灰燼から這い出る
幽霊

さて、読者のあなた。私は筆者です。これから主人公が遠い眠りから目を覚まします。そこで私は扉を開けておきました。そうでもしなければ主人公の彼は、素晴らしい外に出ることはないでしょうから。彼は引きこもりです。
 ある町にぽつんと、小さな山があります。その小さな山に寄り添う一軒のアパートもまた孤児のようです。彼の部屋には、その小さな山のせいでしょうか、夏にはよく虫が姿を見せます。ムカデに蜘蛛、そしてゴキブリ。彼は病的にゴキブリを嫌いました。
 彼の部屋には怠惰な朝に捨て損ねたゴミ袋が放られています。そのゴミ袋をゴキブリが這いずる音は彼の鼓膜に録音されて消えません。ポストの中には期限切れの請求書と、思いがけない幸福を知らせる手紙が、埃と昆虫の糞で汚れたままです。彼が自らの手で緑の明るいカーテンを引っ剥がした日があった。代わりに遮光カーテンをぶら下げた。そして机の引き出しの中は流産した小説の墓場。
 彼の友人Y曰く、「あいつは行動力がないんだよな、見ててイライラする。」友人Yは遠い空を睨みながら、東京駅行きのきっぷを撫でてそう言いました。そして友人Yは時間の狂った腕時計を一瞥してせかせかと去りました。
 彼の知人W曰く、「彼は慎重過ぎるなぁ、完璧主義の潔癖症が彼を縛ってる。色々と考えすぎて…でも書き始めたら良い感じになると思うけど…。」知人Wはタロットカードをシャッフルしながら、そう答えました。そして知人Wはめくった一枚のカードを見つめながら、古い埃を舞いあげる風のように去りました。
 彼の知人……いや彼のことを知る人間はこれ以上いなかった。
 彼は今、部屋の冷たい床にぐったりと横たわっています。やはり彼はつまらない男なのでしょう。しかしもう目覚めます。今日は優秀な天気予報が外れまして、素晴らしい快晴です。読者のあなた、遮光カーテンにくるまれた闇から陽の光を浴びる彼に、どうか祝福の拍手をしていただきたい。

 明るい。僕は目を覚ました。しかし良い目覚めだ。気分が良い。体を起こして目の前の扉が開いている。その四角い光の中に、僕は無性に体を入れたくなった。そうして僕は立ち上がって、外に入った。
 なんと燦々とした世界なのだろうか。陽の光は僕の体の中を通り抜けて悪いものをすべて焼き払ってくれている。僕が産まれ直したようだ。まるで存在していることそれ自体に万雷の拍手を受けている気がする。僕は気分が良い!
 歩き出して気がついた、体が軽い。まるで浮いてるようだ。肉体を部屋に置いてきたようだ。とりあえず歩きたくて歩いている。こんなことは久しぶりだ。これは嬉しい。いやもっと嬉しかった。
 並木道の木漏れ日が美しいと思った、これが美しいということなのだと思った。木にしがみついている蝉が赤ん坊のように鳴いている気がした。僕は道端に転がった蝉ばかりを見て生きていた。
 前方から歩いてくる少女が明らかに美しい。夏の光が清水のような少女を必ず美しくする、と知った。初めて見る少女。なぜかあの少女、あの前から歩み寄ってくる美しい少女が僕に抱きついてくるのではないか、と思った。これはなんとなくの予感というよりも確信だ。得体の知れない確信。それはまるで夢を見ているときに、なぜか知っている予備知識のような得体の知れない確信。そうして僕はあの透き通った清水のような少女に抱き締められたときにすべてが洗われると思った。嬉しくなった。
 美しい少女は通り過ぎた。幸せだ。今の僕は気分が良い!。今の僕は美しい少女の方を未練がましく振り返ることもなく歩き進めている。僕は笑みを浮かべてた。驚くほどに幸福である。
 夏のエネルギーが忌憚なく僕を打ちつける。今は朝なんだ。出勤する社会人に通学する学生。車輪や足が青信号の許しを得て行き交う。すると突然、車輪!自転車が僕に突っ込んできた。僕は咄嗟に身を翻して躱した。自転車に乗った女学生は何事も無かったように走り去っていった。
 しかしなんということだろう。僕に一瞥もなく去った彼女には愛おしさしかない。今までの僕では考えられない。些かの憤りすら感じない。僕は明らかに彼女の幸福を祈っている。彼女のすべてが素晴らしい。
 古い家屋が建ち並ぶ細い道に入っていた。先程の少女みたいな川が流れている、やはり夏の陽光は川を美しくすると豪信した。亀が水面にちょこんと顔を覗かせている。小魚たちがせせらぎにそよいでいる。しかし僕がいくら近寄っても逃げない。蝉も逃げない。猫が無防備に僕の隣を通り過ぎた。不意に僕は感動してしまった。僕はうっかり天国にいるのだと思った。
 僕は想った、小説を書こうと。机の上に放り出したあの書きかけを書こう。たしか、「焼死」という題名だったはずだ。「孵化」に変えて書こう。あの部屋に帰って書こう。それにしても気分が良い。
 僕は今、すっかり澄み切っている。これまで僕の頭の中には重い靄がぐったりと立ち込めていた。僕は何度も頭を振った。犬のようにぶるぶると。まったく無駄で、重い靄は常に図太く居座った。そうして僕はぼぅっとしてしまう、常に。小説などはそれにより書けなかった。一文を書くのに肉体が裏返るほどに悶えて捻り出す。苦しい。あるとき、ハッと息苦しいことに気がついて、僕は呼吸が止まっていたのだ。これは内側からやって来る小刻みな死であった。僕は肺を使って自らを救命する。
 
 僕は裸足であったことに気がついた。玄関には僕の靴があったのだ。びっくりした。再びこの部屋に戻ってきた僕は遮光カーテンを思い切り開いてやろうと思う。そして素晴らしい陽の光に、この部屋の憂鬱も焼き払ってもらおうと思う。なぜなら僕は今、すこぶる気分が良いからだ。そうして僕がこの部屋で見たのは、僕の死体であった。

 あぁ死んでいる。すっかり死んでいる。床にはタロットカードが散らばっていて、彼を弔う花のようである。そして僕は悲しくなかった。そうだ僕は彼を殺した。僕は良い自殺をしたのだ。そうして彼の死体にゴキブリが一匹たりとも這っていないのは神の祝福なのだろう。
 机の上に注目した。そうであった、書きかけの小説。覗いてみると、書き上がっていた、「孵化」
 僕は新しい小説を書きたくなった。開かれた重い扉の向こうからは、恐る恐る陽の光が入ってきて闇と闘っている。仄暗い部屋に僕は確かに立っている、そして後ろ姿はどのようなものだろうか。素晴らしい陽の光が、仄かに透かした背中は静かな力に満ちているだろうか。
 僕は振り返って、読者のあなたと筆者をじっと見つめる。僕は笑っているでしょう?僕の気分はそれだけ良いのですよ。

 


散文(批評随筆小説等) 灰燼から這い出る Copyright 幽霊 2021-08-13 04:36:00
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