This is a pen
やまうちあつし
そのペンは眠っている、と聞いた。なるほど、ノートの上をなぞっ
てみても、言葉や文字はおろかちょっとした線や円すら描くことが
できない。インクが切れているのか、ペン先がつまっているのか。
文具店や職人に見てもらっても、何の異常もない。歴代の持ち主た
ちはそんな代物を、どうして大切に受け継いできたのか。それは重
厚で気品ある外見と、文字通り〈眠っていること〉が理由であった。
あるときそれは訪れる。ペンの持ち主は、そこはかとない違和感を
察知して、ひとしきりあたりを見渡す。ふと目を止めたのは、譲り
受けてから眠り続けたままの、一本のペン。まさか、と思ってキャ
ップを外し、紙の上を走らせる。書ける。今日は目を覚ましている。
堰を切ったように
次々と溢れ出す言葉たち
今日のこと
昨日のこと
明日のこと
かなしいこと
やさしいこと
やましいこと
その果ての
うつくしいこと
その成れの果ての
みにくいこと
心について
身体について
おまえについて
あなたについて
この世であった
すべてのことと
この世でなかった
すべてのことと
あらゆる悔恨
あらゆる賛美
あらゆる誹謗
あらゆる希望
持ち主が書いているのか
ペンが書いているのか
もはや誰にもわかりはしない
おお神よ
紙が足りない
おお紙よ
ノートからはみ出す
リビングからはみ出す
地球の上に書くしかない
地平線まで届くしかない
書ける
駆ける
オオカミよ
爪と牙と比喩
遠吠えとオノマトペ
一行の詩のために死ねるか
死ね
死ね
詩ね
詩ね
そして最後に
その者の名を
ちょうどその時
ペンはカラリ、と
地上に落ちた
空が白み始め
部屋には一人と一本が
横たわっている
どこかで誰かの声がする
眠っていたのは
ペンではなかろう
それ以後、ペンは目覚めていない。書き記された言葉の数々は耳目
を集め、人口に膾炙する。多くの人がそれに救われ、奮い立ち、絶
望し、創作意欲をかきたてられた。持ち主はペンの次なる目覚めを
待ち続け、その後の一生を棒に振る。やがて病に倒れ、いよいよ間
に合わないと悟ったときだ。信頼に足る若い同業者を呼びつけ、か
つて自分がそうされたのと同じように、有無を言わさず指名する。
机の上に一本のペンがある。ペンは寝息一つ立てずに眠っている。
いつの日か、不意に目を覚ますときが来るだろう。時季を逃さず、
目覚めの瞬間に立ち会わなくてはならない。職業を、詩人という。