
素裸で窓辺に立ち

満天の星を見ようともせず
精いっぱい両手を広げて
地下に潜むものを抱こうとする



 3

蝋燭を片手に少女は川を歩く
夜の水が少女の足を濡らし
腰を濡らし
胸を濡らす

寒さにこわばった少女の指から
蝋燭が落ち
暗い水面に黒髪が広がり
少女は そのまま沈んでしまいたいと思う

けれど少女の肺は
酸素を欲しがって悲鳴をあげる
少女は空を見上げ 乱暴に目元を拭う

それから少女は川岸で じっと待っている
枯れて腐った水草のあいだから
濡れそぼった頭が浮き上がるのを



 4

指環と数珠がいくつも沈んでいる
 白く波立つ地下水道を
  一艘の舟が下ってくる
   少女が乗ると舟は静かに滑り出す

満ちた月の輝く洞窟で
 子どもたちが祈りを捧げている
  闇から闇へ滝が流れ落ちる
   縄に括られた女が滝壺に身を投げる

洞窟の奥には博物館があり
 毛足の長い絨毯が少女の足音を消す
  夢をみているのだと少女は知っている

ほこりくさい陳列棚の前に
 黒い服を着たひとが立っている
  遠いひとだ!



 5

朝が訪れるたびに
それと知らず 少女は
黄泉平坂でふりむき
きれぎれの夢から覚める

遠いひとは遠くで眠り
眠りながら少女に歌いかける
いつかは死ねるという慰めと
いまは生きねばならぬという命令

朝の光に半身を焼かれ
残る半身を夜の半球にとどめて
少女は夢を封印し

腐敗した肉が甘く匂う
汚れた台所で
朝食の支度をした





  ジェイムス・ダグラス・モリソンに捧げる





(18歳のときの作品、未刊詩集「異形小曲集」より)


自由詩 遠いひと Copyright 佐々宝砂 2003-11-25 21:03:37
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