第十巻七十二番
板谷みきょう
一九九九年、七の月
空から恐怖の大王が降ってくる
精神病院は
過熱し続ける人類滅亡報道に耐えきれず
心を壊し精神を病む人が増えていた
七月二十七日は
閉鎖病棟の夜勤だった
詰所を挟んで
男子病棟と女子病棟が別れており
0時のオムツ交換を終えて
女子病棟から詰所に
介護士が戻って来る後ろを
三十路前の女子患者が血相を変えて
追い駆けてきた
顔色は青褪め
何故か汗だくで
口角には泡を蓄えていた
「板谷さん!今夜です!
地球が滅びます!
お告げがありました。
早く、みんなを起こして
安全な場所に避難しないと…」
そう言うが早いか
すぐさま病棟に戻り
各部屋を回り大声で
他の入院患者を
起こし始めたのだ
夜勤の医師に状況を報告すると
強い鎮静効果のある薬の
服薬指示が出たので
彼女を呼び薬を飲ませ
それから
詰所の処置台に座らせて
薬の効果が出るまで
彼女の話を聞いた
眼差しが虚ろになり始め
うつらうつらしてきたので
彼女のベッドに誘導し
介助して寝かせた
彼女の不安を取り除くために
カーテンの揺れや
夜空の月や星の位置を
指し示しながら
ボクは
「地球滅亡を避ける為に
アンゴルモアの大王と神が戦っている。
神が負ける訳が無いから安心して
休みなさい。」と告げた
暑い夜だった
しかし
その十五分後に女子病棟から
「逃げて―!助けてー!」の
叫び声が響き渡った
覚醒した患者たちが
詰所前のデイルームに集まり始め
「板谷さん。佐々木さん
状態悪いわ。おかしいよ。」と
訴え始めた
再び夜勤の当直医に電話をしたが
医師は
「じゃあ。注射して。」と
強い抗不安剤の筋肉注射と
強い鎮静効果の静脈注射の
指示を出すだけで
病棟で診察する気は
無いようだった
言われた通りに
彼女に処置をして
ぐったりと寝た彼女を抱え
集まっていた他患には
「先生の指示で注射したから
落ち着くと思うけど
折角、寝ていたのに
起こしてしまって御免ね。」と言って
就床を勧めた
なのに
彼女は1時間もしないうちに覚醒し
ふらふらになりながら
掠れた声で各病室に入り
寝ている患者を揺り起こし始めた
当直医に状況を報告したが
これ以上は薬は使えないから
保護室に入れるように指示が出されたが
急性期の症状の患者で
保護室の空きは無い
医師は
眠た気げな声で
「じゃぁ、板谷君が詰所で看てて。」
と電話を切った
彼女を詰所の処置台に座らせ
時には横にしながら
怯えるて話す地球滅亡の話を聞き
「逃げなきゃ!」と衝動的な行動を制止し
明け方まで
月が流れた雲に隠れたから大丈夫
庭の木の葉が風に揺れてるから大丈夫
と思いつく限りにアレが安全だと云う
神のサインだと話し続けた
起床時間の六時に当直医が来て
ボクは
通常のルーチンワークを始めた
夜勤明けて出勤した時に
院長に
妄想に付き合い続けたことの件で
院長室に呼ばれた
「妄想に付き合うのは楽しいか。
君が妄想世界に入ったら
現実に戻って来れる程の
強い精神を持っているように
思えない。」
そんなことを言われた後
「君と話をしたことで
彼女の妄想気分が訂正不可能な
確固たる妄想に
発展した可能性がある。」と
言われた
彼女はその後
保護室に入れられ
抗妄想剤が中心の薬に変更され
治療改善するのに
一年以上が掛かり
何とか回復し閉鎖の一般病棟に
戻れたのは
二千年に入ってからだった
ノストラダムスの大予言で
不安感から体調を崩し
精神科に通院した人達の
多かったことを知る人は少ない