パタニティ
葉leaf
私は父である、という定義がむなしくこだまする。名前はまだない、と途端に心が大声で叫ぶ。私は父である、ゆえにこれまで子の妊娠、出生、生育に一喜一憂しながら螺旋階段を登りつめた。後戻りができず強い太陽が照りつける螺旋階段を。だが、育児をする、ケアをするということに関して、こちらの方が赤ん坊のようなものだ。私は赤ん坊を育てる、同時に赤ん坊としての私も育つ。私はもう一度赤ん坊に戻ることのもたらす無力感のもとに焦燥する。私はまだ名前がないのだ。私はまだ育児や家事をすることによって獲得する実質としての父性を持たない。父としての名前を持たないまま、来るべき家事、育児の予測できなさの前に震撼している。私は幸せである、しかし同時に憂鬱でもある。幸せと憂鬱が矛盾しないでいるこの状態を何と呼ぶか、そう、パタニティブルー。