詩の日めくり 二〇一八年三月一日─三十一日
田中宏輔
二〇一八年三月一日 「ぼくは、あなたの大きなおっぱいで終わりました。」
きょうも寝るまえの読書は、チャールズ・ボーモントの短篇集『夜の旅その他の旅』のつづき。なんか40年とか50年まえの小説を読んでいるのだけれど、それなりに楽しい。というか、現代文学を、ぼくは読んでいなくて、どんなのか知らない。詩は知り合いとか友だちのを読んでるから現代詩はわかるけど。
きょうからの読書は、早川書房・異色作家短篇集・第13弾、ジャック・フィニイの『レベル3』。これまた、話を一つも憶えていない。ぼくの再読は初読だな。
ぼくが網野杏子さんにお送りした作品「ぼくは、あなたの大きなおっぱいで終わりました。」は、網野杏子さんはじめとする、ご同人、三人の方ではじめられるフリーペーパー『NEXT』のためのものらしく、『NEXT』は6月に出るらしいです。どのようなフリーペーパーか出来上がるのか、とても楽しみです。
二〇一八年三月二日 「おかきに、ウーロン茶だ」
あれ、なに買ったんだろう。あはは。おかきに、ウーロン茶だ。おやすみ、グッジョブ!
二〇一八年三月三日 「血まみれ」
眉毛のところ、切って、血みどろになっちゃった。あちゃ~。右手のところ、血まみれ。あした、飲みに行こうかと思ってたけど、顔が血みどろで、えいちゃんになんて言われるか、ドロン。
部屋でこけて、眉毛のところ切って、血まみれになった。この齢で、部屋で血まみれになるなんて珍しいかもね。手のところ、右手のところ血まみれ。こんな57歳。もうじき死ぬね。ああ、はやく死にたい。右手の袖んところ、血まみれ。なんだろ、ぼく。血まみれ。血まみれの右手。57歳。痛いわ~。
そして、さらに、吉野家からの帰り、ヨッパで、顔と手と膝を切った。手は血まみれ。ひゃ~。顔も血まみれ。
二〇一八年三月四日 「引用の詩学」
顔がお化けみたいになっているので、近くのコンビニしか行けないけれど、もともとコンビニにしか行かないので同じことか。
きょうの夜中に文学極道の詩投稿掲示板に投稿する作品を決める。40作品以上の未発表作品がある。自分で自分の作品を選ぶ作業は、ある種、詩を書くときに言葉を選ぶ作業に似ているような気がする。楽しみ。
「引用の詩学」っていうのに決めた。ついでに、3月に投稿する2作品も、これから決めようと思う。
3月に投稿する作品も、2作品とも、ごりごりの引用作品である。
いま、『ユリイカ』の5月用の作品をつくってたのだけれど、求められているものの長さの2倍ほどになったので半分に削る。いま神経がとがっているので、あとでつくる。ぼくの場合、詩はこころに余裕がないとつくれない。逆のひとも多そうだなあ。まあね、ひとによって、つくり方が違ってあたりまえか。
ユリイカの作品、いま、がばっと削って、ちょっと足して、改行部分を適切な長さにした。ふう。ようやくヴィジョンが見えた。3分の2くらい整えたところで、物語がクリアになったのだった。ぼくの詩のタイトルでも最短のものにするつもり。一文字だけのタイトル。「つ」
いや、「つ」というタイトルの詩を見たような記憶がある。ぼくが投稿していた時代に、神戸のお医者さんで、会って、共作もしたことのあるひとだった。タイトルを変えよう。すると、詩の中身もちょっといじらなくてはならない。うううん。中途半端な記憶力。
タイトルを「ひとつ。」に変更した。作中の「つ」をすべて「ひとつ」に変更した。へんに、意味が通じやすくなって、その付近の行が意味のある内容になってしまった。意味のあるものにはまったく関心がないので、ちょっとしょぼんだが、作品としてはよくなってるような気もする、笑。あまのじゃくだな。
いま、たまたま、エズラ・パウンドの『ピサ詩篇』を手に取ったので、文学極道に詩を投稿するまで読み直そうかな。いまパラ読みしたら、ビンビンすごさが紙面から伝わってくるのね。ジェイムズ・メリルと並んで、シェイクスピアやゲーテに匹敵する数少ない詩人のひとりだと思う。
二〇一八年三月五日 「お風呂に入りたくない」
さて、20分くらいで、4月に文学極道に投稿する作品2作を、文学極道の詩投稿掲示版の画面用に加工した。きょうできることはみな終えた。これから、ジャック・フィニイの短篇集『レベル3』を読みながら寝る。どの物語もノスタルジックなものばかりで、新鮮味がまったくない。ちょっと苦痛の読書だ。
あしたのあさは、ユリイカに送る詩をもう一度、見直して、送付しようっと。おやすみ、グッジョブ!
知っていることを話すのはたやすい。知らないことを話すのはもっとたやすい。
いままで詩句をいじくりまわしていた。読み直すたびに詩句が変わっていくことはあるけれど、こんどのは、ひどい。すんごい頻度で詩句が変わっていく。元型は3分の2もないんじゃないだろうか。見た目と音を大事に考えているけれど、とりわけ音が詩句をいじくりまわさせてるみたいだ。いまからもまた。
傷口が痛いからお風呂に入りたくないけれど、お風呂に入らなければ不潔だから、これからお風呂に入る。詩句、見るたびにいじりまわしているけれど、さっきは3カ所だけだった。お風呂からあがったら、もう一度、読み直そう。それで、一回寝たら、起きて、もう一度読み直して、ユリイカに送ろうと思う。
いま、ユリイカの明石陽介さんに、出来上がった作品をワード原稿でメールに添付してお送りした。おもしろく思ってくださるとよいのだけれど。ユリイカの5月号で、なんの特集がされるのか知らないけれど、楽しみだ。
鼻の傷口を拭いたら、膿がついた。鼻の穴の横がいちばん痛い。鼻の頭じゃなくて、どうして、低い場所がひどい怪我をしてるんだろう。鼻の頭は無事。ああ、そうか。顔が地面と衝突するとき、本能で顔をそむけたからだな。ぼくは怪我からも学ぶことができるということに気がつくことができて、うれしい。
怖いもの見たさに、自分の顔を鏡で見るなんていう経験もはじめてだ。
雨がうるさくて睡眠薬が効かない。雨は、どうして、こう神経をいらだたせるのだろうか。憂鬱である。まあ、憂鬱ついでに、ジャック・フィニイの短篇集『レベル3』でも読もうか。もう何十時間くらい起きているのだろうか。まだ骨はポキポキいわないけれど。あ、関節ね、ポキポキいうのは。
さっき、セブイレで、はちみつレモンと、豚まん3個買ってきて食べたのだけれど、まだお腹がすいている。どうしよう。コンビニで、甘いものでも買ってこようかな。シュークリームがいいかな。寒いけど、行ってこよう。
味わいカルピスと、サンドイッチと、シュークリームを買ってきた。これで、腹もち、もつかな。
部屋のなかで、クール・ザ・ギャングのセレブレーションを聴きながら踊っている。すばらしい詩作品が2作、1週間のあいだにできたのだった。神さまに感謝して踊っているのである。きょうは疲れるまでディスコ・サウンドで踊るぞよ。EW&FやAWBなんかもいいな。ファンクもいいかな。
二〇一八年三月六日 「ヤン・フス」
いま起きた。自販機でオレンジジュース買ってこよう。
きょう、さいしょのご飯は王将にしようかな。きょうは、なにもする予定がないので、ジャック・フィニイの短篇集『レベル3』のつづきを読もう。新鮮味のない、おもしろくない短篇ばかり。どうして有名なのか、さっぱりわからない。叙述が細かすぎて、うっとうしいのだ。
ランチがまだあったので、日替わりランチにした。焼き飯+ラーメン+餃子一人前だ。おなかいっぱい。だけど、帰りにセブイレで、海鮮おかきと、烏龍茶を買ってきた。ジャズのチューブでもかけながら読書でもしようかな。きょうは、ひまひま。
ヤン・フスが火刑に処せられたときの描写は、カミュの『手帖』の第六部にあった。ぼくの詩集の『Forest。』に引用してあった。まあ、もう、ぼくの詩集自体が辞書って感じのものになりつつあるな。『引用の詩学。』みたいなの、あと10個ほどあるので、文学極道に投稿していくつもり。そのうち詩集に。
これまでもメモ魔だったけれど、忘却力の増した57歳ともなると、これまでにもまして、ささいなこともメモしていかなければ、記憶がちっとも蓄積されないことがわかった。これから読書に戻る。フィニイの言葉でメモはちっともしていないけれど。
『詩の日めくり』のための資料を整理していると、一瞬、重要なファイルが消えてあせった。ちゃんとあったけれど、パソコンって、そういうところがあって、しばしば、あせらせられる。まあ、ぼくが機械に弱いだけかもしれないけれどね。
そういえば、ノブユキは陥没乳だった。乳首のところがへっこんでいたのだ。両方の乳首が陥没してたかどうかは記憶にない。30年ほどむかしのことだからね。どこにも書いたことがなかったかもしれないので書いておく。吸ったら、出てくるんだけどね。デブだったから。デブには多いんだよね、陥没乳。
二〇一八年三月七日 「虹をつかむ男」
朝ご飯でも食べてこようかな。松屋か吉野家か。そのまえに鏡を見よう。こわい。
松屋で豚なんとかか、なんとか豚定食を食べてきた。680円。いまなら、ご飯の大盛りが無料ってので、大盛りにした。帰りに、セブイレで、烏龍茶と、サンライズを買ってきた。サンライズ、大好き。
きのうからきょうにかけて、網野杏子さんに以前にお送りしていた詩篇をいじくりまわしていて、網野杏子さんにはお手数をおかけするけれど、以前の詩篇を破棄していただき、新しい原稿をとっていただくようにお願いした。いじくり癖がなかなか治らない。これはもう病気の領域だな。
いつ原稿依頼があっても、数十分以内に送れるように、原稿用紙4、5枚くらいのものをつくっておこう。ちょっと、ここ10年くらい、長いものばかりつくっていて、ひとつの感覚でもって書くってことしてなかったので、感覚が鈍っていた。もっととぎすまさなければいけないね。普段からね。きょうから。
「ミニ・詩人論 田中宏輔」っていうのを書いてくださっておられる方がいらした。
ジャック・フィニイの短篇集『レベル3』を読み終わった。後半の作品のほうがおもしろかった。順番を替えればよかったのにと思う。前半、ほとんど発想が同じものだった。さいごの作品「死人のポケットの中には」はどきどきするくらいおもしろかった。
きょうから、早川書房の異色作家短篇集・第14弾の、ジェイムズ・サーバーの『虹をつかむ男』を再読する。さてさて、これまた、ぼくは、話を一つも記憶していないのだった。もうね。ほんとにね。ぼくの再読は、新刊本を読むみたいな感じだね。ジャック・フィニイのも、一つも憶えていなかったものね。
お昼ご飯を買いに、セブイレに行こう。
道を歩いていたら、自分の原稿を思い出して、あ、あそこ、こうすればもっとおもしろくなると思って、訂正稿を、お二方にお送りさせていただいた。目のまえに立っていたら顔をぶたれそう。網野杏子さんには、4回目の原稿送付になってしまった。ユリイカの明石陽介さんにも訂正稿を送らせていただいた。
ひゃ~。いままた自分の詩句のまずいところを思い出してしまって、ユリイカの明石陽介さんに、ほんとうに最後の最終決定稿ですと書いて、いじった原稿をワード添付してお送りさせていただいた。ああ、ぼくの脳は、どうなっているのだろう。病気だな。
二〇一八年三月八日 「FAR EAST MAN」
ああ、いままた、ユリイカの明石陽介さんに、本当の本当に最後の最終稿ですって、メールに添付して、お送りさせていただいた。明石陽介さんにも4回、送らせていただいちゃった。神経がどうにかなっちゃってるんだろうね。無意識にでも詩句のことを考えちゃってるんだろうね。もうこれで終わりにしたい。
ジェイムズ・サーバーの『虹をつかむ男』さいしょ読んで意味がわからなかったけれど、ぼくも似た状況の作品を書いた記憶がよみがえって、ようやく意味がつかめた。もちろん、サーバーのほうが数百倍、上手だけれど。ぼくの脳みそが錆びれたのかな。サーバーの作品、これはこころしてかからねばならぬ。
きょうは雨。どこにも出かける気がないなあ。お腹がすくので、お昼ご飯は食べに出ると思うけれど。一日じゅう読書でもしてよう。
きょうは、夕方から日知庵に行くことに。まだ顔に傷があるけど、なんとか外に出られるくらいにはなったかな。
きょうは、ビートルズ、ジョージ・ハリスン、グランド・ファンク・レイルロードを聴いている。ジョージの FAR EAST MAN を聴くと、京大のエイジくんのことを思い出す。高知は西だからだろうね。
二〇一八年三月九日 「えいちゃん」
いま日知庵から帰ってきた。えいちゃん、やっぱりかわいいよね。京大のえいじくんのつぎに男前。
帰りに、セブイレで、カップラーメンと烏龍茶を買ってきた。食べて、クスリのんで寝ようっと。ウルトラQ見ようかな。
二〇一八年三月十日 「メランコリイの妙薬」
ジェイムズ・サーバーの『虹をつかむ男』を読み終わった。文体になれると、すばやく読めた。きょうからの再読は、早川書房の異色作家短篇集・第15弾の、レイ・ブラッドベリの『メランコリイの妙薬』。これまた物語をひとつも記憶していない。
いま近所のラーメン店から帰って、ひじょうに腹が立っている。ランチが750円って看板に書いてあるのに、950円を取られたのである。理由は、パスをもってないからだという。パスのことなど看板に一言もかいてないのにだ。もう二度と行かない。味は気に入ってたけど、きょうのこと、詐欺じゃんか。
いま日知庵から帰った。コンビニで買った海鮮せんべえと烏龍茶をいただきながら、ブラッドベリの短篇集『メランコリイの妙薬』を読む。15年ぶりくらいの再読だ。楽しみ。新刊本を読むのといっしょ。お得です、笑。記憶力がない人間は。
二〇一八年三月十一日 「メランコリイの妙薬」
ブラッドベリって、長篇も短篇も、ほとんど読んでいて、もう吸収するところなどほとんどないと思って、短篇集『メランコリイの妙薬』を再読していたのだけれど、冒頭の「穏やかな一日」だけでもメモ取りまくり。もう一度はじめからぼくは学び直さなければならないようだ。いま、目に涙がにじんでいる。
いまから、えいちゃんにもらったドリップ式のコーヒーを飲もう。おいしそうだな。
松屋で朝食定食を食べてきた。卵焼き2個のダブルで。で、帰りにセブイレで、クリームパンを買った。洋梨体型のデブなのである。
ふたたび読書に戻る。きょうこそは、一日、読書をしたい。お昼に、ドリップ式のコーヒーのセットを買いにダイソーに行くけど。
二〇一八年三月十二日 「嘲笑う男」
いま日知庵から帰ってきた。きょうは、午後に、ブラッドベリの短篇集『メランコリイの妙薬』を読み切った。これから、早川書房の異色作家短篇集・第16弾のレイ・ラッセルの『嘲笑う男』の再読をする。これまた、一つも作品を覚えていない。ブラッドベリ、なかなかよかった。これはどうかな。どだろ。
レイ・ラッセルといえば、目のまえの本棚に、『インキュバス』がある。これって、高校生のカップルが映画館で××××××××するという設定で、はじめて読んだとき、笑っちゃったけれど、まあ、作者って、すけべだなあって思ったこと憶えている。ぼくが読んだの、高校生のときくらいかな。もう40年ほどか。
道徳の妖精たち。
二〇一八年三月十三日 「嘲笑う男」
ぼくへの偏執ぶりがすごいひとが文学極道にいて、びっくりしている。まあ、ある意味、それは、ぼくの名誉でもあるのかな。
レイ・ラッセルの短篇集『嘲笑う男』に収められている冒頭の「サルドニクス」読んだら記憶がよみがえった。一応、ハッピー・エンドだったけれど、さわやかな終わり方とは言いがたく、後味もよろしくない。でも、さいごまでおもしろく読めた。文章力かな。表現力かな。それはすごいと思った。さすがだ。
きょうは夕方に仕事があるので、昼までしか読書ができない。レイ・ラッセルの短篇集『嘲笑う男』おもしろい。もう半分近く読めた。長篇の『インキュバス』も読み返そうかな。
これからお昼ご飯を食べに、西院のブレッズプラスに行こうと思う。ハムチーズサンドイッチ・セットが食べたくなった。混んでるから坐れなかったら、あきらめて、ほかのところで食べよう。天下一品もいいかな。サンドイッチとラーメンじゃあ、えらい違うけれど。まあ、ぼくは気まぐれだからなあ。
天下一品で唐揚げ定食たべてきました。
さて、これからお風呂に入って、それから仕事に。わずか3時間半の仕事だけれど。
二〇一八年三月十四日 「オノレ・シュブラックの失踪」
いま日知庵から帰った。レイ・ラッセルの『嘲笑う男』おもしろい。後、20ページちょいで再読、終わり、多くても、30ページくらいかな。短篇3つで読み終わる。知識の量と、表現力とが釣り合っている。アイデアがすごいと思わせられるのが、いくつもあった。知能的な読書ができたと思わせられた。
きょうから読書は、早川書房の異色作家短篇集・第17弾の、マルセル・エイメの『壁抜け男』の再読である。これまた話を一つも記憶していない。タイトル作は、なにやらアポリネールっぽい感じがするものだな。壁に消えるときに亡くなったことを示唆する物語だ。なにに入っていたか記憶にない。
アポリネールの作品、「オノレ・シュブラックの失踪」だった。どこで読んだのかな。
岩波文庫の『フランス短篇傑作選』に載ってた。
でも、たぶん、はじめて読んだのは、岩波文庫のじゃなかったような記憶がある。なにでだろう。検索してみよう。
でも、ほんと、はじめに、どれで読んだのか、記憶にない。
二〇一八年三月十五日 「壁抜け男」
いま日知庵から帰ってきた。エイメの短篇集『壁抜け男』のつづきを読みながら寝よう。しかし、エイメの文体、読みにくい。翻訳が悪いのか、もとの文体が悪いのかわからないけれど、読みにくい。
文学極道で、ぼくに偏執的につきまとっているひとがいるって書いたけど、まだ偏執的に固着していてね。これは、ほんとに病気の類だと思う。こわいねえ。
きょうは、エイメの短篇集『壁抜け男』のつづきを読んで寝よう。レイ・ラッセルと違って、読みにくい。原文が読みにくいものなのか、翻訳が悪いのか、どっちかだと思うけど。どっちもだったりして、笑。
二〇一八年三月十六日 「今井義行さん」
今井義行さんから、詩集『Meeting Of The Soul (たましい、し、あわせ)』を送っていただいた。横書きの詩集で、一行が短く、詩句もわかりやすい。散文も収録されていて、実話なんでしょうね。考えさせられることが多くありました。詩集のお写真、とてもすてきだと思いました。すてきな詩集でした。
マルセル・エイメの短篇集『壁抜け男』あと2篇で再読完了。翻訳の文体になれると、読みやすくなっていった。
エイメの短篇集『壁抜け男』を読み終わった。ほんとうに物語を一つも憶えてなかった。きょうから、再読するのは、早川書房・異色作家短篇集・第18弾のアンソロジー/アメリカ篇『狼の一族』だ。これもまたまったく記憶にない。そういえば、エイメの作品ももう半分以上忘れてしまったけれど。
日知庵から帰って、文学極道のフォーラムを見てたら、ぼくのことを呼び捨てに書いてる人物がいて、どうしてかと尋ねると、こんどはクズ呼ばわりされた。ぼくは、その人物のことなんか、ちっとも知らないのだけれど、世のなかには変わった人もいるものだなあと思った。顔も合わせたことないのにねえ。
二〇一八年三月十七日 「ベビーシッター」
松屋でソーセージ・エッグ朝食セットを食べてきた。おなかいっぱい。いまコーヒー淹れたところ。これで、本が読める。きょうは、どこまで読めるかな。
ロバート・クーヴァーの「ベビーシッター」を読んでるんだけど、エリスンよりも読みにくい。 実験小説らしいんだけど まあ 仕方ないか。 お昼ご飯、どうしようかな。 ラーメンでも食べてこようかな。 近所に おおの っていうラーメン屋があって けっこう、おいしいの。
詩の原稿依頼がまたあったので、うれしい。さっそく、いまから書く。
もうつくれた。ちょくちょく手を入れて完成させよう。
ちょっとした思いつきで詩句がつぎつぎと変わっていく。
いま日知庵から帰った。おみやげにもらった金平糖をなめながら、アンソロジーを読んで寝ようと思う。来週、一週間休みなので、きょうつくった詩をいじくりまわそうと思う。おやすみ、グッジョブ!
クスリをのんだので、一時間後くらいに眠るはず。
二〇一八年三月十八日 「棄ててきた女」
二度目の目覚め。読書しかすることがない。
あさからスパークスを聴いている。
コレクションが増えた。
きみの名前は?
(ジョン・スラデック『他の惑星にも死は存在するのか?』柳下毅一郎訳)
きょうからの再読は、早川書房・異色作家短篇集・第19弾のアンソロジー/イギリス篇『棄ててきた女』である。これまた一つも記憶していない。ぼくの部屋には傑作しか残していないけれど、記憶にあるものはわずかなんだな。自分でもびっくりだ。
いま、きみやから帰ってきた。
きょうもヨッパで、寝るまえは、読書。
こんなんでいいのかな、人生。
こんなんでいいのだろうね、人生。
おやすみ、グッジョブ!
二〇一八年三月十九日 「意地の悪い作家、大好き。」
依頼された詩ができたのだけれど、音がなめらかすぎて、ちょっとしばらくほっておくことにした。音は多少凸凹したほうがおもしろいし。凸凹の音のものを想像するだけで楽しい。北園克衛とかね。
別の詩を思いついたので、依頼された詩は、いまワード添付で送付した。戦争を描いた詩を思いついた。じっさいの戦争を知っているわけではないので、想像だけど。戦争について書くのははじめてだろうな。まず専門用語を調べなくちゃならないな。ひとつも知らないもの。機関銃くらいかな。ミサイルとか。
いま日知庵から帰った。きょうもヨッパである。寝るまえの読書は、イギリス作家のアンソロジー。意地が悪いのがイギリス作家の特徴だけれど、これは、イギリス人が意地が悪いことを示しているのか、イギリス人のサービス精神がすごいことを示しているのか、どっちだろう。意地の悪い作家、大好き。
急いでいるかどうか→急いでいるのかどうか
この変更を検討すること
一文字の挿入
詩篇ぜんたいの音調的バランスとの兼ね合いで。
時間はある。
よくここに気づけたなという自負もある。
一か月以内に決断。
二〇一八年三月二十日 「の」
「の」を入れない方が、音が凸凹しておもしろいからなあ。これは選択するのがむずかしい。音が凸凹している詩行がつづくなかに、なめらかなものにしたものを入れると不調和を起こすからなあ。もっと熟考しなければならない。
何度も読み返している。「の」のないほうがスピード感があるが、「の」のあるほうが日本語として趣きがある。やはり入れようかな。どうしよう。あと何回か、詩篇を読み直そう。それでも、たぶんすぐに判断できないだろうけれど。
ネットで、「しているかどうか」を検索するとすべて「しているかどうか」だった。「しているのかどうか」を検索しても「しているかどうか」がたくさん出てきた。「の」を入れない方が自然なのかしら。ぼくの語感がおかしいのか。やはり「の」は入れない方がよいのか。どだろ。
いま日知庵から帰ってきた。これから寝るまで読書。ちょっとスピードが遅くなっている。アメリカ人作家と比べて、やはりイギリス人作家の方が読みにくい。同じ英語圏の作家なのにね。どうしてだろ。
二〇一八年三月二十一日 「断章」
個性は思い出と習慣によって作られる
(ヴァレリー全集カイエ篇6『自我と個性』滝田文彦訳)
二〇一八年三月二十二日 「バッド・アニマ」
目が覚めたので、コーヒーを淹れて飲んでいる。ちょっと、ぼうっとしている。完全に目が覚めたら、読書のつづきを。
西院のブレッズプラスで朝食を食べてこよう。
基地内でバーベキューしている詩を思いついたのだった。戦争については、こんな感じのものならたくさん書いてきたような気がする。居酒屋と戦地を交互に書いたり、戦地に同僚の先生が行ったりとか、戦争中に避暑地でゆっくりしているような詩を書いてきた。こんどのは基地のなかでのバーベキュー。
お昼ご飯を食べてなかった。王将にでも行くかな。
王将では焼きそばの大盛りと瓶ビールを食べ飲みした。今晩も、日知庵に行くけど、ちょっと遅めに行こうかな。イギリス人作家のアンソロジー『棄ててきた女』に時間をとられている。読み終えるまでに、あと数時間以上かかりそうだ。
BGMは紙ジャケのCDたち。いまかけてるのは、森園勝敏の『バッド・アニマ』ここちよいわ~。ビールで酔っぱらってるのもあるのかな。
いま日知庵から帰った。これから寝るまで読書。まだイギリス人作家の短篇集『棄てられた女』を読んでいる。あと2篇。おやすみ、グッジョブ!
二〇一八年三月二十三日 「きょうも飲んでた。」
いま日知庵から帰った。きょうは眠いので、読書せず、寝る。おやすみ、グッジョブ!
二〇一八年三月二十四日 「断章」
霊はすべておのれの家を作る。だがやがて家が霊を閉じこめるようになる。
(エマソン『運命』酒本雅之訳)
二〇一八年三月二十五日 「エソルド座の怪人」
いま日知庵から帰ってきた。きょうもヨッパであるが、このようなヨッパもきょうで終わりである。あしたからノンアルコールの日々がつづく。寝るまえの読書は、早川書房・異端作家短篇集・第20弾・アンソロジー/世界篇『エソルド座の怪人』のつづき。
二〇一八年三月二十六日 「夜更けのエントロピー」
きょうはお医者さんに行ってきた。大谷良太くんとばったり会って、コンビニのまえのカフェコーナーで話をした。きょうは、これから寝るまで読書。奇想コレクションまで辿り着くかどうか。まあ、とりあえず、お風呂に入ろう。
きょうから再読は、河出書房新社の奇想コレクション、まずは第一弾のダン・シモンズの短篇集『夜更けのエントロピー』。シモンズといえば、ハイペリオンのシリーズ全8巻が圧巻だったけれど、読み直しはしないと思って、友だちに譲った。おもしろかったんだけどね、なにしろ長いしね。読み直しは無理。
柴田 望さんから、詩誌『フラジゃイル』第2号を送っていただいた。吉増剛造さん特集なんですね。初投稿作品をユリイカの1989年8月号の投稿欄に選んでいただいたのが縁で、何度かお会いしたり、書簡のやりとりをした記憶がある。ぼくは忘恩の徒なのでそういったやりとりはすぐになくなったけれど。
活字の大きさかな。奇想コレクションのほうが読みやすい。
二〇一八年三月二十七日 「荒木時彦くんと杉中昌樹さん」
荒木時彦くんから『NOTE 003』を送ってもらった。すごく読みやすく、ここちよい文体で、内容もよかった。この道をどこまで歩むんだろうか。
杉中昌樹さんから、ぼくの詩のゲラを送っていただいて、自分の詩をもう一度、読み直す。何回も詩句を訂正していただいたおかげで完璧なゲラだった。まるで詩のお手本のような作品だった。自分で言うけど、笑。
めっちゃかたいうんこだったので、十分くらいトイレでしゃがんでいた。小さい子どものときにもかたいうんこで、長いことしゃがんでいたことを思い出した。一年ほどまえまでは、やわらかいうんこばかりで、お腹が悪いのかなと思っていたのだけれど、さいきんずっと、うんこがかたい。いいことなのかな。
さいきん阪急電車がしじゅう人身事故でとまっている。ひとが死にたくなる気持ちは、ぼくにもわかる。もっと楽な死に方を選べる社会になればいいのに。安楽死は、いっぱん人にも適応するべきだと思う。
杉中昌樹さんが送ってくださったゲラを読み返していたら、どうも音がおかしいところが2か所あったので、お送りした原稿と比較すると、一文字抜けていたのと、一文字かわっていた場所があって、びっくりした。電子データのやりとりで、こんなことが起こるなんて不思議。いまメールで訂正をお願いした。
きょうは、とてもおいしいお肉が食べれたので、幸福の笑顔で眠りにつくことだろうと思う。57歳にしてようやく傑作が書けたのかと思うと、笑みがこぼれる。齢をとることにも意味があるのだ。顔は醜く、身体からは筋肉が落ちようとも、才能だけは涸れることがないことを知れて、ほんとうにうれしい。
おびただしい痛みどめが部屋のなかにある。おびただしい本が部屋のなかにある。おびただしい思い出が部屋のなかにある。ぼくの写真には傷がない。一か月前にはお岩さんのような傷があったのに。ただたんに、うつくしいことがしたかっただけなのだけれど。どんなにうつくしいことだったのだろうか……。
杉中昌樹さんの詩誌でホラティウス特集をなさるらしくて、ホラティウスにちなんだ作品を書くことになった。ホラティウスは、ぼくの大好きな詩人で、玉川大学出版部から出ている、鈴木一郎さんが訳された全詩集を持っていて、ゲラゲラ笑いながら読んだ記憶がある。他の詩人の悪口詩とかレシピ詩とかね。
二〇一八年三月二十八日 「2足の靴」
新学期にそなえて、2足、靴を買ってきた。
杉中昌樹さんがはじめられる詩誌、世界の詩人をテーマに展開されていくご様子。日本語になった外国の詩人の作品をぼくもほとんど読んでいるので、できるかぎりすべての号で作品を書かせていただくつもりである。さいしょの号の特集はホラティウス。ほとんどあらゆるものを題材に詩を書いた詩人である。
二〇一八年三月二十九日 「人身事故」
きょうも阪急電車、人身事故で遅れてた。ほんとうに、楽に死ねる方法や法律があればいいのになあと思う。電車に飛び込む勇気が、ぼくにはない。ずいぶんむかし、勝手に足が線路の方へ動いたことがあって、びっくりしたことがあるけど。無意識に死を望んでいたのだろうと思う。遠い昔のことだけれど。
でも、そのとき死んでたら、こんど、ユリイカの5月号に掲載される傑作の詩を書くことができなかったのだと思うと、生き延びなければならないのだと、つくづく思う。
二〇一八年三月三十日 「断章」
創造者であるとともに被創造物でもある。
(ブライアン・W・オールディス『讃美歌百番』浅倉久志訳)
二〇一八年三月三十一日 「バンコクに死す」
いま日知庵から帰ってきた。ダン・シモンズの短篇集『夜更けのエントロピー』収録さいごの「バンコクに死す」を読みながら寝る。やっぱり、早川書房の異端作家短篇集より、河出書房新社の奇想コレクションのほうがおもしろい。