書き換えられ続ける譜面の擦れた紙面が鳴くような音を立てる
ホロウ・シカエルボク
それは彼方へ消える幼い日の記憶だろうか、それは燃えながら散りゆくひとつの詩篇だろうか、それは最後の歌をうたう老婆の掠れた声だろうか、長雨の後、窓に残った雨粒が滑り落ちる時のシンクロニシティーは、もしかしたら決して投函されてはならない手紙と同じものかもしれない、記憶はわすれられた、詩篇はただの灰になった、歌声は途切れ、二度と聞こえて来ることはなかった、私たちはそれらが居なくなることで初めて、同じところには留まることはないのだという事実を知る、もちろん、知識としてはもっと早くから知っている、でも、それが本当にどういうものなのかということを早くから知ることは不可能だ、廃小学校の壁を縦横無尽に這い回る蔦は子供たちの思い出を語ることはない、けれど、それがあるのとないのとでは語られるものの数にずいぶんな違いが生じるだろう、蔦にはそんなものについて語るつもりは微塵もないにせよだ、現象というのはそういうものなのだ、ひとつひとつはまるで無関係で無意味であるのに、様々な要因によって、それがひとつのノスタルジーや思慕への引金になったりする、一度、自分の人生を細部にわたって思い出す機会がもしもあったとしたなら、私たちはそんな現象がどれだけ自分達の人生を虫食っているのか身をもって知ることが出来るだろう、だけど、そんな風に人生を思い返すには、私たちの能力はあまりにも心許なさ過ぎるのだ、人間はいつだって勿体ぶるばかりで、そのくせ大事なことはなにひとつ喋れない哀れな知能だ、だからみんな派手に語ることはせずに自己弁護ばかりに躍起になってしまう、取り繕う姿以上にみっともないものなどこの世にはないというのに!もう彼らが、本当はそういうことなのだということを知っているのかどうか私にはわからなくなってしまった、なにもかもわかっていながら道化ているのかもしれないと初めは考えていたが、どうやらそうではないらしいと一度疑ってしまってからはどんなふうにも結論づけることが出来なくなってしまった、そもそも私は、他の人間が一体どんなことを考えて暮らしているのかということについてどんな興味もモテないでいるのだ、そしてそんな私のアテイチュードは彼らを酷く苛立たせるらしい、でもそんな出来事にいったいどんな落とし所を設ければいいというのだ?だから私はなにも知らないふりをしてのほほんと生きている、私にはそれが一番楽なことなのだ、どちらがどうなんていうつもりもない、それぞれがそれぞれの良しとするところで生きていけばいいじゃないか、私はそう考えるのだ、でも相手は時にはそんなふうに考えてはくれない、そんなことはどんな小さな世界で生きていたって数えきれないほどたくさんある、だから私は数にしないことにしたのだ、数えるほどの意味もない場所に、そうした現象を放り込んだのだ、そんなことをしながらずいぶんな時を生きてきた、きっともう少しそんなふうに生きていくことが出来るだろう、仮にもし近い将来、人生を断ち切られる羽目になったとしても私はさほど悪足掻きはしないだろう、生かしてもらえるなら生きるし、生きられないのならふう、と人生で一番大きな息を吐くだろう、私という人間がいたことは、上等過ぎるくらいの友達たちに覚えていてもらえるだろう、そしてそれは、ある意味で私がもうしばらくは生き続けていけるのだという意味合いになるだろう、現象はそんなふうに、私でありながら私から少し離れたところにあるものを築き上げていくだろう、全ては途切れるけれど、その行方はわからないままではないだろう、だからこそ、それがどんなに不確かなものであれ、私は足跡について神経質にならざるをえないのだ、今夜は指先が冷えている、そんな事実を確かに確実に、これを読んでいるあなたに届けることすらままならないとしても、私は私という人間以外のものでは在り得ないし、またそれはあなたにとってもそうだろう、私たちは生きるだけ生きてもぎこちない個体のままで、とらわれて止まない現象のことを語り続けるだろう、そうして、そんな交錯の中で、時には嘘偽りなく本当の共鳴と呼べるようなものと出会い、関係を築いていくことが出来るだろう、そして少なくない頻度で、それらが終わることをこっぴどく知るだろう、気付けるだろうか、それが自分自身の終わりではないことを、終わりだと感じる日々の中には、まだ生きている自分が居るのだということを、決して忘れてはならない、私たちは飛び去って行く現象の中で目を見開いている、それがあなたの中を吹き過ぎる時に残していく感情や傷といったものを、どれだけの心でもって受け止めることが出来るのかということを、忘れ去られた記憶にも疼きのようなものがあるだろう、詩篇が灰になった後にも喉を突っつくような空気が残るだろう、途切れた歌声にだって僅かな反響があるだろう、終わりと呼ぶにはあまりにも曖昧なもの、それが世界であり、その中で生きている私たちはそれを見つめながら一生を歩き続けるのだ。